1、聖書から神を知る

    ここでは、聖書とキリスト教の入門的なことを記します。ゆっくりと記していきますので、興味のある方はお付き合いください。

 「教理」という言葉を語ると、時折、いやな顔をされることがあります。「聖書は、教理ではない」と言われます。これは実は、その通りなのです。聖書と教理とは別物です。聖書は、壮大なスケールで「神と人とのかかわり」を語る書物です。問題は、その壮大なスケールで聖書において語られる神と人とのかかわりを、わたしたちが、どのように理解していくかなのです。何らかの手がかりなしには、針の穴から天空を覗くようなものになります。この時、聖書を長年にわたって読んできた先輩たちの語る道案内が役に立つのです。

 聖書を読むための「道案内」のようなものが、「教理」なのだと言っていいでしょう。先輩たちの道案内に導かれても、実際に聖書を読むのは、「あなた」なのです。登山のガイドブックを読んで、山に登ったかのように思い込んでは困ります。本末転倒です。

  この第1回は、聖書から「神を知る」道について記します。人生の最も大事は「神を知ること」なのです。お金を儲けることも、健康でいることも大切なことです。しかし、わたしたちの人生の究極を考えてください。宗教改革者のカルヴァンという人は、「ジュネーブ教会信仰問答書」という書物を著しました。その第1問で「人生の主な目的は何ですか」と問い、答「神を知ることであります」と記しています。困難を抱えて生き悩むとき、病むときも、順境にあっても逆境にあっても、わたしたちの人生を根底から支えるのが、神の存在であり、その神を知ることが、わたしたちの人生にとって最も大切なことなのではないでしょうか。

 では、どのようにして「神を知る」ことが出来るのでしょうか。わたしたち人間は、神を知る道筋を必要としているのです。しかし、それは特殊な「隠された知恵」や密儀宗教のような秘められたものではありません。誰にでも開かれている道です。それが「聖書」を通して、神を知る道です。わたしたち人間は有限であり、無限者である神を有限者である人間からは捉えられません。「有限は無限を捉え得ず」と言われています。人間の宗教学や哲学ではまことの神を正しく確実に知ることは出来ません。

 そこで、神が、ご自分の側から、神についての正しい知識が啓示してくださったのです。神が主導権をとられて、神ご自身を自己開示されたのです。神ご自身の自己啓示なくしては、神を正しく適切に知ることは出来ないのです。この神の自己開示、自己啓示の書が「聖書」なのです。この聖書において、神と人とのかかわりが、天地創造から終末に至るまでの壮大なスケールで物語られているのです。わたしたちは、この意味で、聖書を読み、聖書を学ぶことによって、神を知ることに導かれていくのです。これから、聖書の話をしてまいりましょう。

2、聖書を読み始める

    キリスト教においては、「神を知る」とは、聖書を読むことから始まります。キリスト教信仰の話を基本から進めていくのには、聖書から始めねばなりません。皆さまも聖書を手に入れて、読み始めてみてください。これからお話しし、信じていくべき神とは、「聖書が示す神」なのです。

 現在、皆さまの近くの書店で、あるいはキリスト教の書店で手に入れることが出来る聖書には、いくつかの種類があります。基本的には、どの聖書でも結構です。原文は、旧約は主にヘブライ語、新約はギリシャ語で記されています。私たちが手に入れることの出来る日本語聖書はこの翻訳ですが、先ず「大丈夫」、信頼できる翻訳であると言っていいでしょう。

 日本聖書協会から出版されている「口語訳聖書」(1954年)、「新共同訳聖書」(1987年)は、カトリック教会、プロテスタントの諸教会で多く用いられています。最近はこれに「共同訳聖書」(2018年)が加わりました。

 日本聖書刊行会から出版されている「新改訳聖書」(1970年)、さらに最近刊行された「新改訳2017」(2017年)は、プロテスタントの福音派諸教会で多く用いられています。 いずれも、幾らかの翻訳上での言葉などの違いがありますが、基本的には信頼できる翻訳聖書です。これらの翻訳聖書のどれか1つを手に入れて、読み始めてください。ちなみに、わたしが主に用いており、このホーム・ページでも用いるのは「新共同訳聖書」とさせていただきます。では、お手元にある、聖書を読み始めましょう。

 さて、この聖書は、「旧約」と「新約」に大きく分けられます。「旧約」と「新約」、併せて「聖書」です。この「約」は、契約・約束の「約」です。翻訳の「訳」ではありません。神の古い契約(旧約)、神の新しい契約(新約)という意味です。旧約は、罪に陥った人間を救うために、やがて与えられる救い主、キリストを預言し、指し示す書物です。新約は、現実に世に来られた救い主、イエス・キリストを指し示し、証しする書物です。したがって、旧・新約聖書の中心点はただ1つ、救い主イエス・キリストを指し示し、キリストを証しする書物です。

 そのため、聖書を初めて読み始める方は、すでに、現実に、世に来られた救い主を語り示す新約聖書から読み始めてくださるようにお願いします。新約聖書のはじめ部分に、4つの福音書が置かれています。ここから読み始めてください。「福音書」はイエス・キリストの生涯を描くキリストの言行録と言っていいでしょう。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書のどこから読み始めてもいいのです。読みやすいものからでいいのです。ヨハネ、ルカ、マルコ、マタイ、と後ろから読み始めるのもいいのではないでしょうか。

 1日、1章ずつでかまいません。ゆっくりと、意味が分かっても分からないでもかまいません。どんどんと読み進んでください。4つの福音書を、3-4回くらい繰り返し読んでください。しだいにイエス・キリストというお方のイメージが、浮かび上がってくるでしょう。

3、聖書の読み方

    わたしたちの人生の大事である「神を知る」ために、聖書をゆっくりで結構ですから、しっかり読み始めてください。聖書を読むことからキリスト教信仰は始まっていきます。ここでは、聖書の持つ性質と聖書の読み方を記します。

 聖書には、「人が書いた人の言葉」という側面があります。当然のことです。旧約聖書は全部で三十九巻ありますが、古代の人間の手によって記されたものです。イザヤとかエレミヤ、アモスやホセアなどの預言者たちの言葉、王ダビデやソロモンとその王宮の編集者たち、さらにはイスラエル民族に伝えられてきた歴史の物語や多くの伝承、歌謡や箴言などを、気の遠くなるほどの長い時間をかけて編纂されてきたものです。

 新約聖書は二十七巻ありますが、イエス・キリストの弟子たちが執筆したものと言っていいでしょう。4つの福音書、使徒言行録、多くの手紙類、最後に「ヨハネの黙示録」で終わります。主イエスは何も書き残されませんでした。そこで、マタイやヨハネ、ペトロやパウロなどの主イエスの弟子たちが、主イエスがこの地で語られたこと、なされたみ業、主イエスのご生涯、その死と復活の出来事を、書き記す中で、自分たちの「キリスト理解」を記していったのです。これら主イエスの弟子たちによって、紀元50年代から1世紀の末頃までに書き記されて、しだいに教会の中に受け入れられていったものです。

 しかし、この聖書には「人が書いた人の言葉」という側面と共に、「神が書かせた神の言葉」という側面があるのです。聖書は、人間が自分勝手に自由に書き散らしたものではなく、聖書の著者たち、あるいは編集者たちの背後にあって、これらの多くの有名・無名の人々を用いて書かせた神がおられるということです。旧約から新約にわたって何千年もかかって書き続けられました。記した場所もユダヤの地だけでなく、バビロニアから小アジア、ローマに至るまで拡散しています。それが、今、1つにまとめられて、1つの書として読むことが出来るのです。ですから、聖書自身が「聖書はすべて神の霊の下に書かれた」(Ⅱテモテの手紙3:16)と記しているのです。その意味で、聖書のまことの著者は神であると言うことが出来るのです。

 聖書は、「人が書いた人の言葉」ですから、古典として、つまり歴史的・文学的な書物として読むことが出来ます。古代の文学として読むこともたいへん有益です。しかし、それは本当の聖書の読み方ではありません。聖書は、「神が書かせた神の言葉」として読むところで聖書の1つ1つの言葉が生きて働いてくるのです。聖書は、罪人の救い主・キリストを語り、証しする書なのです。祈りをもって、聖書を読み始めてくださいませんか。「どうか、聖書を分からせてください」、「キリストを見させてください」と。すると、聖書は、「今、語られる神のことば」として、私たちの心に語りかけてくるのです。これが聖書の読み方です。 

4、聖書の示す神…天地の造り主(1)

    ここでは、聖書とキリスト教のごく入門的なことを記します。聖書をゆっくり読みながら、お付き合いください。

 旧新約の聖書は、「神を語る」書なのですが、近現代のわたしたちのものの考え方では記されていません。つまり、教科書や何かのマニュアルのような書き方をしてはおりません。イスラエル民族の長い長い歴史物語やイエス・キリストのご生涯を記す中で、それらの出来事の中で、「神が語られていく」のです。初めての方々が、聖書を読み始めてもすぐに分からないので、途中で放り出してしまう理由がここにあります。手っ取り早く行かないのです。そのために、先に信仰を持った人たちの導きが必要なのだとも言えるでしょう。

 聖書は神を語る書なのですが、まず最初に語られているのは「神は天地を作られた」ということです。旧約聖書・創世記の冒頭に「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)と記されています。聖書は、神の存在を大前提としています。神がいるか、いないか、という議論はしていません。初めから「神、います」、これが聖書が語る最も大切なことです。

 次に、その神が「天と地を創造された」ということです。明らかなことは、「天と地」は神ではないということです。「天と地」は、神の被造物(神の作られたもの)で、神ではありません。このことをはっきり受け止めることが大切です。多くの人々、多くの民族が「神として仰ぐ」太陽も月も星も被造物です。山々も海も川も神の作品です。まして、どんなに力がある人物でも神ではなく、被造物に過ぎません。天と地とそこにあるすべてが、神の創造による神の作品であるというのが、聖書の主張です。その意味で、天地を作られた「創造の神」を信じることは、私たちを神ならざるすべてのものを恐れることから解放するのです。

 わたしたち人間は、自分の力でコントロールできない大きな力に対しては「恐れ」を感じます。自然の破壊力、暴力的な力を持つ存在、ものであっても人であっても、その力を恐れ敬う恐怖の念から、それら「諸々の力」を神として仰ぐことがあります。創造の神を信じることは、このようなすべての恐れから私たちを解放する「福音」なのです。

