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第27回 高齢者の幸い

聖書=旧約・イザヤ書46章3-4節

わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

 

    来週の9月16日は、「敬老の日」の祝日ですね。この聖書の個所から、「敬老」に関わる聖書のお話しをさせていただきます。私が伝道し牧会してきた教会では、9月15日の「敬老の日」の前の日曜日には毎年、礼拝の時に敬老の日のお祝いをしていました。日曜学校の子どもたちが自分たちでささやかなプレゼントを作り、それを礼拝の終わった後でお年寄りの方々に贈り、牧師が祝福の祈りを捧げる、という簡単なものです。

 現代は高齢化社会と言われ、お年寄りの数が多くなり、時に、高齢者が邪魔にされたり、敬遠されたりしがちです。私自身も後期高齢者と言われるようになりました。ああ、敬遠されているなあ、と感じることもあります。だれでも、若いときには元気ですが、年老いてくると肉体的にも精神的にも弱さを感じてきます。

 今日の日本社会では、とかくすると、老いることをマイナスのイメージでしか考えないのではないでしょうか。もう亡くなられましたが松下幸之助という方が、このようなことを記しておられます。「青年にはものごとを興し、創造していく力がある。しかし、その善し悪しを判別するためには、老人の体験を尊重することも大切である」。お年を召された方々には、若い人たちにはない落ち着いた判断力があります。高齢者の存在価値を確認することが、この敬老の日に必要なことなのではないかと考えています。

 聖書では、人が年老いることをマイナスとは決して見ていません。むしろ、聖書は長寿を神の祝福であると語ります。旧約聖書の箴言(しんげん)の中で、「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」。また「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳」と記されています。高齢者には存在価値があるだけのことではありません。人が年を取り、白髪となることは、長い間、神を信じて生きてきた生涯に対して、神が祝福しておられる結果であり、白髪はその人の冠なのだというのです。ですから、神は「あなたの父母を敬いなさい」と、命じているのです。

 それだけでなく、神は、年老いた人、高齢の人たちをしっかり守っていてくださいます。存在価値を認められても、年を取ると先行きの不安を感じます。力の弱さを感じることも多くなります。自分の力と才覚だけでは生活もできなくなります。なによりも、自分で聖書を読み、祈り、教会に通うという最も大切な信仰生活を送る力さえも失われてしまうのです。情けないなあ、と思うことさえもあります。

 しかし、神は、そのような中で高齢の者たちを守り支えてくださるのです。神が背負ってくださると約束されているのです。上記の旧約聖書のイザヤ書46章4節の御言葉です。「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。これは神の保証の言葉、約束の言葉です。

 神は、人をお造りになり、命を与えてくださいました。さらに主イエス・キリストによって私たちのすべての罪を赦してくださり、キリストを信ずる者としてくださいました。私たちに使命を与えて、神と隣人に仕えさせてくださいました。このような私たちの命と生涯を担ってくださる、背負ってくださると約束していてくださるのです。神は、私たちの人生の終わりを全うしてくださいます。どんな敬老のお祝いの品よりも遙かに優れた神の贈り物ではないでしょうか。私たちは、生涯を担ってくださる神を信じて、信仰の道を一筋に歩んでまいりたいものです。