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第31回 泣くことの幸い

聖書=ルカ福音書6章17-23節

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

 

 ここに記されている事柄は、マタイ福音書では「山上の説教」と言われています。ルカ福音書では「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」と記されています。主イエスは弟子たちを連れて山から下り、平地に立たれました。このため聴衆は弟子たちだけでなく「おびただしい民衆」もいます。主イエスは弟子たちだけでなく、多くの人を意識してお語りになっています。これがルカ福音書の状況設定です。

 「平らなところにお立ちになった」とは、場所の問題だけでなく、悩み、疲れ、病み、困窮した人々の生活の場に立たれたということです。主イエスは人々の生活の苦しみの場に立たれたのです。すると、切羽詰まった人々が待ち構えていたように取り囲みます。病む人、生活に困窮する人々があちこちから詰めかけました。異邦人も集まった。病み、困窮し、悲しみ歎くのはユダヤ人だけではありません。

 これらの人を見ながら、主イエスは不思議な言葉をお語りになります。「貧しい人々は、幸いである」、「今飢えている人々は、幸いである」、「今泣いている人々は、幸いである」。「ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」。たいへん不思議な言葉です。皆さん、そう思いませんか。愛する者が病気になった。家族の誰かが亡くなった。その悲しみのところにお訪ねしてみ言葉を語るのが牧師の務めです。しかし、その悲しみのところで、愛する者を亡くした家族に「おめでとう、今泣いている人々は、幸いである」と言ったとしたら、その後どうなるでしょうか。「あの牧師は非常識だ」と非難されるでしょう。

 世界のあちこちで戦いがあり、家を焼かれ、難民キャンプで過ごす人たちがいます。そこに行って「今飢えている人々は、幸いである」と語ることが出来るでしょうか。災害で家族を失い、仕事を失い、悲嘆の中にいる人、そういう人たちのところへ行って「今泣いている人々は、幸いである」と語ることが出来るでしょうか。わたしには語れません。

 主イエスが語られたこれらの「幸いである」という言葉は、わたしなどには語ることの出来ない言葉です。わたしが語ることの出来るのは、飢えないで生きることは幸いだ、泣かないで生きることが出来れば幸いだということです。これはわたしだけではないでしょう。その意味では、この主イエスのお言葉は普通の人間には口にすることの出来ない言葉と言っていいでしょう。主イエスを除いては口にすることの出来ない言葉です。

 しかし、位置を変えて、わたし自身が悲しみの中に身を置いた時には、このお言葉は大きな慰めを与えてくれるのです。わたしが貧しく途方に暮れた時、悲しみに泣く時、これらの言葉は豊かな慰めを与えてくれます。その意味でも、不思議な言葉です。わたしたちには語り得ない言葉ですが、わたしたちが悲しむ時には大きな慰めとなる言葉なのです。

 この主イエスの語られた「幸い」のみ言葉は、「神います」というところから考えていかねば理解できません。神を信じ、「神います」というところから考えると理解できるのです。非常識と思われる言葉を、慰めに満ちた言葉として語りうることの出来るお方が、主イエス・キリストです。主イエスは、なぜ、これらの人たちが幸いなのかをきちんと説明しておられます。

 それは「神がおられて、神が応えてくださる」ということです。「神の国はあなたがたのものである」と、主イエスは言われました。神の国とは神の恵みの支配のことです。神が、あなたに寄り添い、あなたをとらえて、あなたを祝福し、あなたを活かしてくださるのです。今、苦しみと悩みの中で生きている。しかし、そこに神が一緒にいてくださり、あなたを神の恵みの中にしっかりと生かしてくださるのです。その故に、幸いなのです。この幸いをしっかり受け止めてまいりましょう。