 創世記1章には、このような神による創造の物語が記されています。現代人には「なんと非科学的、神話的」と言われかねない事柄が記されています。しかし、神話は世界のいずれの国々の神話であっても、神々の誕生、神々の恋愛、神々の戦いなどを語り、その神々と自分たち民族の同一性を語るというものです。「我々はこのような神々の子孫である」と、神々との連続性を物語って自民族の優越性を誇るのが神話なのです。ところが、聖書の創造物語は、神と造られた世界とは全く違うことを記すのです。神は神、被造物はあくまでも被造物だ、と語っているのです。聖書の創造物語は、神話的な表現で記されていますが、普通の意味での神話ではなく、神とすべての被造物との間には、明確に一線が引かれているということを物語っているのです。

5、聖書の示す神…天地の造り主(2)

   旧約聖書冒頭の創世記を読み始めた方がつまずいてしまうのは、6日間の「創造の物語」ではないでしょうか。創世記は「初めに、神は天地を創造された」と記した後、不思議なことに「天」の世界については何も記さないのです。ここには「み使い(天使)たち」の創造があったのでしょうが、何も記してはいません。

 直ちに「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と、「地の創造」へと移ります。人間の住む世界に焦点が最初から絞られているのです。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1:3)と記していきます。聖書には何でも記されていると思うかもしれませんが、実は人が知るに必要なことだけが記されているのです。焦点が絞られている。聖書は何でも記している百科全書ではありません。

 「光あれ」と言われた神は、その後、大空と海、陸とその上にある植物、大空に太陽と月・星、海の中に住む生き物、空の鳥、地の上に住む動物などを、「6日間」で造られた、と記しています。「エッ」と驚くのではないでしょうか。「1日24時間×6日間で!」。実は、創世記のこれらの記述は、決して自然科学の教科書として記したものではありません。宇宙誕生のストーリー、地球創世の物語は、今日の自然科学でも、なお仮説の域をでませんが、それらは皆さまの学校での自然科学の学びに任せましょう。

 この創世記の記す「創造」の記事は、神による創造の物語です。神が天地の造り主として、神が、どれほど深い愛情をもって、この大地の世界とそこに住む人間とを造られたかということを記しているのです。この世界が偶然から生まれたのではない。「光あれ」と語られた神のご意志による。世界はその起源を神に負っているということです。神は、気まぐれに天地を造られたのではなく、深い愛情に基づく、慎重な計画と準備をもって、この世界を無から有へと造られたのです。

 長い長い時をかけて、1つ1つの順序をもって段階的に、この世界を秩序よく、人の住むことの出来る世界へと造ってくださったということを語りたいのです。このために、「第一の日」、「第二の日」という言い方をしているのです。24時間の1日ではなく、順序をもって段階的にということです。

 神が、深い愛に基づいて慎重な計画と注意深さをもって造られたのですから、この世界は意味と目的を持っています。この神の造られた世界は、神の愛と守りの中で、人と、生きとし生けるものが互いに助け合い、支え合って、神の栄光を表すために造られたのです。その故に、神に造られた世界は、当然、よきものでした。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」(創世記1:31)。神は、ご自分の造られた世界を見て「良し」と祝福しているのです。今日、私たちが見る世界の矛盾や破壊、多くの罪悪と欠乏は、神によるのではなく、人の堕落の結果です。このことについては、後に取り扱います。

 造り主である神は、今も働いておられる神です。すべてのもののいのちを守り、維持し、私たちの生と死を支配し、お造りになったものを、生かし、支え、保持しておられるお方です。すべての被造物の背後にある神の支えの御手を見てまいりましょう。

6、聖書の示す神…唯一の神

 ここでは、聖書の示す神は「唯一の神」であるということを記します。この「唯一神信仰」ということが、日本ではなかなか理解してもらえないのではないでしょうか。日本では、すべてのものの内に神が宿るという汎神論、多神教の世界と言われています。そのために、すべてのものを受容できる「平和の宗教なのだ」と言われてきました。しかし、これは現実を見ていない観念的な見方です。汎神論に基づくという神道も仏教を排斥し(廃仏毀釈)、仏教も相互に戦い合ってきた歴史があります。アジア・太平洋戦争を主導し、多くの人を悲惨のどん底に落としたのが汎神論に基づく神道・国家神道であったことを見逃してはなりません。

 聖書の示す唯一神信仰は、決して他者の信仰や他の宗教を否定したり、排除するものではありません。唯一神信仰の基本のあり方をしっかり理解していただきたいと願っています。キリスト教の神、聖書の指し示す神は確かに「唯一の神」です。

 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4-5)。これが旧新約聖書を貫く最も基本的なメッセージです。新約も同じです。「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」(Ⅰコリント書8:5-6)。

 唯一神信仰とは、「あなた」、つまり「信じるあなた」にとって「主は唯一の主」なのだということです。神を信じる者と、その神との関わりが、丁度「一夫一婦」のような関係になる。これが唯一神信仰なのです。神との人格的な関係と言って良いでしょう。ここに聖書的な信仰の特色があります。信仰とは、ただなんとはなしに神を拝むのではなく、神を主として信じ、交わりをする道なのです。この一夫一婦のような人格的な交わりの関係にあるために、「あなたの神、主だけを心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、愛しなさい」ということなのです。宗教的な意味で、よそ見をしてはいけませんよ、ということなのです。

 この神の唯一性ということは、次のようなことが意味されております。1つは、神には表裏がないことです。昨日と今日で「心変わりしない」ことです。私たち人間は「君子、豹変す」です。時によって心変わりし、欺きます。裏表のあることが「人間の幅だ」とさえ言われます。しかし、神は心変わりしません。一度、「あなたを愛し、あなたを選んだ」と言われたら、それを永遠に保持されるお方です。

 2つは、完全であることです。他の神々の補助を必要としません。日本の神々は、安産の神、受験合格の神、縁結びの神など専門分野がありますが、唯一の神は私たちの生から死に至るまですべてを完全に守り支えてくださる神です。

 3つは、神ご自身の中が統一・調和しておられるということです。神の内に分裂がないのです。当たり前のことと思うでしょうが、ここから「平和の神」という言い方が出てくるのです。唯一の神は、分裂ではなく、平和を求め、一致と平和を愛するお方なのです。

7、聖書の示す神…生ける人格である神

    ここでは、聖書の示す神は「生ける神」であるということを記します。聖書は、人間の手によって作られた神々の形像を「偶像」と言います。この「偶像」は生きていません。旧約預言者イザヤは辛辣なことを語ります。「鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが/飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。木工は寸法を計り、のみで削り、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り/神殿に置く。…木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め/一部を燃やしてパンを焼き/その木で神を造ってそれにひれ伏し/それを拝む。木材の半分を燃やして火にし/肉を食べ…/残りの木で神を、自分のための偶像を造り/ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたはわたしの神』と」(イザヤ書44:12-17)。

  それに対して、聖書の語る神は、生きて、動き、働く神です。「初めに、神は天地を創造された」ということが、「生ける神」のなによりの証拠です。「神は言われた。『光あれ』と」。神は、その言葉をもってすべてのものを造り出してくださる神なのです。人間が造り上げた神ではなく、逆に神が人とこの世界とを造られたのです。生きて働く神なのです。

 けれども、「生ける神」ということは、それだけのことではありません。聖書は「生ける神」とは、「生ける人格」であると教えているのです。神が「人格である」ことこそ、「生ける」ということの根本的な意味なのです。主イエス・キリストは「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ福音書4:24)と言われました。この「神は霊である」という言葉こそ、神の人格性を示す大事な言葉なのです。

 「神は霊である」とは、第1に、目に見えない、物質的ではないということです。神は決して物質的なお方ではありません。キリスト教では、拝む対象としてのご神体のようなものはありません。時間や場所に制限されない、永遠、普遍、無限の霊なる神です。

 「神は霊である」とは、第2に、「人格である」ということです。「人格」と言うと、わたしたちは見たり触れたりすることの出来る「体を持った人間」を考えやすいのですが、「人格」とは本来「意識し、考え、意志し、行動する主体」のことです。身体を持っているから人格ではなく、「霊であることが人格」なのです。そして、神は、最も純粋な霊であるお方、人格を持つお方なのです。キリスト教では、人間の人格と区別する意味で「位格」(いかく)と呼んでいます。このことの詳細は、もう少し後で取り扱います。

 神が「生ける人格である」ことこそ、わたしたちの信仰と生活とを成り立たせる基礎なのです。「神は愛である」という言葉を知っておられるでしょう。聖書にある言葉です。ヨハネの第1の手紙4章8節の言葉です。よく語られる割には、よく考えられてはいないのではないでしょうか。「愛」は人格の属性なのです。人格あって愛が生じるのです。神は、わたしたちを愛し、訪ね求め、わたしたちと交わりを持ち、祈りを聴いてくださるお方なのです。この人格である神に、わたしたちも人格をもって交わりをし、信頼し、従っていくのです。キリスト教信仰とは、生ける神と、生けるわたしたちとの、人格的な交わりなのです。

8、聖書の示す人間…造られたままの人間(1)

    聖書に導かれて、「聖書の示す神」を語ってきました。ここからは「聖書の示す人間」を記しましょう。聖書は、神と人間のかかわりを物語る壮大な書です。人のことを語らねばなりません。

 それは、神の前に立つ自分の姿を知ることです。ところが、今日のわたしたち人間は、実に複雑怪奇な存在です。善いことにいそしむと共に、その中でも罪や悪がつきまとうのです。これは聖書によれば、人間の堕罪(罪に落ちた)のゆえです。わたしたち人間は惨めな姿を示しています。このような惨めな人間の姿は、どこに始まるのだろうか。最初から、神は人をこのような複雑怪奇な惨めな人間として造られたのでしょうか。

 実は聖書は、神が最初に造った人は、決して複雑怪奇で惨めな人間ではなかったと記すのです。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)と記しています。どうして、現在の惨めな人間の姿となってしまったのでしょうか。聖書は、このような惨めな人間になった起源、原因を語る前に、どこから墜ちたのかを記すのです。それが罪を犯す前の、堕落以前の、造られたままの人間の姿です。

