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第42回 生ける神への慕情

聖書=詩編84編1-5節

万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら。

 

 いよいよ2019年の年末となりました。一年の歩みを振り返りながら、今回はこの旧約聖書の詩編84編から、わたしたちの人生の究極の目当て、あこがれについてお話しさせていただきます。ここには、今日、多くの人が見失っている人生のあこがれの対象が明確に語られているのです。ここには、この旧約詩編の作者にとっての人生の最高の目当て、最高の喜びが語られ、歌われているのです。それは生ける神を礼拝すること、神を礼拝する場に身を置くことです。

 もう数年前のことです。以前に奉仕していた教会のある姉妹を訪問させていただきました。その方は、教会で執事として長くご奉仕くださいました。彼女の奉仕によって、教会もわたしもたいへん助けられました。今は、ご夫君を天に送り、特別養護老人ホームで過ごしておられます。キリスト教の施設ですから、このように毎日、チャペルがあります。

 しかし、その方は、わたしの顔を見るなり、「教会に行きたい」と言われました。その方は、教会を我が家のように愛していろいろな奉仕を担ってくださいました。讃美歌を大きな声で歌って礼拝をリードしてくださいました。その礼拝の場に、「もう一度、身を置きたい」と言われた。この方にとっては、人生の最高の喜びを教会の礼拝に見いだしていたのです。

 ただ今、お読みいただきました詩編84編は、エルサレムの神殿での神礼拝を切望する「巡礼の歌」と言われています。たぶん仮庵の祭りの時に歌われたものと思われます。この詩がいつ頃に作られたのかは多少議論があります。聖書の学者たちは、紀元前597年の第1回バビロン捕囚の時に、異邦の地バビロンに捕らえ移された捕囚の民の作品ではないかと考えています。

 最早、エルサレムの神殿が崩壊し、我が身は遠い捕囚の地・バビロンに捕らえ移されている故に、かえって切実に神殿での神礼拝が渇望されているのです。この詩編は、失われた神殿礼拝への渇望が歌われている、と言っていいでしょう。

 「万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう」。直訳すると、「万軍の主よ、あなたの住まいはなんとアットホームなのでしょう」となります。何と居心地がいいところでしょうか。そこは、わたしの本当の心の故郷です。こういう意味です。

 「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます」。「慕う」とは、「あこがれ、思い焦がれる」という意味の言葉です。まるで恋人を想い焦がれ、あこがれるように、神殿での神礼拝の情景を追憶しているのです。神殿でかつて献げた礼拝を懐かしく追想しているのです。

 「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています」。この句を、神殿が崩壊し、その跡地が荒れ果てて、今は鳥の住み家となっているとネガティブに理解するか、それとも鳥が住み家を得て、その住み家で雛は安心して身を置いている、そのような居場所が「あなたの祭壇である」と理解するか、解釈者によって分かれます。

 わたしは、後者の理解を取りたいと思います。雛鳥が安心して身を置くことのできる巣のように、あなたの祭壇は、わたしが安心して身を寄せることの出来るわたしの居場所です、わたしの住み家なのです、と歌っている。わたしはそう理解したい。

 この詩の作者の神殿での礼拝に対する熱心な慕い方、その慕情は、単なる神殿の建物への追憶でなく、そこにいます「生ける神への慕情」なのです。今日、わたしたちは、このような熱い想いをもって、神を慕い求め、神を礼拝することを求めているだろうか。わたしたちもこの詩編の詩人と同じように、神を礼拝する場に、我が身を置くことを、我が人生の目当てとしたいものです。神を礼拝することを、人生の最高の喜びとしてまいりたいと願っています。