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第9回 真剣な祈り求め

聖書=マタイ福音書20章29-34節

一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った

 今回は、信仰を得るには、救いを得るには、どうしたらよいかということをお話ししたい。祈りについてです。祈りというと、信仰を持った人のものだと考えてしまうのではないでしょうか。実は、信仰を求める歩みは祈ることから始まります。祈りは願い求めることです。

 主イエスの一行がエリコの町を通り過ぎようとしていました。その道端に2人の盲人が座って物乞いをしていました。彼らは道行く人の話を聞いていた。盲人は見えないだけに人の言葉に敏感です。通り過ぎていく人々の話を聞き、有名なイエスがこの道を通ることを知りました。彼らはこのチャンスを逃しません。救いの恵みを得る機会は、そう何度もありません。彼らは主イエスが通られると聞いて、この1回のチャンスに賭けました。

 彼らは、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び続けます。すると「群衆は叱りつけて黙らせようとした」。この群衆の中には、キリストの弟子たちもいたでしょう。イエスの後を慕ってきた人たちもいます。悪意の人だけではなかったでしょう。人がキリストを求めて近づこうとすると、必ず制止したり、引き離そうとする人が現れます。多くの場合、悪意からよりも善意からです。「あなたは若いから」、「熱くならなくてもよいのでは」、「今は勉強や仕事があるから後にしなさい」と忠告してくれます。

 注目しなければならないことは、主イエスも彼らの叫びを直ぐに聞こうとしなかったようです。彼らの叫びが、イエスの耳に届かなかったのでしょうか。イエス様は聞かないかのようにして行き過ぎようとされます。なぜでしょう。それは、祈りが聞かれないように思える時は、わたしたちの願い求めとしての祈りが試されている時だからです。真剣さが問われているのです。「あなたは、本当に私にそれができると信じているのか」、「あなたにとって、わたしだけが救い主なのか」と、無言のうちに問われているのです。さらに、祈りの内容が本当に必要なものかということです。この2人の盲人の場合、物乞いをしていましたから、生活のために金銭を求めても不思議なことではありません。

 群衆と言われる人たちは、2人の求めをそのように考えていたかもしれない。けれどもこの2人にとって、金銭は「ダビデの子イエス」から以外にも貰うことは出来るのです。道を行く善男善女がお金は投げてくれます。けれども、主イエスにだけしか求めることの出来ないものがある。彼らはそれを知ったのです。イエスから「何をしてほしいのか」と尋ねられた時、彼らは直ぐ「目を開けていただきたいのです」と答えました。

 「目を開けていただきたい」とは、肉体の目だけのことではありません。キリストを見上げることのできる霊的な目でもあります。多くの人は肉体の目は開いていますが、キリストを見る目は閉ざされたままです。その意味では「目を開けていただきたい」という願いは、この盲人たちだけの祈り求めではなく、わたしたちすべての者の祈り求めです。主イエスは、この祈りを待っておられたのです。主イエスは本当に必要なものを求める祈りを待っておられます。

 わたしたちは、ちょっと妨害があるとか、なかなか祈りが聞かれないと、そこであきらめてしまうか、腹を立ててしまう、のではないでしょうか。しつっこく願い求めることをしません。「イエスは立ち止まり」と記されています。主イエスは、彼らの真剣な祈り求めを待っておられたのです。主イエスが足を止めて下さった。そこで全てが解決される。イエス・キリストが足を止めて向き直って下さったら、問題は解決するのです。わたしたちは、このような真剣な祈りをしているでしょうか。形だけでない、真剣な叫びのような祈りが求められているのです。主イエスは今も、真剣な叫びのような祈り求めを待っておられます。