 聖書は創世記1章27節で「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と記します。「神にかたどって」とは、神に似せてということです。人間の顔かたちが神に似ているというのではありません。自由な人格を持つものとして「神に似ている」のです。これを「神の形」と表現してきました。人は、知・情・意の人格を持つ生ける神の写し、神のコピーと言ってもいいでしょう。人の本質的な尊厳性が、ここにあると言えましょう。

 神に似せて、神の形として、神は人を自由な人格を持つ存在として造られたということです。それは「まじわり」のためです。聖書の語り示す「神」は「まじわりの神」です。先ず、神ご自身の中で「まじわり」があります。後に述べますが、「三位一体の神」ご自身の中での真実の交わりがあります。同時に、神は人を創造し、人との人格的な交わりを意図されたのです。そのため、神はご自分に似せて、人を神の形として造られました。人は、神とのまじわりに生きることこそが、本来の生き方である、と言っていいでしょう。人は、神と向き合って生きる存在として造られたのです。

 「自由」とは手前勝手な放縦、好き勝手ではありません。人の自由とは、神とのまじわりに生きるためであり、これこそが本来の自由なのです。車が自由に走れるのは「道路」の上です。電車が自由に走れるのは「線路」の上です。はずれると「脱線」し、身動きつかなくなります。この自由の持つ意味が、今日、分からなくなっているのではないでしょうか。

 神は、人が自由をもって神と共に生きるために、神とのまじわりの基本線を示されました。それが最初の神の約束、神の意思の表明です。「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」(創世記2:16-17)。これをしばしば「律法」と言いますが、律法とは神の意思表示、神の言葉です。「これによって生きよ」、と言われたのです。

9、聖書の示す人間…造られたままの人間(2)

    神に似せて自由な人格存在としての「人」について記しました。次に「堕罪」を記すのが順番ですが、その前に男女の問題と人の仕事についての問題とを簡単に触れておきましょう。

 「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:27)。男女ともに「神の形」を担う存在です。しかし「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」(創世記2:18)と記されます。ここから問題が生じます。女は人(アダム・男)の助け手、助手として造られたという理解です。これは決定的な誤解です。聖書において「助ける者、助け手」は劣位の存在・助手ではなく、人には決定的に出来ないことをしてくれる者という意味なのです。罪に陥り自力救済の出来ない人間を救済してくれる神を、聖書は「助け主、助け手」と同じ言葉で語るのです。

 「彼に合う」という新共同訳の翻訳はたいへん示唆的です。「彼のために」ではなく、向き合って存在するために、ということです。「まじわり」のためです。神は、人をまじわりの相手として造られました。同様に、神は人を人としてまじわりをするものとして、相互に向き合う者として造られたということです。人は、最初から「互いに向き合って、まじわりをする」存在として造られたのです。

 次に、この世界に対する人の務めについて記しましょう。「神にかたどって創造された」人に対して、神はこう言われます。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記1:28)と。この「支配せよ」という言葉が時折、誤解されるのではないでしょうか。人間の手前勝手な欲望のままに自然界のすべてを収奪することを「支配」と考えるならば、それは大きな間違いです。

 この後、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2:15)と記されています。「エデンの園」とは、堕落以前の神が造られたままの世界ということです。この世界でも、人には「耕し」、「守る」という務め・仕事が課せられているのです。これが「支配」という言葉の内実です。「支配せよ」(治めよ)とは、神の造られた世界を、神の代理者・管理人として、神の御心に従って、耕し、守ることでした。耕すとは、「カルチベイト」という意味の言葉です。

 創世記が記すことは、神の形として造られた人は、神の代理者・管理人として、神の御心に従って、この世界を管理し、維持し、発展させる務めを担っていたということです。これが人の生きがいであり、天職であり、生きる道でした。そして、人が生きるために食物が与えられたのです。食べるために労働するのではなく、神に従って生きるところに食物が与えられたのです。

 今日、この世界と自然の管理、また労働と職の問題、食糧問題などは、簡単に解決したり、結論づけることは出来ません。多くの問題を包んでおり、簡単に語ることは出来ません。人間の罪が至るところに絡みついているからです。

10、聖書の示す人間…罪人となった人間(1)

    聖書には、しばしば「罪人」という言葉が記されています。これを普通は「ザイニン」と読むのではないでしょうか。けれども、聖書では「ツミビト」と読み、そのようにルビを振ってあります。それは「罪」の意味することが、「ザイニン」と「ツミビト」では、大きく違うからです。「罪人(ザイニン)」という場合は、社会的な「犯罪人」の略語で、その時代、その国の法律に違反した人を指しています。しかし、聖書で「罪人(ツミビト)」という場合は、ごく宗教的に神とのかかわりで語られる言葉なのです。区別しておいていただきたいと願っています。

 造られたままの人間について記しました。神と向き合い、神とのまじわりに生きるために、神に似せて人格を持つ自由な存在として「人」は創造されました。ところが今日、わたしたちは何のためらいもなく、神の前に立ち得るでしょうか。むしろ、「神などいらない」と思っているのではないでしょうか。自覚すると否とにかかわらず、神に背を向けて、神の顔を避けて生きているのではないでしょうか。神を忘れ、神に背を向けて、神に敵対している、このような人間の生き方全体を、聖書は「罪」(ツミ)と語るのです。

 どうして、人はこのようになったのでしょうか。ここに「堕罪」の物語があります。創世記3章全体に、初めての人、アダムとエバの堕落物語が記されています。神は、エデンにおいて、人に最初の戒め、命令を与えられました。「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」(創世記2:16,17)。これは、人の自由な意志による神への服従を判断する基準でした。

 ところが、人は蛇(悪魔・サタン)の誘惑によって、この神の戒め、命令を無視して、「食べるによく」、「目に慕わしく」、「賢くしてくれそうな」、木の実を取って食べてしまったのです。ここには、神の言葉への服従はなく、自分にとってどれほどの益があるかという自分本位の判断だけでした。「神のように善悪を知るものとなる」というサタンの快い誘惑の言葉を聞いた人間の傲慢と自己中心があります。神と共に生きるよりも、自分が神のようになろうという人間中心の生き方を選んでしまったのです。これが「堕罪」と言われていることです。

 人は自分たちの罪の姿を隠そうと「いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆」いましたが、罪の姿を隠しおおせるものではありません。神の訪れの音を聞いたとき、「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れる」ことになりました。最早、神の前に、罪の意識なしに出ることは出来ません。神の顔を避けて、身を隠して生きる生活となりました。これこそが、今日のわたしたちの生きる姿ではないでしょうか。後に、神が人とその妻に責任を問うと、互いに罪をなすり合って、自分は悪くない、と責任を回避するのです。

 しかし、聖書の壮大なスケールの物語はここから始まるのです。神は、罪に落ちた人間を放置しないで、「(あなたは)どこにいるのか」(創世記3:9)と訪ねてくださいます。人の堕落直後から、神は罪に陥った人間・罪人を回復するために、人を訪ね求めて救い出す神となられたのです。聖書は、罪人を救う神を物語る書なのです。

11、聖書の示す人間…罪人となった人間(2)

    堕罪の結果、人は神の顔を避け、生ける神との交わりから断たれて、「罪を犯した魂は必ず死ぬ」(口語訳・エゼキエル書18:4)とあるとおり、必ず死ぬものとなりました。

 「罪」を表すギリシャ語の1つに「ハマルティア」という語があります。「的外れ」という意味です。人は的を外した矢のように、神と共に生きるべき人生の究極的な目標から外れて照準の狂った生活に走り出したのです。的から外れたことは、最初は小さなことと思えましたが、やがて大きな結果となりました。兄弟同士が憎み争い、殺し合う事態となりました。富の追求により構造的な貧富の格差が生じます。人間社会に生じたすべての矛盾と課題とは、ここから始まっているのです。そして肉体と魂の死によって終わるのです。

 先ず、知るべきは罪に対する「神の怒りと悲しみ」です。「神の怒り」などと言うと、日本人にはなじめないかもしれません。怒る神よりも愛する神の方が一般受けがよい。しかし、「神の怒り」は、人間的な気分次第の怒りではありません。「神の義」、「神の正義」に基づくものです。神が神であるかぎり、正しく聖なる神です。不正を愛する神はいません。神の最初の戒め、神の命令が破られ、罪が犯されるところで、罪に対する神の正当な怒りと悲しみが示され、罪の責任が問われるのです。「なぜ、取って食べるなと命じた木から食べたのか」(創世記3:11)と。

 わたしたちがなすべきことは「罪の認知と悔い改め」です。しかし、罪人の罪人たるところは、罪を罪として認めないことです。最初の人アダムは、神から詰問されたとき、「(この)女が木から取ってくれたので…」と応えます。女は「蛇がだましたので…」と言います。責任の回避です。「自分が罪を犯した」とは語りません。これこそ罪人の姿です。この罪人に対して、神は罪を認めて立ち帰るように求めておられます。この「神への立ち帰り」の勧めが聖書の基本的なメッセージなのです。

 このような鈍い罪人に、神は「十戒」を与えてくださいました。イスラエルの民にだけでなく、すべての者の心の中に刻まれた「良心としての十戒」が与えられています。「十戒」は出エジプト記20章に記されています。これが「神の義」の基準です。前半の第一戒から第四戒までは「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と要約できます。後半の第五戒から第十戒は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記18:18)と要約できます。この十戒の一つ一つの言葉によって自己を点検していくとき、罪が浮かび上がってまいります。

 主イエスのところに、ある時、人が来て「先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。主イエスは十戒の後半を示して「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(ルカ福音書18:20)と言われました。すると、その人は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言います。主は彼に対して、十戒の表面的・形式的な守り方ではなく、神の目は心の奥底にまで注がれていることを示されました。行為だけでなく、言葉や心の奥の動きをも含めて十戒によって自己を点検していくとき、パウロと同じように「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ書3:10)と、罪を認めざるを得ないでしょう。

12、罪人を愛して訪ねる神

    人の堕罪の結果、人は神の顔を避け、生ける神との交わりから断たれてしまいました。「食べると必ず死んでしまう」(創世記2:17)と語られていたとおり、人は必ず死ぬものとなりました。しかし、神は直ちに処分をなさいませんでした。神は、罪を犯した人の元に訪ねてくださいます。「(あなたは)どこにいるのか」(創世記3:9)と訪ねてきて、呼び求めるのです。神は、罪を罪として問いただされます。それは人が人格ある存在故です。責任を問うのです。しかし、神は罪を犯した人を直ちに処分なさいません。堕落の後、直ちに救いの道、回復の道を備えてくださいました。

