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第13回 その人たちの信仰を見て

聖書=ルカ福音書5章17-20節

ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

 

 今回はこの箇所から、互いに支え合う信仰、ということをお話します。信仰は個人のものだという理解があります。一応、その通りなのですが、信仰は決して個人主義ではありません。互いに支え合う共同体を形成するものでもあるのです。

 主イエスは多くの人に説教し病気をいやしておられました。今、主イエスがおられる家の中は人で溢れていました。そこへ「男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした」。「男たち」とは中風の病人の友人たちです。イエス様が来て、多くの病気をいやしておられると聞いた。そこで、彼らは中風の人の家に走って行き、彼を床のまま担いで来た。福音を聞くためというよりも、彼の病気をいやしてほしいという願いからです。神に助けを求める時、問題を抱えているまま率直に求めていいのです。真剣に助けを求める者たちの願いを、主イエスは聞いてくださいます。

 ところが、彼らが戸口まで来た時、イエスの前まで進めませんでした。遅かったからです。戸口まで群衆で埋まっていた。これは極めて象徴的な出来事です。わたしたちは、キリストの所にはいつでも行ける、とタカをくくってはならない。神のことば、福音など、いつでも聞けると油断してはならない。神の言葉を聴き、キリストに出会うには、厳しい時の制約があるのです。

 しかし、この友人たちは引き返さなかった。あきらめません。「屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」。非常手段を取った。この時代の家は屋根が平らで木材の梁の上に木の枝などを渡して土を盛って固めただけのものが多く、容易に剥がすことが出来た。と言っても、屋根を剥がすなどは常識では考えられません。彼らは中風の人を助けるため常識を越えて行動したのです。切実な必要のある時、常識を越えることも必要です。「この機会を失ってはならない」という熱意が常識を越えて行わせたのです。

 病人は床ごと吊り降ろされました。彼らの願いは「起きて歩けるようになる」ことでした。彼らが期待していたことは、この人の体がいやされることでした。しかし、主イエスは「その人たちの信仰を見た」と記されます。「その人たち」とは、病人自身と、特に病人を連れてきた友人たちの信仰を見たということです。主イエスがご覧になった「彼らの信仰」とはどんなものだったのか。普通、信仰は一人ひとり、個人の信仰が問われます。「我、信ず」です。しかし、主イエスはここで、病人を連れてきた友人たちの中にある信仰を「見た」のです。

 「彼らの信仰」と言えるものの1つは、主イエスに対する熱い期待でした。主イエスは悪霊を追い出し、病をいやす神のごとき力を持つお方であるという信仰です。主イエスはいやす力を持つお方であるという期待と確信です。主イエス・キリストの力への期待と確信です。キリスト教信仰の確信がここにあるといってよい。

 2つは、互いに支え合う信仰と言っていいでしょう。この人を何とか助けたいという祈りと熱意です。「共同体のとりなしの祈り」と言うことも出来ます。実は信仰は、教会という共同体の中で生まれるのです。群れの一人ひとりが、隣人のために祈って支える。その祈りの中で信仰が生まれてくるのです。この友人たちの祈りと奉仕に支えられて、中風の人はキリストの前に置かれたのです。主イエスは、この人たちの祈りを「彼らの信仰」と見てくださった、と言っていいでしょう。

 主イエスは、主イエスに対する切実な期待と支え合う姿を「信仰」と見てくださるのです。そして主イエスは、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。ここに、不安を持つ病める人に対しての主イエスの暖かい配慮が現れています。先ず根本的な魂のいやしがなされたのです。病人と友人たちが求めたのは身体のいやしでした。ところが、主イエスは「罪の赦し」を宣告されたのです。願い求めた以上の根源的な回復が与えられたのです。その後、確かに「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われ、身体も回復してくださいました。主イエスは、わたしたちの魂と身体とをいやしてくださるお方なのです。