先日、2022年11月7日、浜松の映画館で、中村哲氏の行動を描いた「荒野に希望の灯をともす」を観ました。中村哲さんを支えてきた「ペシャワール会」が企画した映画で、20年以上にわたって撮り貯めてきた映像から、医師・中村哲の歩んだ道をドキュメンタリーとして描いたものです。彼の言葉と行動に素直に感動しました。どこかで、上映される機会があれば、ぜひ、多くの人に観てほしいと願っています。
中村哲医師は、パキスタン僻地の治療活動から始まり、やがてアフガニスタンへと活動を広げ、医療活動を行っていきました。しかし、その中で、しだいに医療活動だけでは現地の人たちの根本的な救済とはならないことを自覚して行きました。命と生活を支える必要を感じ受け止めたのです。タリバンと米軍との激しい戦闘の中で、現地の人たちが希望を持って生きることが出来る営農の出来る環境作りと取り組んだのです。現地の人たちと一緒に、大きな川から用水路を引き、井戸を掘り、清潔な飲み水と農業用水を確保して緑の大地を拡大させていくことが「まことの平和を築く道」であり、「命と健康を守る道」であることを、その生涯をもって提示したのです。
中村哲さんは、タリバンによって施設が襲撃されても報復することを禁じ、日本の国会に招致された時には、自衛隊の派遣では問題の解決とならず、現地人に仕える道こそが平和の道であると訴えました。現地人のイスラム文化を破壊するのではなく、それを尊び、一人の命も失われず、自然と共生し、人が自然の中で生かされる道を切り開こうとしたのです。
「まことの積極的平和」が、ここにあります。安倍元首相は、戦争への備えをする、軍備を増強することを「積極的平和主義」と言いましたが、これは言葉の間違った使い方です。元々、最初に「積極的平和」を語ったのはノールウェーの平和学者ヨハン・ヴィンセント・ガルトゥングでした。戦争のない状態は「消極的平和」であって、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力のない状態を「積極的平和」と語ったのです。中村哲さんの生涯、その思想と行動は、まさに積極的平和構築のための働きであったのです。久し振りに感動しました。軍備増強が語られる現在の日本で、しっかりと受け止めてほしい貴重な人でした。今回の花は「平和の花」と言われるディジーとします。(2022/11/11)
岸田内閣の葉梨康広法相が、法務大臣は死刑執行のハンコを押すだけの地味な役回りだと法相の職務を自嘲し、軽視、侮蔑した暴言に批判が集中して閣僚の辞任となりました。法相の発言が暴言であることは勿論ですが、その後、関係者やマスメディアなども「死刑」についての本質的な議論へは進みませんでした。旧統一協会問題と比べて不思議なことです。
わたしは、最近「袴田さん支援クラブ」の講演会に数回参加する機会を得、それを機会に死刑制度について真剣に考えるようになりました。今は古典とも言える団籐重光著「死刑廃止論」を懐かしく思い出しました。最高裁判事も経験した著者が、人権を基礎に据えて誤判、誤審の事実を指摘し、世界の潮流を紹介しつつ、死刑廃止を正面から熱く述べたものです。袴田事件は誤審・誤判の問題と警察・検察による過酷な取調べの問題です。裁判システムも人間のなすことであり、当然ミスがあり、間違ったら国による無実の人の殺人になります。0.01%でも誤判、誤審の可能性があるなら、基本的には死刑制度の廃止しかありません。
最近、朝日新聞の書評欄で平野啓一郎という小説家の書いた「死刑について」という本が紹介され、購入して読みました。死刑廃止についての多くの書物を読んできましたが、これは「分かりやすい」本です。死刑廃止についての議論は堅苦しい側面がありました。また、犯罪被害者の側からの議論が乏しかったと言えます。平野啓一郎さんは、最初、死刑肯定から出発したこと、小説家の文章の軟らかさ、柔軟な思考に基づいて記されており、わたしは好感をもって読みました。多くの人に読んで欲しい本です。