 聖書の指し示す神は、罪を罪として問い、裁く義なる神です。同時に、その罪を赦し回復してくださる赦す神なのです。裁きつつ、赦す神と言っていいでしょう。人間的にはなかなか理解できません。キリスト教信仰がなかなか理解されず、受け止められにくいのは、ここにあると言っていいでしょう。二律背反とも見えます。聖書が語る神は、このように罪を罪として裁きつつ、なおその罪人を愛し、罪を赦し回復してくださる神です。このことをしっかりと受け止めてまいりましょう。

 このために、神がなさったことは神の訪問なのです。罪を犯した人の元に「(あなたは)どこにいるのか」(創世記3:9)と訪ねてくださった神の姿に出発点があります。罪人を放置できない。訪ね出して悔い改めを求める神です。ここに神の愛があるのです。

 新約聖書・ルカ福音書15章に、主イエスが語られた3つの失われたものの例え話が記されています。ぜひ、この箇所をていねいに読んでください。最初は、失われた羊の物語です。羊飼いが、迷い出た一匹の羊を熱心に探し求めて、これを回復する物語です。2番目は、一人の女性が失われた銀貨を懸命にくまなく捜して、見つけ出して大喜びする物語です。3番目は、有名な「失われた息子(たち)」(放蕩息子)の物語です。家出した弟息子がどん底の中で父を見いだして帰郷し、それによって兄が家を出てしまうという物語です。父を巡って、回復するとはどういうことかを物語るストーリーです。

 ルカ福音書15章に記されている3つの失われたものの例えで語られているのは、「探し求める神」なのです。罪により神の元から失われている人間を捜し求め、訪問してくださる神なのです。失われた罪人は、悔い改めて神の元に立ち帰ることを求めておられます。そして、神の元には豊かな赦し・回復のあることを示しているのです。

 キリスト教の祝祭日・クリスマスの出来事が意味していることは、この神の訪問です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ福音書1:14)。神であるお方が、人となって人間の世界の中に入られたのです。神ご自身が罪人を愛し、身をかがめて罪人の世の中に入ってきてくださった出来事です。これは人が方向転換して、神に立ち帰ることを求めてのことなのです。

13、「イエス」とは、だれか

    キリスト教信仰の中心は、イエスをキリスト、神の御子と信じるところにあります。神は、罪人を救うために、長い準備の後に、神の御子を人としてこの世に遣わし、救い主・キリストとしての務めを果たさせてくださいました。このことを理解するためには、福音書の語るイエスというお方を見つめるところから始まります。

 「イエス」というお方について記すのが、新約聖書の4つの福音書です。4つの福音書をしっかり読んでください。福音書を読んで、皆さまはどう受け止められたでしょう。福音書はイエスというお方の言行録と言っていいのですが、普通の人物伝ではありません。マルコ福音書冒頭に「神の子イエス・キリストの福音の初め」(マルコ福音書1:1)と記されています。最初からイエスを「神の子」、「キリスト」と言い、その生涯を「福音」として物語っていくのです。マルコだけでなく4つの福音書ともに、イエスを「神の子」「キリスト」と信じる信仰によって記されています。ある種のバイアスが最初からかかっていると言っていいでしょう。

 「イエス」の誕生は、紀元前4年頃と言われています。ユダヤのベツレヘムに生まれ、ナザレで成長し、「ナザレ人イエス」と呼ばれました。30歳の頃からガリラヤ湖畔で伝道を始め、3年あまりの活動の中で、弟子たちを集め、教育・訓練しました。福音書には、この伝道活動と弟子教育とが記され、最後にイエスの十字架の死と復活の物語が記されています。

 弟子たちにとり、自分たちが出会ったイエスというお方は、謎に満ちていたと言っていいでしょう。「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ福音書4:41)という言葉が何度も残されています。弟子たちの目の前で数々の奇跡を行います。水をぶどう酒に変え、突風を鎮め、多くの人の病や障がいを癒やし、死人をよみがえらせ、5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人々を養うなどのめざましい「しるし」を行いました。イエスの周囲には徴税人や遊女たちも集まり、女性や子どもとも分け隔てなく交わりました。旧来のユダヤ教伝統にとらわれず、旧約律法の解釈には目を見張るほどの斬新さがあり、「新しい教え」が語り出されました。

 最後には、多くのユダヤ人から見捨てられ、犯罪者として十字架処刑に至りました。しかし、処刑されて葬られたイエスが、弟子たちの目の前によみがえって現れたのです。これこそ最大の奇跡「しるし」でした。このイエスの生涯と出来事、十字架と復活という圧倒的な事実を受け止めて、「いったい、この方はどなたなのだろう」と、長い間持ち続けてきた問いに対して、弟子たちが出した答えが、「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」(マタイ福音書16:16)、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ福音書20:28)という信仰の表明、信仰告白となったのです。4つの福音書は、この視点から記され編集されたものです。

 福音書が、単なる人物伝ではないことがお分かりと思います。この地上に来て、弟子たちと共に歩まれたイエスが、生ける神、キリストであるという信仰を語る、イエスについての証言の書なのです。そして、ここから「イエスが神」であることが捉え直されていくのです。イエスが「神である」とは、重大な意味を持ちます。

14、「イエス」は、神であり、人である

    イエスというお方の言葉と行い、その生涯、十字架の死と復活という圧倒的な出来事に接して、イエスの弟子たちは「このお方は、神である」という確信を抱いたのです。弟子たちは、イエスの中に「神を見た」。「神が、共にあるお方だ」、インマヌエル(神、共にいます)という理解が生じたのです。

 主イエスがなさった恵みのみ業、語られた教え、復活という驚くべき出来事に出会って、弟子たちは現実に目の前に立つお方は、肉体を持つ一人の人でありつつ、同時に「永遠の神が共にいるお方」と受け止める以外なかったのです。ここからヨハネ福音書1章14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」という信仰の告白・信仰的な理解が生じたのです。天にいます父なる神と等しい神であるお方が、処女マリアから肉体を取って、この地上に宿られたお方であるという信仰的な受け止めです。

 主イエスの直接的な弟子たちによってなされた、この素朴な告白から多くの論争を経て、やがて古代教会のイエス・キリストの「二性一人格」という教理に結実していったのです。迫害の時代を経て、キリスト教がローマ世界に受け入れられると、初代教会の素朴なキリスト信仰が改めて問い直されます。イエスの人性、イエスが人間であるという側面を重視する人たちが当然います。同時に、イエスは神だということを重視する人たちも出てきます。どちらも真実なのですが、どちらかに偏りがちになります。この論争を解決するために、325年のニケア公会議と381年のコンスタンティノポリス公会議を経てまとめられた「ニケア信条」の中でキリストについての告白を、次のように記します。「二性一人格」という信仰の表明です。

 「我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。主は、あらゆる世に先立って、父から生まれた神の独り子にして、父の本質より生まれ、神からの神、光からの光、真の神からの真の神、造られずして生まれ、父と同一本質であって、天地の万物はすべて主によって創造された。主は、我ら人類のため、また我らの救いのため、天より降り、聖霊の働きによって処女マリアから受肉し、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで我らのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父なる神の右に座し、生ける者と死ねる者とを裁くために、再び栄光の内に来たりたもう。主の支配は尽きることはない」。

 要約すると、救い主イエス・キリストは、父なる神から永遠の内に生まれた神の独り子、神であるお方です。神の独り子であるお方が、処女マリアから受肉、人間性を採って人となられたお方です。真の神・真の人です。このゆえに、主イエスは多くのめざましい奇跡を行うと共に、疲れ、涙を流し、死を経験されたのです。真の人として罪人の罪を担い、罪人の救いのために贖いの死を経験することが出来たのです。神の独り子であるお方が人となられたのは、まさに「我ら人類のため、また我らの救いのため」なのです。

15、神の「三位一体」について

    「イエス」は神である、と述べると直ちに問題が生じます。ユダヤ教側から、それは多神教だと指弾されます。イエスの弟子たち・初代教会は、イエスの中に神を見て、イエスにおいて「神が人となられた」と表現しました。しかし、旧約聖書では、神は神、人は人です。人は被造物で決して神にはなりません。人を神としたり、神と等しいものとすることは偶像礼拝です。「お前は神の子か」と問うユダヤの最高法院(サンヘドリン議会)の人たちに、イエス自身が「人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る」(マタイ福音書26:64)と応えました。これを聞いた人たちは「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか」と叫び、神聖冒涜の罪でピラトに訴えました。

 「イエスは神」、「神と等しいお方」というイエスご自身と弟子たちの主張と、神は唯一であるという旧約聖書の基本的な主張とを、どのように理解したらいいのでしょうか。イエス・キリストの「二性一人格」の主張は直ちに問題となるのです。

 ここから出てきたのが、唯一の神の本質の中に、父なる神、子なる神、聖霊なる神という3つの位格(人間の人格と区別する意味で「位格・ペルソナ」と表現します)があるという理解です。旧約聖書の中の言葉や表現、エロヒームという神名の複数表現、ヤハウェの活動、旧約における聖霊の独自な現臨と活動などを踏まえて、唯一の神の実体の中に、父、子、聖霊という「3つの位格がある」という理解に導かれたのです。聖書をよく研究し、イエス・キリストというお方における圧倒的な救いの現実を受け止めるとき、唯一の神の存在の中に3つの位格・3つのアイデンティティを考えざるを得なかったのです。

 イエス・キリストの神たること、聖霊の神性を考えるとき、最も多く出てくる考え方は「様態論」と呼ばれるものです。「様態論」にはいろいろなバリエーションがありますが、唯一神信仰をなんとか貫こうというものです。例えば、水には液体・固体・気体の3つの様態があります。それと同じように、唯一の神「父」が、ある時に「子」となり、ある時に「聖霊」となるという理解の仕方です。分かりやすく受け入れやすい理解の仕方です。しかし、これは基本的には単なる「一神」論です。父が子となったとき、父は不在となり、父が十字架を担ったことになり、救済論が危うくなります。これは三位一体ではなく、誤った教えです。

 キリスト教会は、長い間の真剣な議論の後、次のように告白しました。「公同の信仰は、唯一の神を三位格において、三位格を一体において礼拝する。三位格は、混同せず、本質を分離することもしない。父の位格があり、子の位格があり、聖霊の位格がある。しかし、父と子と聖霊の神性はただ一つであり、その栄光は等しく、尊厳も永遠である。……父は神、子も神、聖霊も神、しかも三つの神ではなく、一つの神。…ゆえに、救われたいと願う者は、三位一体をこのように信ずべきである」。5世紀頃にまとめられた「アタナシオス信条」です。説明というよりも、「このように信じる」という信仰の宣言です。

 三位一体の神が、それぞれ分担してわたしたち罪人の救いを成し遂げてくださいます。父なる神が創造のみ業を、子なる神が人となられて罪人の救済を、聖霊なる神が罪人の心に働きかけて贖罪を適用してくださるのです。わたしたちの救いは、父と御子、聖霊なる三位一体の神の総合的な働きによるのです。

16、イエスはキリスト(救い主)か?

