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第30回 ぶどうの房を損なうな

聖書=イザヤ書65章8節

主はこう言われる。ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな。そこには祝福があるから、と人は言う。わたしはわが僕らのために、すべてを損なうことはしない。

 

    秋、真っ盛りです。今回は、旧約聖書の預言者イザヤの言葉から「ぶどう」についてのお話しをさせていただきます。山梨県に育ったわたしの大好きな果物の1つはぶどうです。上記の言葉は、そのぶどうに係わりのある滋味溢れる聖書の言葉です。たいへん短い文章ですが深い意味が含められています。

 旧約聖書では、「ぶどう」についての記述が多くあります。それは「ぶどう」が、神の民、イスラエルを表すしるしのようなものだからです。ところが、この神の民が多くの罪を犯し、神の怒りを買うこととなりました。もう一度、読みましょう。旧約預言者イザヤの語った言葉です。「主はこう言われる。ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな。そこには祝福があるから、と人は言う。わたしはわが僕らのために、すべてを損なうことはしない」。神はイスラエルの民の中に罪があってもすべてを切り捨てない。少しでも善いものがあれば、決して損なわないと言われているのです。

 わたしたちは無意識に人を選り分けます。あの人は「イヤだ」と。仲のいい人、よく話を聴いてくれる人、趣味の合う人に対しては、本当に仲良くして、大切にします。反対に、意地悪されたり、仲間に入れてくれなかったり、話しかけても答えてくれないような人に対しては、嫌な思いがして、「なんだ、あいつ、嫌な奴だ」と、簡単に切って捨てがちです。

 自分の考え方に同調してくれない人や、ウマの合わない人、自分の示す好意や親切に応えてくれない人に出会うと、腹が立ち、遠ざけたり、無視してしまいます。しかし、これは悲しいことではないでしょうか。

 わたしたちが食べるぶどうの房はつやつやと輝いています。皮をむいて食べる。あるいは、皮のまま呑み込む。すると甘い汁が口の中一杯に広がります。「ああ、幸せ」、そんな思いがします。ところが、ここで預言者イザヤによって語られているぶどうの房は、実はわたしたちが捨ててしまうような見栄えのしないぶどうの房なのです。

 新共同訳では普通に「ぶどうの房」とだけ訳しています。しかし、ある旧約学者の翻訳では「萎びたようなぶどう」と訳しています。干からびた、萎びたようなぶどうの房を指しているとのことです。こんな萎びたぶどうの房は「こんなの、駄目」と言って捨ててしまう。取り入れもしないで放置してしまいます。

 しかし、預言者イザヤは、こんなに萎びたようなぶどうにも実は甘い汁があり、「それを破るな、損なうな。その中に祝福があるから」と教えているのです。どんなにつまらない、いらないと思われるものの中にも、実は尊い価値が潜んでいると語るのです。

 わたしたちは多くの場合、外見、見てくれで人を判断してしまうことが多いのではないでしょうか。しかし、自分の感情に動かされて、外見から人を切り捨てることのないように心がけたいものです。神は、どんな人の中にもすばらしい価値を与えておられるのです。病み、年老い、干からびたように見えるわたしたちをも、神は「あなたは大切だよ」、「貴重な宝だよ」と言っておられるのです。人はなかなかその価値を見つけられないだけなのです。

  ぶどうの房の中には、「貴腐ぶどう」というものがあります。ぶどうの品種のことではないようです。一見すると、まさに霜に当たって萎びて干からびたぶどうの姿です。しかし、その干からびて萎びたような貴腐ぶどうから出来るぶどう酒は絶品なのだと言われています。残念ながら、わたしもまだ飲んだことはありません。

 この干からび萎びて捨てられるようなぶどうの房は、わたしたちの姿ではないでしょうか。神は、病み、年老いたわたしたちを貴腐ぶどうのように大切に丁寧に取り扱って下さいます。神は、わたしたちをそこなわないで、大切に生かして用いて下さいます。ぶどうの一房を見る度に、罪人を切り捨てないで、活かして用いてくださる神の愛と恵みを深く知ってまいりたいと願っています。