この本が強く指摘しているのは、日本で死刑廃止が出来ないのは「人権教育の失敗」であるということです。わたしも同感です。日本人の思考の基本には「人権」の意識が抜け落ちているのではないでしょうか。これは死刑廃止だけのことではありません。信教の自由も、ジェンダーの問題でも、外国人の受け入れ、入管業務や難民の受け入れについても、学校教育についても通底していることです。日本人には人権感覚が希薄、ないしは脱落しているのです。
人権感覚が強く求められるのは、警察・検察の取調べにおいてです。小林多喜二の拷問死に象徴されるような拷問が今なお続けられているのです。袴田事件の背後には証拠の不提出、ねつ造さえ行われ、無実の者でも罪を認めてしまうような悲惨な実態があるのです。その根底にあるのは、法を取り扱う人たちの中に根強くある人権感覚の無さなのです。
死刑廃止のために国民世論の熟成を待つのは不毛です。日本にもフランスのミッテラン首相のような指導力のある政治家の登場を待ちたいものです。それと同時に、基本から「人権教育」に取り組むことです。日本では、明治初期に「天賦人権論」が紹介されましたが、大日本帝国憲法と教育勅語で否定されました。最近でも「天賦人権論」が叩かれています。これは基本的人権の否定です。基本的には「天にいます神」の思想がないことです。「人を人として生かす」神を持たない民の悲劇なのです。あらゆる人を根底から生かし支える存在を認めることです。死刑制度の廃止を求める中で「基本的人権の意識」を確立したいものです。今回の花は人権の花と言われるひまわりとします。(2022/11/25)
旧統一協会の問題で、「宗教2世」という言葉が頻繁にテレビ、新聞、雑誌などに登場しています。この言葉への反論はほとんど見当たりません。ここでは「宗教2世」という言葉に対する違和感をお伝えします。出来たら「カルト宗教2世」としていただけないでしょうか。
一般の仏教では、子らの信仰継承について深く議論しないのでしょうか。昔から檀家制度が続いてきて、家制度の下で子どもは家長の所有物、子らは当然家を継ぎ、家業を継ぐべき者とされてきました。戦後は、家制度が崩壊し、核家族となり、檀家制度も崩壊しつつあります。その中で、次世代への仏教信仰の伝達、伝承はどうなっているのでしょう。寡聞にして、わたしには聞こえてきません。今回のカルト宗教に絡むいわゆる「宗教2世」と言われている事柄の最も深い根が、ここにあるのではないかと思っています。
キリスト教では、次世代の子らに対する信仰の伝達について極めて重要視しています。旧約のイスラエルでは家に生まれた男子には必ず割礼を施し、徹底的な宗教教育を施しました。イエスも子らを重視しました。「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』」(ルカ福音書18:15-17)。
キリスト教会は、この旧約伝統とイエスの教えを受け止めて、生まれたばかりの幼子に幼児洗礼を授け、教会の交わりの中で大切に養育してきました。親たちが信じた信仰とその価値観、人生観を伝えることは大切な務めです。神の祝福の継承なのです。時に、反発した人たちも出たことは確かですが、キリスト教会は、信徒の子らを大切にして信仰の継承を2千年にわたってなし続けてきたのです。
この信仰継承の中で、キリスト教会は長い時間をかけて信仰に基づく思惟を働かせて、人権の重視、いのちの尊厳と大切さ、人間の平等、隣人との友愛の大切さ、平和の思想などを紡ぎ出しました。信仰の営みは決して一代で完成するものではありません。宗教的信仰はしっかり伝承されて社会の中で力を発揮していくのです。
旧統一協会は、宗教というよりも宗教を利用した金儲けの集団です。そのため、政治の力を利用して経済的な収奪をし、子らの生存権や生きる力を収奪したのです。最も弱いところにシワ寄せがいってしまった。それが「カルト宗教2世」の問題です。旧統一協会を野放しにし、積極的に利用してきた自民党政府は実効ある救済の手を差し伸べる責任があります。カルト集団による信徒の子らの問題は一様ではなく、かなり深刻です。十分な配慮と介護が必要でしょう。今回の花は淡い思いのスモークツリーとします。(2022/12/9)