    「イエスは神である」ということに続いて、「イエスはキリスト」ということをお伝えします。わたしは高校時代に教会に行きました。その頃、「イエス・キリスト」とは、イエスは個人名、キリストは姓と理解していました。大きな間違いでした。「イエス」とは「主は救い」という意味を持つ個人の名ですが、「キリスト」は姓ではなく職名と言っていいでしょう。「救い主」という意味の言葉です。

 「キリスト」とは、ヘブライ語「メシア」のギリシャ語訳です。意味は「油を注がれた者」ということです。旧約時代、イスラエルでは、神の言葉を民に語る預言者、民を代表して神にとりなしをする祭司、神に代わって民を治める王、この3つの職務に就く人にオリーブ「油が注がれて」任職しました。「油注ぎ」は、神の霊・聖霊が注がれ、神から賜物と力が与えられたことのしるしです。ですから「油注がれた人」は、王、祭司、預言者とたくさんおり、この人たちがイスラエルの民の指導者でした。

 ところが、後にアッシリア捕囚(紀元前732年頃)、バビロン捕囚(紀元前586年頃)などによって、民族的な独立が失われ、神殿が崩壊し、王、祭司が絶え、預言者さえも失われました。ユダヤの地が強大な諸外国によって蹂躙され、支配され、収奪されます。その時、ユダヤの民の中に、民族的な独立と解放を実現してくれる王を待望する気運が強くなりました。この独立と解放をもたらす王(同時に、祭司・預言者を兼ねるような)を、「メシア」(キリスト)と呼んで待望しました。「メシア待望」と言います。

 新約の福音書の中にも、このメシア待望を裏付ける文言があります。当時の人々はイエスに「先生、しるしを見せてください」(マタイ福音書12:38)と、メシアのしるしを求めています。イエスが多くの人の病を癒やし、嵐を鎮め、五つのパンと二匹の魚で5千人以上の人々を養い、死人をよみがえらせるなどの超自然的奇跡を行うと「大預言者が我々の間に現れた」(ルカ福音書7:16)と言って大勢の群衆が取り巻きます。最後に「最高法院」(サンヘドリン議会)で「お前は神の子、メシアなのか」(マタイ福音書26:63)と尋問します。当時の人々は、イエスに待望のメシアを見ていたと言っていいでしょう。

 ところが、イエスは、このようなメシア待望には徹底的に一線を画していました。イエスの弟子となり、友となったのは、ガリラヤ湖畔の漁師たち、徴税人、娼婦、病む者たちでした。弟子たちには、ご自分が真のメシアであることを口外することを堅く禁じ、周りに多くの人々・群衆が集まってくると身を引きました。「人里離れたところに退いて」(ルカ福音書5:16)と記されています。

 では、イエスは「メシア・キリスト」ではないのでしょうか。実は、イエスこそ、まことのメシア・キリストでした。神は、人が罪を犯して堕罪した、そのところから罪人の救いを計画してくださいました。「彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」(創世記3:15)と、女の子孫の勝利が語られます。旧約の長い歴史は「キリストを生み出す歴史」であったと言っていいでしょう。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である」(ルカ福音書2:11)。

17、イエスは、まことのキリスト(救い主)

    イエスは、3年半にわたる伝道活動(公生涯)の中で、先ず弟子たちを集めて教育・訓練しました。伝道旅行に伴い、多くの教えを語り、多くの奇跡を目の前で行い、メシア・キリストであることを示しました。十字架への歩みを始める前に、12人の弟子をフィリポ・カイサリアに連れて行き、口頭試問を行いました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねた後に、弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い直されました。すると弟子たちを代表する形でペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。合格です。イエスはこの答えを喜び、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたほどです。マタイ福音書16章13-20節に記されています。

 ところが、イエスは「ご自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」のです。ユダヤ人の中にあったメシア待望のメシアではなかったからです。しかし、この時から、イエスはまことのメシアの道を弟子たちに告知され始めました。それは「苦難を受けるメシア」の道でした。「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ福音書16:21)のです。繰り返し、苦難を受けて殺されることが救い主の道であることを予告されました。

 弟子たちにも、なかなか理解できませんでした。まして当時の人々には理解できないことでした。人々が待望しており、また弟子たちのイメージの中にも色濃くあったのはダビデのような力をもってローマの支配から「イスラエルを解放するメシア」だったからです。しかし、実は旧約聖書の中には「苦難を受けるメシア」がはっきり記されているのです。それがイザヤ書53章を中心に記されている「受難のしもべ」の姿です。

 少し長いですが、イザヤ書53章3-5節を記します。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

 ここで「彼」と呼ばれている「苦難を受けるしもべ」を、イエスは「わたしのこと」として引き受けられたのです。人々に軽蔑され、見捨てられ、病と痛みを身に負い、神の手にかかり、刺し貫かれ、打ち砕かれたメシア・救い主であったのです。しかし、この「しもべ」の苦難によって、わたしたちの咎が赦され、神との平和が与えられ、いやされるのです。ここに代償的贖罪の道が語られているのです。これが、まことのメシア・キリストの歩む道でした。

18、キリスト(救い主)の働き…まことの預言者

 イエスは、神によって油注がれたまことのメシア・キリスト(救い主)です。「キリスト」とは職務・務めの名称です。では、イエスは、どのような職務を果たされたのでしょうか。3つの職務です。預言者、祭司、王です。元々、神の民イスラエルでは、この3つの務めに就く者たちは「油が注がれ」て任職したのです。

 イエスはメシア(油注がれた者)として、父なる神ご自身から、聖霊の油を注がれて、この3つの務めを担う者とされました。イエスのキリスト・救い主としての働き全体を過不足なく理解するためには、この3つの職務から考えるのが適切です。

 イエスは、まことの預言者、神からの教師です。この働きについては、信仰を持たない人でも肯定するのではないでしょうか。イエスは、旧約預言者のように神の意志と神の言葉を語りました。ガリラヤ湖畔で、旅をしながら、会堂でも、み言葉を教えました。新しい預言者の到来を迎えてユダヤの民衆も尊敬しました。

 ところが、イエスが語り、教えた事柄は、初めこそ「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて『この人はヨセフの子ではないか』」と言いますが、やがて「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(ルカ福音書4:22-29)という結果になりました。イエスの語った教えが斬新で人々の注目を集めましたが、決定的なところで従来のユダヤ教の律法理解と相違し、ユダヤの人々の憤激をかったのです。

 安息日について、当時の律法学者たちと異なる理解を示しました。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(ルカ福音書6:9)と、律法を根源から問い直しました。さらに、当時のファリサイ派の律法解釈に正面から立ち向かいました。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ福音書5:27-28)と。「しかし、わたしは言っておく」と言う表現で、律法の形式的な遵守でなく、律法が与えられた根本の意図と精神に立ち戻って教えたのです。

 イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ福音書4:17)と言って、福音を宣べ伝えました。その神の国の福音とは、キリストの十字架によってもたらされるものでした。イエスは弟子たちに「メシアの受難」を繰り返し語りました。預言者としてのイエスの働きは、受難のメシアによる神の国の到来を語ることでした。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と語りましたが、「弟子たちはこの言葉が分からなかった」のです(マルコ福音書9:31-32)。

 キリストが到来して新しい時代が来ていること、メシアの受難・イエスの死と復活によって神の国が完成すること、人の子の再臨などをしっかりと教え、神の国の福音を世界中に伝えることを命じました。弟子たちにとって当初、謎に包まれたような教えでしたが、やがてイエスの復活などを通して、イエスの語られた教えに目が開かれていったのです。

19、キリスト(救い主)の働き…永遠の大祭司

    イエスは大祭司として油を注がれたお方です。実はイエスの出自はダビデの子孫であるユダ族で、祭司の部族のレビ族ではありません。イエスの祭司職は、レビ系のアロンの大祭司職の継承ではなく、別のさらに優れた「メルキゼデクに等しい大祭司」なのです。「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、『あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である』と証しされているからです」(ヘブライ書7:16-17)とあるとおりです。自分の罪のために贖いをする必要もなく、生涯のはじめもなく、終わりもなく「永遠の祭司」なのです。

 大祭司の最も大切な務めは、民に代わって、民のために、「贖い」(あがない)をすることです。「すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません」(ヘブライ書8:3)。旧約時代、大祭司は年に一度、小羊の血を携えて至聖所に入り、自分と民の罪のために契約の箱の上に小羊の血を注いで「罪の贖いの儀式」を行いました。これはイエスの十字架の贖いの予表でした。

 イエスは、わたしたちの大祭司として、わたしたちの罪のために、動物の小羊の血ではなく、罪なきご自身の血を流して、罪の贖い…代価の支払い、をしてくださったのです。イエスが十字架において、わたしたちの罪を背負い、裁かれ、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」マルコ福音書15:34)と叫ばれました。神から見捨てられた罪人の惨めな死です。

 神は、十字架でイエスを人間の罪の結晶として裁いておられます。罪に対する正当な裁き、神の見捨てを一身に受けられました。イエスが、わたしたちに代わって、わたしたちの罪のための刑罰、処分を引き受けてくださった。これが、「代償的贖罪」と言われ、キリスト教信仰の核心です。

 このイエスの十字架によって、わたしたちの罪は裁かれ、罪の代価は支払われました。聖書には「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(Ⅱコリント5:21)と記されています。イエス・キリストがわたしたちの罪と不義を担ってくださったことにより、わたしたちのすべての罪と不義が贖われ、義と認められるのです。罪が赦され、神と和解し、神の前に立つことが出来る。至聖所の垂れ幕が「真っ二つに裂けた」出来事が示していることです。

