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第2回 心の渇きをいやす方

聖書=ヨハネ福音書7章37-38節

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 

 今朝は、この聖書箇所から「水」についてお話ししようと願っています。水は、私たちの生活にとって欠かせない生命的なものです。聖書では、この水について、飲料水のような物質的な水と共に、魂と心を持つ人間にとって必要不可欠な霊的な水があることを語っています。今日は、その霊的な水、生きた水についてお話しします。

 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」と記されています。この祭りとは「仮庵祭」と言われるユダヤの祭りです。秋の収穫感謝祭と言っていい祭です。そのため、この時期には、大勢の人がこの祭りのためにエルサレムの神殿に上ってきています。祭特有の狂乱もあったでしょう。

 その祭のために上ってきた人たちに向かって、主イエスは大声で、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われたのです。この主イエスのお言葉は説教と言うよりも、叫び、呼びかけのようなものです。気迫に満ちた大きな声で、主イエスは人々に呼びかけました。「渇いている人はだれでも」と言われます。この渇きは、実際の水に渇いているということではありません。霊的な渇きを意味しています。

 祭に参加している多くの人たちは、祭りに熱狂し酔っているようです。けれども実は、祭りの中でも、祭りに酔えない人もいるのです。祭の熱狂について行けない人たちがいるのです。群衆の中での孤独を経験していると言っていいでしょうか。

 私も子どもの頃から、あまり祭りには酔えませんでした。田舎では、四季折々にいろいろな祭りがあります。子どもの頃、そういう祭りに連れて行ってもらっても、あまりおもしろいと思えなかった。どうして、人はこんなに騒ぐんだろうと、冷めた目で見ていました。

  心の渇きを感じ、心の渇きのいやされることを求める人は、どこにもいるのではないでしょうか。祭りの中だけのことではありません。お金や快楽や名誉や地位に酔うことの出来ない人もいるのです。世の中の潮流になじめない人もいるのです。自分の罪と弱さに気付き、魂がいやされ、慰められることを求めている人もいるのです。

 「心の渇き」とは、自分の中にある欠乏感に気づくことと言っていいでしょう。何かが欠けている。なにかが必要だ。しかし、なかなかこの世のものによっては満たされることができません。主イエスが今、呼びかけているのは、こういう「心の渇き」を感じている人たちに向かってです。主イエスはだれであっても、このような心の渇きを感じる人に、「わたしのところに来て飲みなさい」と呼びかけておられるのです。

 「わたしのところに来て飲みなさい」と、主イエスはそう言われました。これが、私たちに提供されている救いの道です。主イエスご自身がまことのいのちの泉です。すべての霊的な必要を満たしてくださるお方です。「わたしのもとに来なさい」とは、たいへん単純な表現です。キリストのもとに「来る」とは、キリストを心の中に迎え、受け入れることです。「飲む」とは、キリストに信頼して委ねることです。私たちが飲料水を飲む時、いちいち吟味して飲みません。提供された水を信頼して飲み干します。キリストのもとに来ることも、飲むことも、1つのことです。キリストを救い主として素直に受け入れて、キリストに信頼することです。

 キリストは、永遠のいのちの水を持つお方です。私たちが、この世の喧噪に疲れた時、この世間の流れと生き方に不快と疑問を感じた時、そのような時こそ、キリストのもとに来るべき時なのです。

 キリストは、私たちの心と魂の渇きをいやしてくださる力を持っておられます。そのキリストに心と生活、人生を委ね、任せることです。それだけで、キリストは私たちの心を本当にいやして、新しい生ける力を与えてくださいます。乾きを覚える人を迎えて、人が丁度水を飲むように、主イエスは、その人の心の中にスーと入って来て下さいます。そして、イエス・キリストがその人を内側から造り変え、神と共に生きる新しい人として下さいます。平安が与えられ、慰めが与えられ、渇きがいやされるのです。