先日、12月12日のNHK総合テレビで、夜の10時から45分間、「ナチハンター・忘却との闘い▽ホロコーストの罪を許さない!執念の追跡劇」という番組が放映されました。どのテレビ局もサッカーばかりの時に、久し振りに目の覚める思いをもって映像に食い入りました。NHKの視聴料が無駄に感じられない番組でした。同じ第2次世界大戦の敗戦国ですが、ドイツでは「アウシュビッツ」などの多くの強制収容所でのユダヤ人ホロコースト(絶滅政策、大量虐殺)の罪を徹底的に弾劾しています。日本の「東京裁判」と同じくドイツでも「ニュールンベルク裁判」では国家のトップ指導者のみの裁判に終わりました。
これに対して、ホロコーストの被害者側からの異議申し立て、弾劾、訴追がなされたのです。時の経過による風化、忘却、命令でやむを得なかったという正当化や言い訳との闘いが激しくなされました。ナチハンターと言われる人たちの執拗な追求によって、ホロコーストの残虐の実態が解明、明るみに出され、社会的に受け止められて、国会決議でナチスの犯罪について時効をなくしました。長期に隠れていた逃亡犯が確認され、逮捕され、裁判を受けることとなりました。その風化させない執念は実に見事なものです。本当の許しは、罪の事実を忘却することではなく、罪を罪として正当に裁いた後にあるのです。
その結果、ナチスの犯罪が断罪されただけでなく、国家の基本的な在り方も正されて、犯した過去の歴史認識も深められました。ドイツは国家として犯した罪を公に謝罪し、改めてヨーロッパ世界の中で友邦として受け入れられ、EUでもリーダーシップを取ることが出来ているのです。
これらのことは、残念ながら、同じ敗戦国としての日本が完全に見失ってきた事柄でした。日本では戦争の被害者や被害国に対してのきちんとした謝罪はしていません。A級戦犯に問われた人たちが出所後は罪に問われることなく、むしろ戦後日本の中枢や裏側を何ごともなく歩んできたのです。今日、日本では戦争責任については完全にと言ってもいいほど風化しています。その結果、岸信介元首相から続き安倍元首相などに至る戦前肯定の暗黒の道筋が出来上がってしまったのでしょう。
日本は、アジアでも世界でも真の「友邦」を持たずに孤立しています。一度傷つけた友人との友愛を回復することは、小手先で出来ることではなく、心の底からの真の悔い改めなくしては得られません。人であっても国であっても、友愛の回復は、忘却の中に、水に流すことの中にあるのではなく、罪の事実を正しく認めて謝罪する以外ないのです。風化に抗い続けていくことが求められているのです。今回の花は寒さの中で困難に立ち向かうひたむきさを示すサザンカとします。(2022/12/16)
昨年末で、わたしも81歳になりました。この歳まで生きようとは思いませんでした。年頭に当たって考えていることを記そうと思います。もう、今の時代の流れについて行くことが出来なくなっています。むしろ、反時代的な生き方に限りなく魅力を感じています。
昨年末、テレビで「年賀状仕舞い」ということが放映されていました。最近の何でもスマホやパソコンでの通信に違和感を感じています。わたしも使っていて便利なのですが、人間感覚がありません。スマホやタブレットで倍速、3倍速で映画やニュースを見るそうです。ついて行けません。むしろ、以前よりも手紙、葉書を出すようにしています。簡略化された暗号のような文章には腹が立ちます。簡略化とスピード感に反動的になります。
新聞が変わってきました。紙の新聞が激減し、デジタル新聞を購入するようにせかされています。最近はニュースの質が変わってきたのではないかと感じています。デジタルへの変更には頑強に抵抗していますが、これからどうなるでしょうか。紙の本が売れなくなり、多くの書店が潰れ撤退しているとのことです。本を読む楽しみがなくなっていくのが怖いです。古書店を巡る楽しみも失われ、ネットでの購入となっています。これからも紙の本をしっかりと読むことに固執していきます。
