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第11回 神の業が現れるため

聖書=ヨハネ福音書9章1-3節

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

 

 わたしたち人間は皆、病みます。病気を経験したことのない人はいないでしょう。病や障がいを抱えたら、何とかして、その状況から脱出しようとします。では、病や障がいには、何の意味もないのでしょうか。ただ「マイナス」だけなのでしょうか。主イエスの語られたお言葉に耳を傾けてまいります。

 主イエスが道を通って行かれます。すると「通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」。主イエスは障がいを持つ人、貧しい人、病む人たちをいつも心にかけておられました。ご自身が貧しく過ごされたからです。主イエスは今、障がいを抱えて生きる人に目を留めてくださいます。

  その様子を見て、弟子たちが尋ねます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。このような質問は、私たちもするのではないでしょうか。神の造られた世界の中で、なぜ、苦難があるのか。合理的に納得できない深刻な課題です。弟子たちの問いの中には因果応報論が横たわっています。因果応報とは、人間の障がいや不幸は何らかの意味で人間が犯した罪の報いだという考え方です。人の不幸の原因はどこにあるかと考え、人の犯した罪の結果だと考えた。不幸の原因を尋ね、先祖の祟り、前世の因縁と、理屈をつけて納得しようとします。

 しかし、これくらい当事者を困らせ、悩ますものはありません。旧約聖書にも因果応報論は出てきます。ヨブ記です。敬虔な信仰生活を送ってきたヨブという人が、一度に富も家族も健康もすべて失った。友人たちはヨブのあまりの悲惨さを見て、これは彼が隠れたところで大きな罪を犯した結果ではないかと推論して悔い改めを勧めたのです。この友人たちの考え方が因果応報論です。

  主イエスはこの因果応報論に耳を貸しません。弟子たちの問いに対してこう言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」。本人の罪か、親の罪か、社会の罪かなどと詮索をなさらなかった。この人の目が見えない障がいとその苦しみは、この人自身やその家族や先祖の罪ではない、と明らかに語られました。人は皆、何らかの病と弱さを負って生まれてきます。あるいは社会的な大きな欠落の中に生まれてくる場合もあります。それは、その人自身の罪でも、家族の罪でもない。主イエスは苦難を罪との関わりからはっきり切り離されました。

  主イエスは続けて言われます。「神の業がこの人に現れるためである」と。これはすばらしいお言葉です。しかし、信仰を持たない方にすぐに分かる言葉ではないでしょう。信仰をもって人生の意味をよく考えないと分かりにくい言葉です。しかし、キリスト教の信仰生活はここにかかっています。主イエスは弟子たちの問いの内容を大きく方向転換させたのです。

 人生における苦難の意味に気づかせることに目を向けさせたのです。過去へさかのぼるのではなく、これから神がなさろうとしていることから説明しようとされたのです。主イエスが「神の業が」と言われた時、この人において、これから神がなさろうとしている事柄から見ているのです。この人において、この人の身において主イエスが、何をなさるのかにかかっているのです。この人の身において神の恵みのみ業がなされる。そこに、この人の担ってきた苦難の意味があるのです。私たちが苦しみを担ってこの世を生きる意味が、ここにあります。この目の見えない人だけの問題ではありません。この人は、苦しみを担って生きる私たちの代表、私たちの姿なのです。

 神の恵みのみ業が行われる時に、どんな病や障がい、惨めな境遇も意味を持つのです。悲惨のどん底にある人にでも、すばらしい恵みのみ業がなされます。むしろ、暗ければ暗いほど、恵みのすばらしさが映えてくる。わたしたちの苦しみ多き人生は、神の恵み深さとすばらしさとを証しする栄光の舞台として用いられるのです。この目の見えない人は、この後、イエスの恵みのみ業の証人として大きく用いられます。彼は、信仰とはどういうことなのかということを、その身体で証ししていきます。苦しみを抱えて生きるのは、その歩みの中で神の恵みの御業が現れるためなのです。人生は神の栄光を映し出す舞台なのです。苦難に満ちた人生は、生きるに値する輝かしい価値を持っているのです。