 また、イエスの大祭司としての働きは民のために祈ることです。イエスはペトロに「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22:32)と言われました。イエスはわたしたちの大祭司として、今も祈り続けています。わたしたちが信仰者として全うされるのは、わたしたちの努力や修道によるのではなく、イエスのとりなしの祈りの故なのです。

20、キリスト(救い主)の働き…力強い王

    イエス・キリストの救い主としての働きは、預言者、祭司、王として語られます。ここでは「王としてのイエス」について記します。現代は、「王」はあまり良いイメージではありません。どちらかと言うと、暴君、圧制者、抑圧者など負のイメージが強いでしょう。

 聖書における「王」は羊飼いなのです。「主は(わたしの)羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い…」(詩編23:1)と語られている、羊飼いの姿こそ「王」なのです。羊には羊飼いが必要です。羊飼いなしには、羊は生きていけない動物です。方向感覚に乏しく、戦う能力に乏しい存在です。このような羊に、わたしたち信徒は例えられているのです。

 王には力と権威があります。それは羊飼いとしての力と権威です。羊飼いは、羊の群れを青草の原に導き、食物と水とを与えます。野獣や外敵と戦って羊の群れを守ります。この羊飼いである王に従うところに、安心と安全があります。

 イエスは、わたしたちの王として、暴君のようにではなく、「しもべ」として仕えることを通して、わたしたちを治めてくださいます。イエスは「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。…上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカ福音書22:25-26)と言われ、ご自身が弟子たちの足を洗われました。これがまことの王のあり方なのです。

 イエスは、十字架の死の後、3日目に死人の中からよみがえりました。復活です。ここにイエスの王としての力が最も明らかに示されています。死に勝利されたのです。罪に陥った人は、すべて死の力の下に縛られています。しかし、イエスはその復活を通して、人類の最後の敵である死に勝利してくださいました。「最後の敵として、死が滅ぼされます」(Ⅰコリント15:26)とあるとおり、キリストが死を滅ぼして勝利してくださり、わたしたちもその勝利にあずかるのです。

 今、イエスは「天に上げられ、神の右に座して」おられます。救い主としての地上のすべての働きを終えて、天に上げられたイエスは、「天と地の一切の権能を授かった」お方として、わたしたちを神の民として一つにまとめて、守り導いてくださいます。「教会の頭(かしら)」という言葉があります。神の選びの恵みにあずかり、キリストに結ばれた者たちを「キリストの身体」としての教会に結び、「御言葉と聖霊」によって養い、守り、導いてくださいます。

 イエスの救い主(メシア・キリスト)としての大きな働きを、預言者、祭司、王という職務を通して解説してきました。これらは別々の独立した職務というのではなく、お一人の救い主・キリストの大きな働きをわかりやすく伝えるためのものです。イエス・キリストは、その生涯と死、復活を通して、さらに天にいます今も、わたしたちのための預言者、祭司、王として、救い主としての働きを続けておられます。

21、聖霊の働き…父と子と共に礼拝される神

    今回から「聖霊なる神」について記します。「聖霊なる神」は「分かりづらい」と言われます。そしてまた、聖霊を強調する人たちによって誤った方向に導かれることもあります。このため、先ず大事なことをはっきりさせておかねばなりません。

 聖霊は、三位一体の神の「第三位格」であることです。聖霊は、父とみ子と同じ神性を持つ三位一体の神の一つの位格であることです。ニケア信条で、このように告白されています。「我らは、聖霊を信ず。聖霊は、主にして生命を与える方、父(と子)から出で、父と子と共に礼拝され、あがめられ、また預言者を通して語りたもう」。聖霊を語るとき、その働きから始めやすいのですが、最も大切なことは「聖霊」は三位一体の神であるということです。

 聖霊は、しばしば救済論(救いに関わる事柄)の枠組みで語られます。しかし、神の霊・聖霊は天地の創造に深く関わります。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:1-2)と。「神の霊が水の面を動いていた」、そのとき、神は「光あれ」と、み言葉を語り出して、創造のみ業が始められていくのです。天地の創造は三位一体の神全体のお働きであることを銘記しておくべきです。

 聖霊は、この世界一般の中でも働いておられます。祭司や預言者に働くだけでなく、モーセの時代には、幕屋の制作に奉仕する職人たちにも働いて導きを与えます。人間の知恵や文化、思慮分別にも働かれています。神によって造られた世界が、人の罪と悪によって滅んでしまわないように、聖霊はしっかり守り、支えていてくださいます。「霊」はヘブライ語で「ルーアフ」、ギリシャ語「プニューマ」ですが、いずれも「息・風」を意味します。神の霊は、神の息です。神はお造りになったものを、神の息をもって包み、保持しておられるのです。

 聖霊の顕著な働きは、神の御心の啓示です。ニケア信条では、聖霊の働きについて「預言者を通して語りたもう」と告白します。この告白の意味は、聖霊が「啓示の霊」であるということです。この「預言者」は、狭い意味での旧約預言者たちだけでなく、旧約の詩人、知者、歴史家たち、新約の使徒や福音書記者、手紙の執筆者なども含まれています。このような多くの人たちの活動が旧約・新約の聖書としてまとめられていきます。

 この啓示のすべての活動が、神の霊の働きによるのです。三位一体の神である聖霊は、三位一体の神の内なる想いとご計画を知って、これら多くの人々を用いて開示してくれるのです。この「神の語りたもう」ことが、旧新約の聖書という文書にまとめられました。このすべての働きに聖霊の霊感が働いているのです。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(Ⅱテモテ3:15-16)。聖書において語りたもう神の言葉に耳を傾け、神の言葉を受け入れるところに、キリスト教信仰が成立していくのです。

22、聖霊の働き…人を造り変える神

    今回は、「聖霊なる神」が、わたしたち一人ひとりに、救いを得させてくださる働きについて記します。聖霊なる神の人の救済に関わる働きです。新約時代における聖霊は、聖霊降臨(ペンテコステ)において、老若男女、人種や身分などに一切関わりなく、神とキリストを信じる者たちの上に豊かに降りました。この時から、聖霊は一部の人にではなく、すべて信じる者一人ひとりの中に働く神の霊となったのです。使徒言行録2章に記されています。

 聖霊は目に見えませんが、わたしたちの中に宿り、人の心を新しく造り変えて信仰へと導いてくださいます。聖霊は「風」に例えられます。イエスは「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ福音書3:8)と言われました。わたしたちが努力して聖霊を捕まえるのではありません。神が、わたしたちを選び、愛して、聖霊を与えてくださいます。人の目に見えませんし、意識にも上りません。しかし、いつしか、神とキリストを信じるようにさせてしまうのが、わたしたちの内に住む聖霊の働きです。

 あなたが「聖書を読んでみようか」、「教会に行ってみようか」、「お祈りをしてみよう」と、考えるとき、聖霊はもう豊かに、あなたの中に働いているのです。神の霊に包まれ、神に導かれていると言っていいでしょう。祈りつつ、聖書を読み、出来るならば教会の集会に集うことを考えてみてください。

 聖霊なる神の最も大きな働きは、わたしたちの心を導き、光を与え、主イエス・キリストを信じる信仰を与えてくれる働きです。聖霊は、人に「信仰の賜物」を与えて、救いの恵みを現実化してくださるのです。イエス・キリストが十字架で実現してくださった贖いの恵みを受け取るのは信仰によるのです。「信仰義認」と言われます。イエス・キリストの働き…その死と復活を通して得られた救いの恵み、赦しの恵みを、わたしたちが現実に受け取ることが出来るのは、聖霊の働きによる信仰を通してです。

 パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリント12:3)と記しています。聖霊なる神は、わたしたちの心と思いを照らし、啓発して、聖書の言葉を理解することが出来るようにしてくださいます。難解だと思っていた聖書の言葉が、しだいにわかり、悟ることが出来るようになります。心の目が開かれて、聖書が示す「イエスをキリスト」と信じる信仰へと導き、キリストを喜んで受け入れる者へと造り変えてくださるのです。

23、聖霊の働き…悔い改めと信仰

 「聖霊なる神」は、イエス・キリストが贖い主として十字架と復活において獲得してくださったすべての恵みを、現実にわたしたちに適用し、与えてくださるお方です。「悔い改めと信仰」を通してです。悔い改めと信仰は、聖霊なる神の働きであり、賜物なのです。

 ルカ福音書15章をお読みください。イエスの語られた「失われたもの」の3つの例えが記されています。失われた羊、失われた銀貨を、執拗に探し求める持ち主の姿が語られて「一人の罪人が悔い改めれば」、「大きな喜びが天にある」と語られています。「悔い改め」とは、わたしたち人間の懺悔や後悔ではありません。「メタノイア」という語ですが「方向転換」という意味を持ちます。主人の元から失われていたものを、主人が熱心に探し求めて、回復・方向転換させてくれることが悔い改めです。

 最後は「弟息子の回復の物語」です。弟息子は、父親の財産を我が物とし、売り払い、都会に出て勝手気ままな放蕩に身を委ねます。その結果、無一文になり、どん底を体験します。そのどん底の中でハッと我に返り、「父がいた」ことに気づき、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。…」と言って、父の元に立ち帰ります。すると、父は弟息子を抱いて接吻し、迎え入れて息子として回復させる物語です。ここに悔い改めと信仰がはっきりと語られているのです。

 「悔い改めと信仰」とは別々のことではありません。1つことの裏と表と言っていいでしょう。悔い改めは、自分の罪を認め、「罪を犯しました」と告白し、罪から離れることです。信仰とは、父なる神の元には赦しがあることを確信して、父なる神の元に立ち帰ることです。この全体が、弟息子の意志と決断を生み出した父の慈愛、聖霊の働きと賜物なのです。

 「信仰」には、3つの要素があります。1つは、聖書を読んでキリストの出来事を「知ること」です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ福音書17:3)。この「知る」は、知的探求ではありません。「キリストを見る」ための求道です。

 2つは、「受け入れること」です。わたしが償わねばならない罪のために、イエスがわたしの身代わりになって、十字架にかかり、わたしの罪を完全に償ってくださった、と認めることです。これが信仰の核心です。十字架と復活のキリストを「我が主、我が神」と心から信じ、受け入れることです。祈りの中で、この決断をしてください。

