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第5回 「病むこと」の真実

聖書=ルカ福音書5章27-32節

その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 

 今回は、この聖書の箇所から、病むことの意味をご一緒に考えてみたいと願っています。「病む」と言いましても肉体の病気だけのことではありません。障がいや人生の重い課題を抱えることも含まれます。時折、「教会には立派な人たちが集まっていて、私のような悩みを抱えた者などはほとんどいないのではないでしょうか」と、聞かれることがあります。

 そのような問いに対しての応えになるのが、この聖書箇所です。ここに出てくる「レビ」という人の仕事「徴税人」は、ユダヤ社会では爪はじきされていた仕事でした。人の弱みにつけ込んで法外な税金を取り上げ、自分の懐を肥やすとんでもない人たちでした。人々から白い目で見られていました。遊女ややくざと一緒に見られていました。そのため、レビは人と交わりが出来ません。このレビも深く病む人でした。

 しかし、主イエスは今、多くの人から爪はじきされていたレビに「わたしに従いなさい」と、主イエスの仲間に導き入れたのです。教会は、世間的に言って、立派な人たちの集まりではありません。多くの課題を抱えている方、病む人、悩みを抱えている方、障がいを持つ方、などが集まっています。そして、主イエスによっていやされ、慰められ、支えられて、生きているのです。

 教会は「心と魂の病院」と言ってもよいでしょう。ただ、普通の病院は治ったら退院しますが、心の病院である教会は、生涯、「医者」である主イエスと共に生きていくのです。

 多くの人は、悩みを抱えたり、障がいや病を抱えることは「マイナスである」と考えます。果たしてそうでしょうか。1つの詩を紹介します。

 

   病まなければ、捧げえないいのりがある。

   病まなければ、信じえない奇跡がある。

   病まなければ、聞きえないみ言葉がある。

   病まなければ、近づきえない聖所がある。

   病まなければ、仰ぎえないみ顔がある。

   おお、病まなければ、わたしは人間でさえもあり得ない。

 

 この詩は、河野進という牧師の作品です。この方はもう召されています。長い間、日本キリスト教団の玉島教会の牧師をしておられました。その間、同時にいろいろな福祉関係にも奉仕しておられました。

 この詩では、「病むこと」は決してマイナスとして理解されていません。むしろ、人生の奥深いところに迫るための神秘の入り口として理解されているのです。病むことによって人生の神秘に触れ、病むことによって真実の人間になるのだと理解しているのです。ここで語られている「病むこと」は、いわゆる病気だけのことではありません。傷つき痛むこと、重い課題を抱えて行き悩むこと、私たち人間の「生老病死」すべてが「病む」ことの中に含められているのです。

 徴税人のレビは、世間の人たちから爪はじきされて心を病んでいた人であったと言っていいでしょう。主イエスは、このレビを仲間に加えてくださいました。あなたは、一人ではない。わたしが一緒にいる。あなたの重荷をわたしも一緒に背負っていこう、と言われているのです。

 病み、重い課題を抱えて悩むことは、実は神を見いだす入り口に立っているのです。教会は、傷を負い、悩みを担い、病に冒された人たちを迎えるところです。主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である」と言われました。病むことは決してマイナスではありません。