第52回 「幸い」を造るイエス

聖書=マタイ福音書5章1-6節

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

 

 この個所は、昔から「山上の垂訓」と言われてきた有名なところです。しばしば道徳的な教訓のように考えられています。しかし、救いの恵みを宣べ伝える主イエスの説教なのです。この個所はしばしば旧約のシナイ山でモーセが律法を授けられた出来事と対比されますが、主イエスの山上の説教はまったく違う光景です。ガリラヤ湖畔の小高い丘のような山です。モーセ一人が山に登ったのとは違います。主イエスはお一人ではなく、弟子たちや群衆と言われている一般の人たちも一緒に、主を取り囲んで和やかに座っています。

 まことに和やかな交わりの中で、主イエスはここで、モーセによって与えられた古い律法に代わって、新しい律法・神の国に生きる者への生き方を示されたのです。キリストの弟子、キリストに従って生きようと願っている人たちに、わたしのあとについて来る者は、このような神と人との関係に入るのだ、このような人と人との関係に入るのだ、とキリストを信じて生きる新しい生活の在り方について教えられたところです。主イエスは、先の4章で「わたしについて来なさい」と、弟子たちを招かれました。そして、ここでその弟子たちに「わたしについて来る者の生活は、このようなものなのだ」と語られているのです。

 主イエスが最初に語られたのは「幸いである」という言葉でした。主イエスに従って生きることは、「幸いな生活」なのだと言われたのです。祝福の言葉です。主イエスは「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」などを「幸いである」と言われました。この世の考え方、この世の基準から考えたら、およそ幸いとは言えないような人たちです。主イエスはなぜ、このように言われたのでしょうか。

 それは「幸い」の基準が違うからです。ものが有り余り、物欲が支配し、人を押しのけて自分中心に生きる生き方が幸いなのではありません。真理であるキリストが、その生活の中に生きているような人たちが「幸いなのだ」と言われたのです。わたしたちの生きることが、永遠につながるものでなければ本当の幸いとは言えないのではないでしょうか。人生途上で失われたり、消えてしまうようなものでは、本当の幸いとは言えないのです。まことの幸いは、主イエスが造り出し、与えてくださるのです。

 主イエスは、「わたしについて来なさい」と言われます。この主イエスに従って生きるところに、幸いがあるからです。この世的なものの考え方では、主イエスに従うことは必ずしも幸福を得る道ではないかもしれません。貧しさも経験するでしょう。悲哀を経験することもあります。人から軽んじられることもあります。わたしたちを取り巻く社会は圧倒的な不義の世界です。しかし、主イエスがおられるところで、そのような貧しさも悲哀も義に飢え渇くことも、祝福に変えられるのです。

 このことを、キリストご自身がその十字架において示してくださいました。主イエスは人の子として貧しさの中に生き、弟子たちにさえ裏切られる悲哀を味わい、罪なくして犯罪人の担う十字架を甘受なさいました。主イエスは、この十字架において、主イエスに従う者たちへのまことの幸いを形造ってくださったのです。主イエスは、この山上における説教で、わたしたちがまことの幸いに生きる道を教え、切り開いてくださったのです。