 3つは、キリストに「信頼し、より頼むこと」です。信頼は一瞬のことではなく、生涯にわたります。イエス・キリストを「我が主」として信頼し、もたれかかって身を任せることです。今後のわたしの人生、地上の人生だけでなく、永遠に至る生においても、牧者であるお方に信頼して委ねていくことです。祈りの中で、十字架と復活のイエスを「我が主、我が神」と信じ、受け入れるならば、キリストと結ばれ、罪が赦され、義と認められます。これによって、間違いなく「信仰者」、「キリスト者」となるのです。

24、救いの恵みと確かさ

 今回は、「聖霊なる神」が「悔い改めと信仰」を通して与えてくださる恵みについて記します。「救いの恵み」です。キリストを信じた人は、どのような恵みにあずかるのでしょうか。

 聖霊の賜物である信仰は、まず、信じる者をキリストに結びます。「キリストとの神秘的結合」と言われます。主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ福音書15:5)と言われました。聖霊は、信じる者とキリストとを1つに結ぶ帯です。パウロは「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ書2:19-20)と記します。信仰によって、人はキリストに結ばれ、キリストと共に十字架につき、キリストと共にいのちに生きるのです。

 信仰によるキリストとの結合の結果の第1の恵みは、神から義と認められることです。「信仰義認」と言います。神に対して犯された生涯のすべての罪が、キリストの贖いの故に赦され、神との正しい関係に回復されたのです。「あなたの罪は赦された」と宣言されて、神との和解が成立したのです。神に背を向けて歩んできた生き方が、神を仰いで、神と共に生きる新しい生き方に変わったのです。ここから新しい永遠のいのちが始まります。

 次に、信仰によるキリストとの結合の結果、「子とされる」ことです。父なる神の本来の御子はイエス・キリストだけです。しかし、キリストに結ばれた結果、信じる者たちも「神の子ら」とされます。法的な意味で養子となったと言っていい。わたしたちが神性を持つわけではありませんが、主イエスと共に神を「父」(アッバ)と呼ぶことが出来る身分を獲得したのです。神の子らとして、キリストを信じる者たちは自由に大胆に祈りをもって御国の宝庫の恵みをいただくことができます。

 第3に、「聖とされる」ことです。キリストに結ばれて、キリストの聖さにあずかるのです。罪が赦されたとは言え、地上にある限り、なお罪人です。この罪人がキリストに包まれて、しだい次第に「聖なるもの」へと変えられていくのです。「聖化」と言い、キリストに似る者へと変えられていくのです。

 これらの救いの恵みに加えて、神と共にある者としての平安、喜び、生きがい、希望などが生み出されます。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5:17)という確信に立って生きるのです。この救いの恵みは、決して失われることはありません。信仰を持っても、なお罪を犯し、失敗を続けます。挫折を経験すると、失望するかもしれません。しかし、一度、キリストに結ばれた人の救いは、途中、紆余曲折しても、決して失われません。主イエスは「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(ヨハネ福音書10:28)と言われました。主イエスがしっかりと守り抜き、救いを全うしてくださいます。救いは堅く保持されます。

25、「キリストのしもべ」として生きる

 今回は、キリストを信じて救いの恵みにあずかった信仰者の歩みについて記します。キリストを信じた人はキリスト者(クリスチャン)と呼ばれます。キリスト者とされた人は、どのように生きるのでしょうか。

 一昔前まで、日本でクリスチャンと言うと、「酒もタバコもやらないくそ真面目な奴」と言われ、「自分のような者はクリスチャンになれない」と尻込みされました。大きな誤解です。酒やタバコは信仰とは直接関係ありません。聖書には「大酒を飲むな、身を持ち崩すな」(箴言23:20)と記されていますが、禁酒の記述はありません。タバコは近代に南米からもたらされたもので、聖書には記されていません。基本的には、自分と隣人の健康を考えてくださったらいいことです。キリスト教と禁酒・禁煙が関係づけられた歴史的な経緯はあるのですが、ここでは取り扱いません。

 キリスト者の基本的な生き方は、「キリストのしもべ」として生きることです。パウロは自己紹介する時、「キリスト・イエスの僕(しもべ)パウロ」と記しました。「しもべ」と訳された言葉は「奴隷」です。キリストの弟子たちは、ごく初期から自分たちを「キリストの奴隷・しもべ」と語ってきました。初代教会時代の奴隷と近代アメリカの奴隷には大きな違いがありますが、基本的には同一です。「主人がいる」、「主人の所有である」ということです。

 「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(Ⅰペトロ1:18)。キリスト者とは、キリストが血の代価を支払って買い取られたキリストの「しもべ」です。これがキリスト者の生き方を規定します。キリストのしもべとは、自分の生活と生涯とを自分中心・自己中心に生きるのではなく、キリストが自分の主人・所有者と認めて、主人であるキリストの意志に従って生きる人なのです。「クリスチャン」の元のギリシャ語「クリスティアヌス」も、キリストに「帰属する者、帰依する者」です。キリスト者は、自分のために生きるのではなく、救い出してくれた「キリストのもの」として生きるのです。

 ここにキリスト者の自由があります。あれこれの細かな規則や枷(かせ)に従って生きるのではなく、キリストのご意志を聖書から確認して、自分の生き方を定めていくのです。では、規範や規準になるものは何もないのでしょうか。あります。それが「十戒」です。旧約聖書・出エジプト記20章1-17節に記されています。ぜひ、お読みください。主イエスは、この十戒を要約して、こう言われました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ福音書12:29-31)。

26、「教会」とは、何か

 今回は「キリスト教会」について記します。キリストを信じた人はキリスト者(クリスチャン)と呼ばれます。このキリスト者の大切な生き方は、ある1つの「教会」に加わり、「教会員」になることです。このホームページでは「教会に来なさい」、「教会に行きなさい」とは、勧めないと記しました。教会に行くことの出来ない事情を抱えて生きる人に、教会への勧めの言葉が強制的と思われるかもしれないと考えてのことです。また実際に、教会に接触して、失望したり、裏切られたりして、傷を持っている方もいるでしょう。それらの人たちに、教会への勧めは傷の上に塩を塗るようなことになりかねません。

 確かに、現実の教会はいろいろな誤解を持たれています。ここでは、基本的に聖書から「キリスト教会とは何か」ということを、1つの知識として知っておいていただきたいと願っています。「教会」とは、何でしょう。一般的には十字架の付いた「建物」を思い浮かべるのではないでしょうか。間違いではありませんが、厳密に言うと、それは「教会堂」であって「教会」ではありません。「教会」と訳された元のギリシャ語は「エクレシア」で、「呼び出されたもの」を意味しています。都市国家のギリシャで、市会議員が自宅から呼び出されて開く集会・会議を指していました。その「エクレシア」を借用したのです。この世から呼び出されて、神とキリストを礼拝する集会・礼拝共同体を「エクレシア」と呼んだのです。

 主イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18:20)と言われました。これが「教会(エクレシア)」なのです。建物があってもなくても、人数が多くても少なくても、何の問題もありません。キリストの名によって呼び出され、複数の人が集い、キリストがそこに臨在され、礼拝されるところが「教会」です。「教会」という何か固定的なものがあるのではありません。キリストを信じて、神を礼拝する信徒の集い、信徒の群れが「キリスト教会」なのです。

 この信徒の群れ、礼拝共同体は何らかの組織を持つことになります。どこで、何時から、集会を始めるか。だれが司会するのか。聖書を読み、メッセージを語るのはだれか。準備するのはだれか。少なくとも、これらのことを決めないでは「集会・礼拝」は出来ません。数人でも1つの群れです。群れを責任を持って運営する人たちが必要です。そして、ここに人間的な躓きも生じることになります。教会の指導者とされる人たちでも、なお罪人です。行き違いや感情的なもつれ、理解の相違などによって、衝突が起こり、分裂も起こります。

 これらのことを冷静に受け止めて、自分が出席できる教会を選択することも必要です。落ち着いて集会・礼拝に出席することの出来る群れを見つけることも大切なことです。完全に満足できる教会というものはありません。しかし、心落ち着いて礼拝できる教会は必ずあります。ゆっくり時間をかけて探してみてください。

27、「教会」の使命と働き

 今回は、「キリスト教会」の使命とその働きについて記します。キリスト教会には、ローマ・カトリック教会、ルーテル教会、改革派教会、バプテスト教会、ホーリネス教会など、いろいろな教派の教会があります。日本では130以上の教派があると言われています。当然、いろいろな違いも目立ちます。

 しかし、基本的には同じ「キリストの教会」です。同じ「旧・新約の聖書を神の言葉」として信じています。三位一体の神、二性一人格のキリストを信じています。基本的な信仰は同じ、と言っていいでしょう。もし、あなたが、教会を捜しているのなら、「旧・新約の聖書を神の言葉として信じるか、どうか」、と尋ねてみてください。

 このキリストの教会には、基本的な使命があります。よみがえられた主イエス・キリストが弟子たちにこう命じられました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28:18-20)。

 ここに、教会の使命が示されています。1つの使命は、全世界に出て行って「すべての民に」福音を伝え、信じる者に「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」て、キリストの弟子とする、伝道の使命です。教会の最も大切な使命です。伝道は、いろいろな形で行われます。個人的だけでなく、講演会や音楽会、日曜学校など、などです。その中で、最も大切な伝道は、日曜日の礼拝における説教です。教会は、そのすべての集会で、直接間接に、イエス・キリストの福音を伝えることを願っています。

 教会のもう一つの使命は、キリストを信じた弟子たちに、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という弟子教育の使命です。いったん信じたら、それで終わりではありません。キリストの高さまで信仰的に成長することが求められているのです。生涯、罪を悔い改めながら、御言葉に従って信仰者として霊的に成長していかねばなりません。教会は、そのすべての集会で信徒を教育し、訓練し、整えていくのです。

 教会にはこれら2つの基本的な使命だけでなく、第3の使命と言っていいものがあります。それが「社会的な使命」と言えるものです。直接的にキリストを伝える伝道とは少し違い、社会にキリストの愛を証しし、正義と公平、平和を求め、隣人に仕える使命です。キリストが隣人に仕えたように、隣人に仕える「ディアコニア」(奉仕)の使命です。

 教会が、このような3つの使命に生きるとき、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という御言葉の保証と祝福が生きてくるのです。教会は、このような使命を果たすための使命共同体なのです。

