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第38回 イエスの系図から学ぶ

聖書=マタイ福音書1章1-17節

アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

 

 今回から少しずつ新約聖書の福音書から順番に取り扱っていこうと思います。「マタイによる福音書」です。おそらく聖書を読もうと思い定めた人が最初に目にするのが、上記の「系図」ではないでしょうか。見知らぬ人名がおよそ1ページにわたって記されています。聖書を読もうと思った人の志を挫くところです。わたしも初めてこの箇所を目にした時、数ヶ月放置していました。

 読み物、小説などは、最初の出だしの1行が肝心です。読む人の心を奪うような魅力的な文章でなければ、その後を読み続けてもらえません。なぜ、新約聖書はこのような系図から始まるのでしょうか。まるで、読む人の興味を削ぐような書き出しです。「マタイ福音書」が一番古い福音書だからでしょうか。決してそうではありません。4つの福音書の中では、一番古いのは「マルコ福音書」ではないかと言われています。

 実は、マタイ福音書が新約聖書の最初に置かれたのは理由があります。それは新約聖書の前に置かれている「旧約聖書」との連結器のような役割を担っているからです。前の列車と後ろの列車を堅く繋いで連結する、それが連結器です。この不思議な人名が羅列された系図は、その連結器の役割を果たしているのです。

 この系図で物語ろうとしているのは、神の民と言われるイスラエル民族の歴史なのです。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。イエス・キリストを生み出した長い長い歴史の物語が、それぞれの人名に込められているのです。その長い歴史を知るためには、分厚い旧約聖書を読むほかありません。見知らぬ人名による系図は、旧約聖書のショートカット版と言っていいでしょう。新約聖書は、このような長い旧約の歴史を踏まえて産まれたきた物だということなのです。

 これらの人名において示された系図において、何が語られているのでしょうか。第1に語ろうとしていることは、イエスというお方は「罪人の歴史の中にお生まれになった」ということです。ここに記されている系図は、おびただしい罪人の系図なのです。この系図に登場する一人ひとりをよく検証して見れば、今日のわたしたちと少しも変わりません。兄弟たちの醜い争いがあります。多くの姦淫があります。謀殺があります。異国の妻妾たちによってもたらされた偶像崇拝があります。アブラハム、イサクなど族長と呼ばれ尊敬された人たちでも罪と無関係ではありませんでした。彼らも不信仰になり、罪を犯し、家庭経営に失敗し、人を欺きました。

 この系図は、「あなたがたユダヤの民は、自分たちは神の民だと言い、系図を自慢にするけれど、この系図をよくご覧なさい。罪人の系図ではないか」と語っているのです。このことは、決してユダヤの民だけのことではありません。今日のわたしたちも同じ罪人の系図の中にあるのです。不信仰と偶像崇拝の民です。しかし、イエス・キリストというお方は、この罪人の系図を背負って生まれてこられたのです。すべての罪人の罪を背負うために、罪人の歴史の中に人として生まれてくださったのです。