第101話 あなたは、トランプさんに何を見るか

 ドナルド・トランプさんが、二期目のアメリカ合衆国大統領に選出され半年余になりました。世界中が、この間のトランプさんの言動に驚き、恐怖し、右往左往させられています。日本では関税に関心が集中していますが、わたしはトランプさんの採る政策がアメリカン・ファーストと言いながら、アメリカの国の基本構造を蚕食している罪過ではないかと恐れています。

 その第1は、ハーバード大学に対する資金援助を締め上げていることです。ハーバード大学は、単にアメリカの有力大学と言うだけでなく、アメリカの歴史を担ってきた大学、アカデミーです。アメリカに移民したピューリタンたちが立ち上げて、アメリカの自由と独立、民主主義を担ってきた知的センターです。その故に、多様性に開かれ、多くの国からの学生や研究者を受け入れて、160人以上のノーベル賞受賞者を輩出しているのです。このハーバード大学を潰すことは、アメリカの刻んできた知的歴史を叩き潰すこととなります。

 第2は、ユネスコを脱退し、国連のパレスチナ難民の救済機構などを始めとした世界の貧困世界への支援を断絶したことです。現在もアメリカは世界で最も富裕な国です。その国が自国ファーストと言って援助の手を引っ込めるのは、世界中の貧困の人々、救済を待つ人々を見捨てることです。富む国の中にも貧民がいることは確かです。自国の貧民に対処すると共に、世界の貧困にも目を向けることが、最強国の務めであり、隣人に対してアメリカが果たしてきた良き伝統であって、アメリカの威信がここにあるのです。

 第3は、不法移民と言われる人たちを強制退去、追放していることです。さらに留学のためのビザさえも拒否しています。不法移民と言われていますが、現実にはアメリカに定着し、税金を払い、国を支えている人たちです。この人たちを強制送還することは、アメリカの歴史を否定することです。アメリカは移民によって成り立った国、植民国家です。トランプさん自身もドイツ系移民の三世です。自分たちを温かく迎え入れてくれたアメリカの歴史を否定し、移民に冷たい国家とするのは、国の成り立ちを否定することです。

 アメリカは、6月22日、イランに直接、軍事攻撃を加えました。バンカーバスターという地下深くの施設を狙う特殊爆弾をもってイランの複数の核施設を爆撃しました。今までイスラエルが軍事施設や核施設へ攻撃をすることはあっても、アメリカ軍が直接手を出すことはありませんでした。しかし今回、大統領自らが認める軍事攻撃でした。イランはまだ核爆弾は持っていない段階で、自国が攻撃されてもいない状態で、宣戦布告なき軍事攻撃は、弁明しようのない明らかな国際法違反です。トランプさんは「武力による平和」と言いますが、法なき世界、世界を無法者の支配、世界大戦への道備えをしているのです。

 新約聖書・ヨハネ黙示録13章に、海の中から上ってくる一匹の獣が描かれています。「これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた」。「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた」と記されます。

 黙示録の世界、獣の支配する時代が来たのです。しかし、その活動の時は「42ヶ月」です。時が区切られています。しっかりと「時」を見ていきましょう。今回の花はヒスイランとします。(2025/7/11)

第102話 「復讐」をしてはならない

 2025年の8月を迎えました。新聞やテレビなどで戦争や平和の問題が取り上げられています。採り上げられないよりはるかに良いことですが、キワモノのように感じます。先の参院選の後で、石破首相による戦後80年に当たっての声明などは出さないとのことです。

 この「折々の言葉と写真」では、わたしの個人的な社会時評を中心にしており、直接的に聖書を取り上げないでいます。しかし、今回は聖書の言葉から始めます。

 マタイ福音書5章43-44節です。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。これはイエス・キリストの語られた言葉です。

 イエスは「あなたがたも聞いているとおり」と言います。旧約の時代は「隣人を愛し、敵を憎め」と言われていました。この「隣人」とは家族、友人、同胞という一定の枠の中の人たちです。敵に対しては「憎む」のです。その憎しみの処置として「同体復讐」が認められていました。同体復讐とは「目には目を、歯には歯を」というものです。やられたら、やり返す。その限界が「同体」、同じ程度ということです。これが「正義」と認められていたのです。

 これに対して、イエスははっきり「違う」と言われました。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と。これが、キリスト教なのです。「やられたら、やり返す」の世界ではありません。自分を攻撃する「敵」を愛し、自分を迫害する者たちのために祈るという世界を構築する信仰なのです。「敵を隣人とする」のです。これが、イエスのもたらす「シャローム」(平和)なのです。

