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第24回 神に知られているわたし

聖書=旧約・詩編139編1-6節

主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。

 

 今回は、この旧約聖書の詩編から「神に知られているわたし」の題でお話しいたします。自分と神様とのかかわりがどこから始まったのか。信仰の出発点と言いますと、いろいろなことが考えられるのですが、その1つは自分が信仰者としての歩みを始めたとき、入信の時ということでしょう。わたしたちはいつも自分が神を信じるに至った時を思い起こします。そこで初心に戻って信仰の姿勢を整え直すのではないでしょうか。

 しかし、信仰とは神との関係、神との関わりのあり方と言うことも出来ます。すると全く違った別の面からわたしたちの神とのかかわりの出発点を考えることが出来るのです。自分の意識に上らなかった時点から、わたしたちは神との深いかかわりの中にあったのだということです。不思議なことです。

 この詩編139編は、神と人との密接な関わりをさまざまな面から語っています。1-6節において、神がわたしたちを知り尽くしておられること、究め尽くしておられること、逆に言えば、わたしたちのすべてが神に知り尽くされているということが歌われています。この詩の作者は、神がわたしたちを知り尽くしておられることを、いろいろな点から歌い上げていくのです。

 第1に目が止まるのは、神の「知る」ということを表す多くの言葉が用いられていることです。1節「究め」「知っておられる」、2節「知り」「悟っておられる」、3節「見分け」「通じ」「知っておられる」、4節「知っておられる」、5節では「囲み」「手を置く」と言われます。併せて9回ほど「知る」という言葉、それに類似する言葉が用いられています。

 このような言葉で、神が「わたしという一人の人間」を、表も裏も丸ごと知っておられる事実の重さを強調しているのです。この「神が知る」と言うことは、最も基本的に神の愛情の行為なのです。愛情も何もなければ、積極的に知ろうとはしません。無関心です。神が人を深く知られるのは、神の情熱、熱愛によるのです。

 場所的・空間的にも、わたしたちの存在と生活の一切を知り尽くしておられることです。「座る」、「立つ」、「歩く」、「伏す」、あるいは陰府に逃れても、天に上っても、海のかなたに逃れても、神はそこにいますのだと言われています。神の造られた世界でありますから、どこへ行っても神の御手の中にあるのです。

 神が、母親のような愛をもってわたしたちを知っていてくださいます。わたしたちの失敗も、わたしたちの嘆きも、わたしたちの喜びも知っていてくださるのです。わたしたちの内心の思い「計らい」さえも知っておられます。主イエスは「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と言われました。パウロは「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と語ります。

 わたしたちのすべてが神によって知り尽くされている。このことを受け止めるところで、わたしたちの救いは確立するのです。わたしたちはしっかりと神の御手の中に受け止められているのです。この全能の神の御手による支えの中で、「主よ」と、祈ることができるのです。