第51回 わたしについて来なさい

聖書=マタイ福音書4章18-22節

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 

 主イエスが人を救いに招くお働きの代表的な出来事がここに記されています。今回は、主イエスがわたしたちを弟子として召される道筋を見てまいります。

 イエスが最初に弟子として召されたのはガリラヤ湖の漁師たちでした。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの二組の兄弟たちでした。彼らはガリラヤ湖で漁師として生計を立てていました。彼らがそれぞれの仕事に熱心に働き、生活のために励んでいる最中に、主イエスは呼びかけられたのです。彼らは思いもかけない時に、主イエスの呼びかけの声を聞いたのです。わたしたちも同様ではないでしょうか。最初からキリストに従おうと願う人などおりません。神さまよりも仕事やお金儲け、趣味やレジャーが大事という人がほとんどでしょう。しかし、主イエスは、このような普通の人たちを弟子として招いておられるのです。

 主イエスはこの人たちに「わたしについて来なさい」とお命じになりました。キリストとのかかわりは、この主イエスの招きの言葉を聞くことから始まります。信仰は人格的な服従です。「聞きなさい」でも、「学びなさい」でもありません。勿論、信仰を持つためにはある一定の知識を持つことも必要です。ハイデルベルク信仰問答の問21で「まことの信仰とは何ですか」と問います。答は「神が御言葉において、わたしたちに啓示されたことをすべて真実であると確信するその確かな認識…」と記すとおりです。しかしなお、それは信仰の前提に過ぎません。その確かな認識に基づいて、主イエスに心から信頼して従うことなのです。

 主イエスは、この4人の人たちに細かなことを物語って納得させようともなさいません。ただ「わたしについて来なさい」とだけ言われたのです。4人の兄弟たちにとって、イエスの言葉を受け入れるか、受け入れないか、信じて従うか、信じないか、だけでありました。信仰は、つまるところ、このような決断にかかっていると言えるでしょう。彼ら4人は、目の前に立つ主イエスのまなざしと御言葉、その人となりとを信頼して、信じる、従う、と決断したのです。このようにして、彼らは主イエスの弟子となりました。この弟子となった者たちを、主イエスはこれから教育し、訓練されたのです。わたしたちも、主イエスの招きの言葉を聞いています。信じて従うことが求められているのです。

 ここで、わたしたちは立ち止まってしまうかもしれません。「今のわたしは、キリストの弟子にふさわしくない」、「果たして、生涯、信じ続けることが出来るだろうか」と、考え込んでしまう。けれども、主イエスは弟子となる者たちの品性や能力、資質などについて一言も言われていません。主イエスは、「もし、生涯信じ続けられるなら、わたしについて来なさい」とはおっしゃっておられません。

 驚くべきことですが、このようにして主イエスに招かれた弟子たちがほとんど一度と言わずに失敗していることです。しかし、主は失敗を責めません。繰り返し失敗しても、主イエスは招きに応えて従うことを求めておられます。わたしたちも思い煩いや取り越し苦労を捨てて、主イエスの招きに応えてまいりましょう。主の招きに応えて従うことが、信仰であり、主の弟子となる道なのです。