第46回 罪人の仲間になったイエス

聖書=マタイ福音書3章13-17節

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 

 今回は、主イエスが受けた洗礼についてお話ししましょう。この個所にイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事が記されています。イエスが洗礼を受けたことは当然のことだろう、と思うかもしれません。実はたいへん驚くべきことなのです。新約聖書では、イエスについて「罪と何のかかわりもない方」(Ⅱコリント書5:21)、「御子には罪がありません」(Ⅰヨハネ書3:5)、「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(Ⅰペトロ書2:22)、と述べています。悔い改めるべき罪が何1つないお方がイエスなのです。

 他方、洗礼者ヨハネが宣べ伝えていたのは「悔い改め」で、悔い改めのための洗礼を行っていたのです。多くの人々は「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」のです。この洗礼を受ける者たちの列に、罪を犯したことがなく、悔い改めるべき罪のないお方が「彼から洗礼を受けるため」に並ばれたのです。なぜ、でしょうか。

 洗礼者ヨハネも、思いとどまらせようとして言います。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と。するとイエスはお答えになりました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と。「正しいことをすべて行う」とは、義を満たすということです。聖書の語る「義」は、いわゆる正義とは異なります。神の義は神の救いの道筋です。神が人間の救いを計画し、契約を結び、その計画と契約に従って行為してくださる神の救いの道筋が「義」なのです。イエスが「正しいことをすべて行う」(すべての義を満たす)と言われたことは、罪人を救うための計画と契約とを実現するということです。

 主イエスが「悔い改めの洗礼」を受けられたのは、第1に神の救いのご計画、神の御心への服従からです。救い主として、罪人を救う神のご意志と救いの道筋に服されたのです。第2に主イエスにとり「神の義を満たす」ことは、イザヤ書53章の苦難を受ける僕の務めを引き受けることでした。イザヤ書53章12節を受け止めて、新約では「彼は罪人(犯罪人・不法な者たち)の一人に数えられた」(ルカ福音書22:37)と記しています。

 マタイ福音書の最初の系図から学んだことは、わたしたちの救い主が罪に汚れた系図を担ってお生まれになったということでした。そして今、罪人の列の中に加わって悔い改めの洗礼を受けることが「我々にふさわしいことです」と言われたのです。このようにして、イエスはここから、ご自分を罪人の立場に置き、すべての人の罪を自分の罪として担い、罪人の仲間になってくださったのです。「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(ローマ書8:3)。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(Ⅱコリント書5:21)。これが神の救いのご計画の道筋なのです。

 イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けると、2つのことが起こりました。1つは、天が開け、神の霊が鳩のような形をとってイエスの上に降ったことです。イエスの上に、イエスと共に、神の霊が臨在するということです。「神、共にいます」ことが明示されたのです。2つは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえたことです。「愛する」とは、選ぶ、支持する、という意味を持ち、父なる神との特別な関係を示す言葉です。父なる神に愛され、支持される存在であり、神の御心である救いの道を担う救い主、キリストとしての推薦・推挙の言葉です。この罪人の仲間になってくださった主イエス、救い主の元に身を寄せてまいりましょう。