 ウクライナを攻撃するプーチンさんも、イランを空爆したトランプさんも平和を語ります。安倍さんや石破さんも平和を語ってきました。これら多くの人たちによって語られている「平和」は、イエスの語る平和と真逆のものです。「復讐、報復」の上に築かれた平和で、「抑止論」と言われるものです。やられたから、やり返す。やられたら、やり返すための力を蓄える。倍返しすることの出来る力(軍備)を備蓄する。これは、真の意味での平和ではなく、脅し、恫喝と恐怖の上に成り立っている瀬戸際の均衡なのです。

 「やられたら、やり返す」報復を正義と認めたら、報復が無限に連鎖して止め処がありません。力のある者が勝利し、無力な者はしばらく「臥薪嘗胆」(忍耐)して力を養い、いつの日にか報復する。平和と言っても、戦争と戦争の間の一時のものに過ぎません。最後は核戦争となって人類の絶滅となるでしょう。「抑止論」の落とし穴に落ち込んではなりません。

 日本国憲法は、この抑止論に立っていません。「武力による威嚇、武力行使は、国際紛争を解決する手段として、永久に放棄し」、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」、「国の交戦権は、これを認めない」のです。すべての人々、すべての国々を隣人として愛し、祈る国造りをするのです。これ以外に真の平和はありません。今回の花は栴檀とします。(2025/8/8)

第103話 「時代と空気」の流れに抗らがって……

  敗戦後80年の時が経ました。8月に入ってからは、新聞やテレビなどのマスコミでも戦争の惨めさ、平和の尊さが取り上げられるようになりました。まだ個人の命の尊さや嫌戦、不戦が語られている時代と言えるかもしれません。

 しかし、わたしには、これらマスコミの「平和の主張」は表面的、一時のキワモノのように感じます。むしろ、時代の大きなうねりは、個人の命の尊厳などは何処吹く風、憲法9条の平和主義などは全く無視して、最新鋭の武器を輸出して儲け、核抑止論に依拠して被爆者たちの声などに聞く耳を持たず、琉球列島を要塞化し、アメリカのトランプさんに従って軍備を大きく増強し、いつでも戦争の出来る国造りを急いでいるのです。

 トランプさんは「アメリカ・ファースト」と言って、アメリカをぶち壊しています。それを真似て「日本人ファースト」と言って、政界のブームに乗っている人たちがいます。現行憲法を廃棄し、国民主権から天皇主権に換え、「核武装が最も安上がり」と言うような人たちです。現在はまだ、極端な右翼と考えられていますが、実はこのような主張に同調し支持する根深い土壌が日本にはあることを見逃してはなりません。むしろ、戦後80年にして根深い岩盤が浮上して、戦前の天皇主義の素顔が見えてきたのではないでしょうか。

 戦争は、権力者たちだけで行えるものではありません。徴兵しても徴兵に抗う人たちが多数では決して戦争は出来ません。戦争を始める権力者に迎合し、押し上げ、興奮し、熱狂する国民大衆が存在しているのです。かつて多くの大新聞がお先棒を担ぎ、国民を煽りました。満州国建国を寿ぎ、国際連盟脱退を大歓迎し、真珠湾攻撃を大見出しで祝いました。大多数の国民も冷静さを失って勝利に湧き上がり、バンザイ、バンザイと小旗を振って出征兵士を送り出し、戦争遂行のために全面的に協力支援したのです。非協力者は「非国民」と罵られ拘束されました。今、この国民的戦争協力の岩盤が浮上してきているのです。

 天皇家に対するマスコミの媚び、アイドル同様な国民的受け止めが気がかりです。巨大な軍備の増強に対するマスコミの無関心と警戒のなさも心配です。日本の国民性は付和雷同です。この時代の空気、風向きに対して、わたしは抗って行かねばならないと覚悟しています。わたしは寺山修司の次の歌に同感を感じています。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし、身捨つるほどの祖国はありや」。我が身を犠牲にするほどの祖国愛などはいささかも感じません。

 「非国民」と罵られてもいい。2025年8月6日付の朝日新聞に全面広告で「第九条の会ヒロシマ」が、いろいろな声を紹介していました。「九条実現、一条廃止」、「天皇制の廃止、せめて君が代は停止」、「二度と殺したり殺されたりしない誓い」等の声を載せていました。時代の空気の流れに抗う小さな声です。まだ今は、これらの小さな声が封殺されていません。わたしたちも、声を挙げ、抗い続けていきましょう。今回の花は彼岸花とします。(2025/8/14)