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第21回 地の果てまで戦いを断ち

聖書=旧約・詩編46編7-12節

すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

 

 まもなく8月15日の「敗戦記念日」を迎えようとしています。この時に当たって、今回は旧約聖書の詩編46編の後半、7節-12節からお話しさせていただきます。詩編46編は、苦難の中での神信頼を歌いあげている詩です。この詩は冒頭で「神は…、苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と語ります。この「苦難」を、前半の3-4節では自然現象の異変による苦難を取り上げます。後半の7節からは国々の動乱という人災としての苦難が描かれます。自然界の異変でも、国々の動乱でも、それらに出会った多くの人は苦しみ、右往左往します。

 戦後74年、わたしたちの国はなんとか平和が守られてきました。しかし、数年前、安倍内閣の下で、安保関連の法案が国会を通過し、集団的自衛権が内閣の勝手な決議で有効化され、日本の国も再び戦争が出来る国になろうとしています。世界のあちこちでテロも起こり、戦いが起こり、戦争に巻き込まれる危険性が出てきています。これから、どうなっていくのだろうか。人の心が揺れ動いています。

 この詩は、具体的なある歴史の出来事を背景にしています。紀元前701年、ユダ王国が北の超大国アッシリアから攻撃された時の出来事です。セナケリブという王に率いられた北の大国アッシリアは、またたく間に北王国イスラエルを滅ぼし、その余勢を駆って南王国ユダをも攻撃してきたのです。ユダ王国の指導者は大いにあわてます。この時、ユダの王と指導者たちは2つの方策を採ります。1つは軍備の増強です。馬や戦車を輸入し軍事力を強化しようとします。2つは外交政策です。南の超大国エジプトに頼って援軍を求めます。いずれも弱小国家の選ぶ道と言っていいでしょう。

 ところが、この時、預言者イザヤは、これらの方策と全く違うことを語りました。滅びから逃れる道はただ一つ、人間的な計らいや方策、人間的な武力を捨てろ。そして、神に立ち帰って落ち着いているならば救われる、というものでした。預言者イザヤは、軍備拡張や援軍を求める同盟政策は必ず失敗すると語り、「雄々しくあれ、恐れるな。…神は来て、あなたたちを

救われる」と預言したのです。

 ユダ王国の都エルサレムへの総攻撃が予想されたある朝、「主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた」(イザヤ書37:36)。大軍を失ったアッシリアの王セナケリブはニネベに逃げ帰り、そこで自分の息子たちに殺されてしまいます。あっけないほどでした。

 この詩の作者は、この出来事を覚えて、主なる神への信頼を歌い上げたのです。まことの平和は軍備や同盟関係で守られるのではない。神に立ち戻り、神に信頼するところにあると語っているのです。今日、わたしたちの生きている世界も動乱の中です。自然界の大きな災害が続けざまに起こっています。人間の科学技術を傾けた原子力発電も大自然の力の前では無力であることが露呈されました。いつ何どき、大きな災害に遭遇するかもしれない。わたしたちは危険を抱えて生きているのです。そして、74年続いてきた日本の平和も、これからどうなるのか、分かりません。日本も憲法が変えられて、また再び戦争への道を歩み始めなければいいが、と思っています。

 多くの人たちは不安を抱えて生きています。貧しい者はますます貧しくなり、痛みを抱える人たちが増えていきます。将来への恐怖と不安が増しています。これからどう生きるのか。自然の災害であれ、社会的な大きな変動であれ、危機がやってくると、人はうろたえ右往左往します。しかし、この詩編の詩人は「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と歌います。これこそ、わたしたちの確信です。軍備に頼るのではない。軍事同盟に頼るのではない。神だけが確かな避難所なのです。静まって神を知る。神に信頼して、確かな歩みをしてまいりましょう。