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第26回 手を差し伸べる主

聖書=ルカ福音書5章12-14節

イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」

 

  今回は、イエスというお方は、心も体も病む者に手を差し伸べてくださるお方であることをお伝えしたいと願っています。上記の聖書箇所をお読みいただいたでしょうか。「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた」と記されます。イエスがある町の境界に差し掛かったときのことです。「重い皮膚病」の人に出会いました。「重い皮膚病」と訳されたこの病について分からないと、この出来事の意味は分からないと思います。旧約時代、この病は普通の病気と区別されていました。他の病気のように医者にかかって治れば「よかったね」と言って、それでお仕舞いになる病気ではありませんでした。

 本人も「わたしを清くしてほしい」と願い、イエスも「清くなれ」と言われました。「清い」という言葉は神に近づきうる、礼拝に参加できるということです。この重い皮膚病の人は肉体的にも病んでいました。しかし、それ以上に「孤独」という魂の病にも冒されていたのです。当時、この重い皮膚病と見なされた人は社会的な交わりから閉め出されていたからです。家族や隣人から隔離された。当然、会堂や神殿の礼拝にも参加できません。

 人は苦しい時にこそ、神に祈りたい。神に訴えたい、癒しを求めたい。ところが、神を最も必要としている時に、神の臨在の場である神殿から、会堂からはじき出されていたのです。こんな酷いことはありません。この人の問題は、体だけではなく、深く魂の問題でした。彼は神を求めていた人なのです。

 この人は、イエスにある期待を持っていました。律法の教師であったら逃げられてしまうか、石を投げつけられてしまうかもしれない。しかし、イエス様は違う。イエス様は逃げ出しはしないだろう。むしろ真剣に自分の願いを聞いてくださるだろう。そう考えていたのです。そこで彼は、「主よ」と呼びかけています。イエスをただの人間と見るのではなく、神の力を持つ人として理解していたようです。神の如き力を持つお方でなければ自分の重い皮膚病も癒してもらえない。このお方にはそれが出来ると確信していたのです。

 しかし、不安がありました。自分のためにその力を振るってくれるかどうか確信がなかったのです。そこで「主よ、御心ならば」と言う。この重い皮膚病の人は自信を失っていたのです。「わたしを清めてください」と言いきるだけの自信がなかった。しかし、イエスはこの人に「よろしい。清くなれ」と言われた。この言葉はたいへん強い言葉です。意味を補って訳すと「そうだ、わたしは今、それを欲する。あなたを清めるのがわたしの意志だ」と言われたのです。家族からも社会からもはじき出されていたこの人をいやし、きよめて、神のもとに回復させることこそ「わたしの意志だ」と言われたのです。

 そう言われると共に、イエスは「手を差し伸べてその人に触れ」たのです。この箇所で、見落としてならないことは「手を差し伸べてその人に触れ」という短い一文です。旧約では「重い皮膚病」の者は「汚れた者」とされるだけでなく、万一彼に触れた者も夕方まで汚れると定められていました。ところが、イエスは恐れることなくこの人に近づいて、手を伸ばして触れられた。イエスは律法の規定に一切お構いなく、むしろその規定を無視して手を差し伸べて触れられたのです。握手だったか。もっと深い触れ方ではなかったかと思う。腕を握り、肩に触れ、ハグするようにではなかったか。肩に触れ、抱き合う時に、わたしたちはそこに暖かみを感じる。この重い皮膚病の人にとって、人生初めての体験と言ってもよかった。主イエスのお気持ちが体温を通して伝わってくる。これが「手を伸ばす」ということです。

 重い皮膚病の人は「御心ならば」と遠慮がち、ためらいがちに願い出ました。それに対して、主イエスは「あなたを清くすることはわたしの意志だ」とおっしゃられた。そして手を伸ばして自分に触れ、自分を抱き止めてくれた。自分が愛されていること、受け入れられていることを肌のぬくもりで実感したのです。

 病むことによって神から引き離されているこの人の姿の中に、神に近づくことの出来ない人間、失われた人間の姿を見るのです。しかし、主イエスは、この人に手をさしのべ、抱きかかえて、だれであっても神に近づくことが出来るのだ。いや、このような人こそ、神に近づけるのだ、このような人を神のもとに導くことこそ、わたしの願い、わたしの意志なのだと言われたのです。私たちに救いをもたらすことが主イエス・キリストの御意志なのです。