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第18回 安息日の主

聖書=ルカ福音書6章1-5節

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

 

 今回は、「安息日」の律法について記します。わたしが奉仕していた教会では、信仰生活の指針として礼拝の中で「十戒」を朗読していました。しかし、これには十分な注意が必要であると思っています。とりわけ十戒の中の第4番目に「安息日を覚えて聖としなさい」という規定があり、安息日には一切の仕事をしてはならないと定められています。主イエス時代のユダヤの人々はそれをかたくなに厳守しようとしていました。そして、このような傾向がキリスト教会の中にも入り込みかねないからです。

 「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた」。ガリラヤの晩春です。麦の穂が黄色に色づいている。主イエスにとって安息日は忙しかった。会堂で説教し、午後は集まってくる人たちを教えます。安息日は食事する暇もありませんでした。

 主イエスとその一行は、この時たいへん疲れて空腹でした。そこで弟子たちは道ばたの小麦の穂を摘んで、手の中に入れて揉み、フッと殻を吹き飛ばし、残った小麦の粒を口の中に入れました。青臭い香りと甘い小麦の汁が口一杯広がり、一時の飢えがしのげました。イエスの動きを監視していたファリサイ派の人はこれをめざとく見つけて詰問します。「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と。

 ここでは、「なぜ、他人の畑のものを盗むのか」とは言われていません。日本だとそうなるでしょう。ところがユダヤ社会ではこの行為自体は許されていたのです。旧約・申命記23章に「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」と記されています。貧しい人、飢えている人に対する配慮の規定です。弟子たちが穂を摘んだことが安息日以外の日であったら、何の問題にもなりません。

 ところが安息日でした。安息日は「いかなる仕事もしてはならない」と規定されていたのです。弟子たちが小麦の穂を摘んで、手でこすり、殻を吹き飛ばすことが農作業に当たると見なされたのです。今日では笑いだすほど滑稽なことですが、ファリサイ派の人たちには真剣なことでした。律法の規定を落ち度なく守るという生真面目さが産み出したことです。規定を落ち度なく守ることに熱心のあまり、その規定が与えられた本来の意味を受け止める柔軟さを失ってしまっていたのです。

 主イエスはこの硬直化した律法理解を批判しました。イスラエルの先祖ダビデの時に起こった出来事を示したのです。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」。これは旧約のサムエル記上に記されている出来事です。ダビデがサウル王の迫害を逃れて逃亡した時です。急なことで食料の用意もなかった。そこで祭司アヒメレクにパンを分けてくれるように頼みました。しかし折悪しく普通のパンがなかった。ただ神に捧げられたパンがあった。神に供えられたパンは祭司とその家族が食べることが許されていました。しかし、祭司アヒメレクはその供えのパンを渡し、ダビデ一行はこのパンによって命の危機をしのいだのです。

 しかし、どう考えてもこれは律法破りです。ダビデたちは祭司でもその家系でもありません。ところが律法に精通しているファリサイ派の人たちもこのダビデの出来事は是認しています。この出来事は律法についての基本的な理解を教えています。律法は人が人として生きるために与えられているのです。神は、律法を人を殺すためではなく、人を活かすために与えられたのです。規則のために人間があるのではありません。

 主イエスは「人の子は安息日の主である」と言われました。キリストが「安息日の主」であるとは、安息日は人を生かすためのものだということです。人を人として生かす。これが律法の最も基本的な目的です。すべての律法が目差しているのはキリストによる安息を得させることです。今日も、十戒の朗読において、この視点を見失ってはならないのです。キリストは、人を救い、わたしたちを神に結んで、真の安息を与えてくださるお方です。安息日が与えられたのは、人が神との交わりに生きるためなのです。