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第54回 「幸い」な人とは誰か

聖書=マタイ福音書5章7-12節

憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 

 この個所は、主イエスの語られた「山上の説教」の後半部分ですが、前半部分から継続しての話とします。この「山上の説教」には、9つの「幸い」が語られています。しかし、これらの「幸い」は、普通、わたしたちが考える幸福とは大きな違いがあります。「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「ののしられ、迫害され、悪口を浴びせられる人」が「幸いである」というのです。普通の世の基準から見たら、どうしてこれらが幸いと言えるのか、分からないでしょう。

 実は、ここでは「幸い」が逆転しているのです。罪のために神から離れた世界には、最早真の幸いはないと言っていいでしょう。主イエスはこの世界の罪の深さと悲惨とを見つめて、まったく違う視点から、「神に在る幸い」を物語っておられるのです。一言で言えば、神の視点からの幸いなのです。

 「心の貧しい人」とは、すべてのおごりや高ぶりが奪われ、神にだけしか頼るもののない姿です。「悲しむ人」とは、罪のゆえに神との活ける交わりが失われて嘆き悲しむ人のことです。「柔和な人」とは、力で人を押しのけて生きようとしない人のことです。「義に飢え渇く人々」とは、この世の正義を追求する人のことではなく、自分の内に義が欠けていることを認めて神の義を求める人のことです。「憐れみ深い人」とは、神の御心が実現することを願う人のことです。「心の清い人」とは、神を求めて生きる心の謙遜さです。「平和を実現する人」とは、なによりも神との平和、神との和解をもたらす人のことです。「ののしられ、迫害され、悪口を浴びせられる人」とは、この世界から追放され、処刑されるような人のことです。

 これらの祝福のリストを見て、よくよく吟味すると、わたしたちは、どれ1つをとっても不適格であり、落第であることが明らかです。むしろ、わたしたちは、このようなことに価値を見いだすことなく、自分勝手な幸福を追求して生きているのではないでしょうか。お金を儲け、地位を求め、欲望を充足させることが幸福なのだと考えているのではないでしょうか。

 堕落し、罪に陥ったこの世界の中で、ここに語られている「幸い」に本当に適格と言えるのは、ただイエス・キリストお一人だけだと言っていいでしょう。この「幸いの言葉」の中に、キリストのお姿を見いだすのでないと、この「幸いの言葉」は永遠の謎となるでしょう。キリストだけが、人の罪の深さと悲惨さに心からおののき、神と人との断絶を悲しみ、神の義が貫かれることを心から願い、神と人との真の平和、和解をもたらせてくださったのです。真の幸いは、キリストの中にだけあるのです。

 主イエスは、この「幸い」をキリストを信じ、キリストに従う弟子たちに語られました。キリストを信じ、キリストに結ばれて、本来は不適格、無資格であったわたしたちも、この「幸い」にあずかれるのです。山上の説教の示す幸いは、キリスト抜きの幸いではなく、キリストを信じて生きるところで与えられる「幸い」なのです。キリストを信じて、このような「幸い」に生きようではありませんか。