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第7回 新しい生き方

聖書=ルカ福音書5章33-38節

人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。

 

 キリスト教は、どう生きるかという生き方を真剣に考え、旧来の伝統にとらわれず、新しい生き方を形づくる信仰です。イエスの伝道活動が始まった時、周囲の人々はその活動に注目しました。特にユダヤ人の重要な宗教伝統であった断食について、「イエスはどう教えるだろうか」と注目していました。ところが、イエスは断食についてほとんど教えられませんでした。弟子たちに断食を規律として課すようなことはしませんでした。

 そのことを不審に思って尋ねた人たちに対して、イエスはキリストの弟子の生活のあり方を3つの例えで教えました。1つは結婚式、婚礼です。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」と言われました。結婚式はまさに喜びのときです。共に生きる喜びです。花婿が共にいる喜びです。キリストを信じて生きる生活とは、イエス・キリストがいつも一緒にいてくださることを喜ぶ生活です。信仰生活を修養・修道と勘違いする人がおります。修道は人間を外側から規制し厳しい訓練を課します。修養は自分の努力です。しかし、キリスト教信仰は、イエス・キリストを信じて、キリストと共に生きることです。キリストと共に生きる喜びの生活なのです。

 次に、イエスが語られたのは、服に継ぎを当てる例えです。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」。着古した服が綻びたというので、新しい服を潰して古着の繕いに当てるようなことをするだろうか、と言われた。継ぎはぎをするという考え方です。キリスト教信仰に基づく生活は、首尾一貫したものです。

 和魂洋才という言葉があります。日本人の魂、日本の精神に西洋の科学技術を接着させようというものです。キリスト教の基盤の中から成立した思想、民主主義や人権についての考え方を、それらを産み出した基盤を取り外して技術的に輸入してうまくやろうと考えました。あらゆる所で木に竹を接ぐような和魂洋才式のやり方がなされてきました。しかし、キリスト者の生活は、継ぎはぎをしてなされるものではありません。古い着物に継ぎを当てることではなく、古い着物を脱ぎ捨てて、キリストという新しい着物を着ることです。新しい着物を着た者として生活することが求められているのです。

 イエスはさらに、ぶどう酒と革袋の例えを語られました。古代ユダヤでは、羊や山羊などを屠って肉を食した後、皮は丸ごと袋にします。革袋と言います。それに水やぶどう酒などを入れてラクダに背負わせて旅行します。革袋は新しいうちは弾力性があります。古くなると弾力が失われます。弾力性を失った古い革袋に発酵力のある新しいぶどう酒を入れると、耐えきれずに張り裂けてしまいます。イエスは「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」と言われました。

 イエスは、弟子たちの信仰生活を絞り立ての発酵力あるぶどう酒に例えているのです。新しいぶどう酒はフツフツと発酵します。強い生命力がある。伝統的な形式や規制でまとめることは出来ません。革袋は必要です。キリストを信じる信仰には、それにふさわしい容器、革袋を必要としているのです。新しい信仰を与えられた人は新しい生活の在り方をしていくこととなります。私たちには課題があります。置かれている状況の中で、キリスト者の新しい生活の形を産み出すことです。内側から溢れる信仰の力によって、その信仰を表現する生活のあり方を新しく形づくっていく使命があるのです。