28、「教会」の洗礼と聖餐について

 今回は「キリスト教会」が行う「洗礼と聖餐」の礼典について記しましょう。洗礼と聖餐とは「礼典」と言います。新約聖書のギリシャ語「ムステーリオン」(奥義)をラテン語で「サクラメント」と訳し、秘められた意味を持つ儀式としました。ローマ・カトリック教会では「秘儀」として7つの礼典を定めました。プロテスタント諸教会は、宗教改革において7つの礼典の内5つを廃止し、洗礼と聖餐の2つを礼典として堅く守り続けてきました。

 その理由は、第1に主イエス・キリストご自身が「このように行え」と、お命じになられたからです。第2に洗礼と聖餐とは、単なる形式ではなく、教会のいのちのしるし、教会がここにあると言える事柄だからです。イエス・キリストとの出会いと交わりを表すしるしです。

 よみがえられたキリストは弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ福音書28:19-20)と命じました。教会は、このお言葉に従って、人を教会に迎え入れます。洗礼式はキリスト教会への入会式です。信仰告白の準備過程を終えて、試問を受け、会衆の前で信仰を告白し、牧師から「三位一体の神の名によって」頭に水を注がれて、キリスト教会の会員となります。

 洗礼は、単なる入会式というだけのことではありません。洗礼が意味することは、(1)キリストに接ぎ木されたこと、(2)キリストに結ばれて、罪が赦され、義とされ、神の子とされ、聖とされる救いの恵みにあずかっていること、(3)キリストへの献身、という霊的出来事、救いの恵みを「しるし付ける」事柄なのです。「あなたはキリストのものだ」ということの確証です。

 イエス・キリストは最後の晩餐において「このように行え」と、聖餐を行うことを命じました。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」(Ⅰコリント11:23-25)。

 聖餐式は、最後の晩餐の継続・継承と言えるでしょう。聖餐式のパンとぶどう酒はわたしたちの罪のために十字架を担われたキリストの体と流された血を表し意味しています。決してパンとぶどう酒がキリストの体と血になるわけではありません。しかし、陪餐(聖餐にあずかること)を通して、聖霊の力によって真実にキリストとの結合の中に導かれ、キリストとの生ける交わりに入れられるのです。聖餐式のたびごとに、「わたしは確かにキリストの贖いの恵みにあずかっている」と、確認するのです。

29、「キリスト教会」の教派について

 今回は、「キリスト教会」の「教派」について記します。「教派」の問題は教理とは少しずれますが、多くの方が「教派」についての説明を求めています。初めての方が教会に来て「教会にも宗派があるんですね」と言われます。仏教の「宗派」は寄って立つ経典が違います。キリスト教会は、経典(正典)は「聖書」だけで、これはすべての教派で共通しています。

 教派は、教会の長い歴史の中から生まれてきました。使徒後の古代教会時代が終わる頃に、ローマ帝国が東西に分裂します。4世紀末頃です。それに乗る形で、コンスタンチノープルを中心とした東の「ギリシャ正教会」と、西のローマを中心にした「ローマ・カトリック教会」に分かれていきました。本来は1つの教会でしたが、次第に信仰の理解や教会体制の違いが生まれ、11世紀の中頃に東西教会の分離となりました。この東西2つの教会は、教派とは言わず、1つの根元から別れた2つの巨大な幹と言っていいでしょう。

 西方の「ローマ・カトリック教会」は西欧全体のキリスト教化に成功しましたが、次第に聖書からズレが生じ、堕落の道を歩み始めました。何回も教会刷新運動が起こりますが、失敗しました。1517年10月31日、ルターによる宗教改革運動がドイツで始まり、やがてスイスでもカルヴァンたちによる改革運動も起こり、全ヨーロッパに広がっていきました。「プロテスタント諸教会」の成立です。「プロテスタント」とは「抵抗」を意味する言葉です。

 プロテスタント諸教会は、宗教改革の結果、ローマ・カトリック教会から分離して生まれました。このプロテスタント諸教会は、最も大切なこととして、(1)ローマ教皇からの独立、(2)国家権力からの分離、(3)聖書のみを神の言葉として信じる、ということをほぼ共通に主張しています。ローマ・カトリック教会の失敗を反省し、教皇から独立し、聖書のみを信仰と生活の基準とした新しい教会の歩みを始めたのです。

 しかし、問題はここからです。プロテスタント諸教会は、聖書のみを権威としましたが、同時にその聖書の「解釈の自由」を重んじました。同じ基本的な信仰、三位一体の神、二性一人格のキリストを信じながらも、聖書の解釈と理解に微妙な違いが生じることとなりました。プロテスタントはローマ・カトリック教会のような教皇の権威を認めませんから、「聖書解釈の自由」が尊ばれることとなります。1つの群れの中で、解釈の違いによって紛争やいがみ合いが起こるのを避けて、それぞれ別々に礼拝し、別の組織とした方が良いということで、「教派」が生まれました。基本的には、「聖書解釈の自由」を重んじた結果で、これがプロテスタントには多くの教派がある最大の理由です。

 多くのプロテスタント教会は、自分たちの聖書理解、その解釈、教派教会の信仰の道筋を「信仰告白」文書、「教理問答」文書などにまとめて、これが自分たちの信仰の表明であるとしています。それらのものを見たら、その教派教会の信仰が分かります。改革派・長老派教会系のものですと「ウェストミンスター信仰告白」、「ハイデルベルク信仰問答」などです。

30、死と死後の問題

 今回は、わたしたち信仰者の死と、死後の問題を取り扱います。わたしたち人間の一期(いちご)の課題であり、この課題ゆえに「わたしは信仰を求めた」という方もおられます。わたし自身もまだ死を経験しておらず、基本的に「聖書はこう記しています。聖書はこう約束しています」ということを記します。

 キリストを信じた者も必ず死にます。死は愛する者たちとの別れであり、悲しくつらい出来事です。しかし、キリスト者にとって、死は決して滅びではありません。死は終わりではないのです。罪の支払いとしての死は、主イエス・キリストの十字架の贖いによって終わっています。キリスト者はキリストに結ばれて、キリストから永遠のいのちをいただいています。キリスト者は死んでも生きるのです。主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ福音書11:25)と言われました。

 キリスト者はこの地上で2つの命に活かされているのです。1つは、生物としての命(ビオス)です。そして、キリストに結ばれて永遠の命(ゾーエー)を持つのです。生物としてわたしたちも死にます。このキリスト者の死は「聖化の完成」の意味を持ちます。わたしたちはこの地上では、義人にしてなお罪人です。この地で生きる限り、罪からの完全な分離は出来ません。しかし、神は死において完全な罪との分離としての聖化を与えてくださり、神の国に迎えてくださるのです。キリスト者の死は永遠のいのちへの門口です。

 ウェストミンスター小教理問答では問37で「信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか」と問い、「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます」と答えています。聖書は、ローマ・カトリック教会が語る「煉獄」のようなものを語りません。キリストを信じる者の魂は、死において完全に聖化され、主イエス・キリストから「忠実な良い僕だ。よくやった」と言われ、直ちに神の子らとしての栄光をもって迎えられます。

 キリスト者の体は、遺体、遺骨となっても、なお「キリストに結ばれ」ています。そのため、キリスト教では墓地を大切に扱います。「復活まで墓の中で休む」からです。キリスト者は死んで終わりではなく、復活の時を待つのです。主イエスは死人の中からよみがえりました。これは信仰者たちの復活の先駆けであり、保証です。

 「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」(Ⅰコリント5:20-21)と記されています。キリストを信じ、キリストと1つに結ばれている信仰者は、その死においてキリストと同じように死に、同じように葬られます。そして、キリストに結ばれてキリストと同じ体の復活にもあずかるのです。「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです」(新改訳2017・ローマ書6:5)。この約束に基づく希望を確信して、キリスト者は死を迎えるのです。

31、キリストの再臨と最後の審判

 今回は、「終末について」を取り扱います。キリスト教会の最も短い信条に「使徒信条」があります。礼拝でしばしば朗読されます。その第二項「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」の終わり部分は、こう記します。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」。これが終わりの出来事です。

 聖書は、天に上げられて今、神の右に座しておられる主イエス・キリストが、再び、来られることを明らかに記しています。主イエスご自身が明らかに語り、約束しています。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(マルコ福音書13:26-27)。しかし「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタイ福音書24:36)と言われています。これを受け止めて、ヨハネ黙示録では「然り、わたしはすぐに来る」という主イエスのお言葉に対して、「アーメン、主イエスよ、来てください」という待つ言葉をもって閉じているのです(ヨハネ黙示録22:20)。

 わたしたちは、頭をもたげて、この主イエスの再び来られる時を待つのです。キリスト者の生き方は、主の再臨を待つという姿勢で貫かれます。不合理なことが起こり、信仰の故につらく、悲しい目にも遭います。しかし、主が再び来られるとき、公平に裁かれ、この地上では納得できなかったことの真実が明らかにされるのです。

 主の再臨は、最後の審判のためです。聖書では、最後の審判についての細かなことは記述されてはいません。「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(Ⅱコリント5:10)と記されています。主の再臨の時に、生きている者も、死んだ者も、神を信じる者も、神を信じない者も、神の御前に立って、神の公正な裁きを受けねばならないのです。この裁きの結果、永遠の滅びがあることをも承知しておかねばなりません。この世で多くの富を持ち、権力におごり、人を踏みにじってきた者たちにとっては恐怖の時でしょう。「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです」(ヘブライ書10:31)。

 しかし、キリストを信じる者にとっては、この最後の審判は決して恐怖の時ではありません。審判者であるお方が、同時にわたしたちの弁護者であるからです。主イエスが十字架につけられて、わたしたちのすべての罪を償い、贖ってくださっているからです。キリストの贖いの故に、キリストに結ばれた者たちには無罪が公に宣告されるときなのです。ウェストミンスター大教理問答問90で、このように記しています。「(彼らは)公に受け入れられ無罪を宣告され、天に受け入れられる。あらゆる罪と悲惨から完全に、永遠に解放され、思いも及ばぬ喜びに満たされる。父なる神とわたしたちの主イエス・キリストと聖霊を、永遠に直接見て、喜ぶ中で、体と魂の両方において、完全に聖くされ、幸いなものとされる。栄光のうちに完全で十分なキリストとの交わりにあずかる」(要約)のです。

 長い間、続けてきました「聖書と教理の解説」は、一応ここで終わりとします。お読みくださった方に、心からの感謝を申し上げます。