コロナ禍もあり、近年は人と人とが親しく気軽に話す機会が激減しています。マスク越しの会話では、相手の顔を見ての反応が分かりません。教会でも会食の機会がほとんどありません。ウェブ配信での礼拝は本物の礼拝ではありません。配信ですべて済ますような時代の到来に抵抗を感じています。Zoomでの授業や講演会などの益は受けていますが隔靴掻痒です。至るところの店舗で、人を介さない清算方式になってきています。人間が排除されているのです。このような時代風潮になんとか抵抗していこうと思っています。
最近の大きな違和感は、戦争や軍備に対する社会の許容度が大きくなっていることです。ロシア・ウクライナ戦争や中国と台湾との関係などが大きく作用しているのでしょう。政府・自民党、保守系の人たちが声高に戦争準備、軍備増強などを主張し、それに対する反対勢力の力がたいへん弱くなっていることです。日本国憲法の大切な主張点である不戦、平和の主張が見失われてきています。このような時代の流れに対して、蟷螂の斧かもしれませんが、しっかり抗って行こうと決意しています。今回の花はシクラメンとします。(2023/1/13)
(1)旧統一協会の本質
これから「世界平和統一家庭連合」(旧統一協会)について、わたしの考えるところを数回に亘って記します。名称は「旧統一協会」とします。わたしはキリスト教の牧師としてごく一時期、「原理研究会」にのめり込んだ人の脱出活動を手伝ったことがあり、その時期に原理講論なども読み、ある程度の知識を持っていると思っていました。また霊感商法が社会的に叩かれ、教祖の文鮮明が死亡したことから「下火になった」と思っていました。今回の狙撃事件とその後の出来事を通して、大きな間違いだったと気がつきました。
キリスト教会として、カトリック教会もプロテスタント諸教会も、この度の旧統一協会についてきちんとした声明を出しています。検索して見てくださったらと願っています。わたしは、これら公的な声明ではなく、自分の感じていることを個人的な視点から記すことにします。
旧統一協会は、キリスト教の範疇に入らない異教、新宗教であると理解しています。韓国・朝鮮では古来、民俗宗教として儒教的な神秘主義的な信仰・シャーマニズムがありました。同時に日本統治下でキリスト教が地下水のように韓国・朝鮮の人たちの心を掴みました。この二つが野合して韓国特有の新宗教が雨後の竹の子のように生じました。シャーマニズムの神秘主義信仰が土台になり、キリスト教の用語を用いて奇妙な宗教が生まれたのです。キリストの十字架は救い主として失敗であり、文鮮明教祖自身が再臨のメシアであると言うのですから、普通のキリスト教の範疇から大きく逸脱しています。旧統一協会は、名称変更によって「基督教」の文言を削除しました。自らキリスト教ではないと公言したと言っていいでしょう。
キリスト教は「占い」をしません。聖書で明確に禁じています。ところが、旧統一協会では風水や占いをして物品販売をしているのです。印鑑や壺などの霊感商法が社会的に糾弾されると、神棚や仏壇などの販売に乗り出します。唯一神信仰であるキリスト教では信徒が神棚・仏壇の販売をするなど考えることもできません。先祖供養、数十代過去の先祖の供養や呪いの除去などは、どう考えてもキリスト教ではありません。聖書を少し読めば分かることです。
洗脳→献身→霊感商法というシステム化された道筋で商業戦士に造り変えられるのです。特有の「堕落論」などを教えられて、教団維持のために「献身」させられます。自分のすべての資産を教団に献げて、専心、集団でマニュアルに従って物品の販売活動に挺身するのです。キリスト教の聖職者になるための献身でも、仏教僧侶になるための出家でもありません。搾取される側から搾取する側への移動と言っていいでしょう。
旧統一協会の本質は、純な宗教ではなく、宗教の形を取った金儲け集団としか見えません。超高価な聖典「原理講論」の購入から始まり、すべての段階でお金が絡み、納金、献金させられます。今後、宗教法人格が剥奪されても、金儲け集団としての在り方は変わらず継続していくでしょう。この集団は、金儲け集団であるとの本質に気付いて、しっかり警戒し続けることが必要です。今回の花はルビナスとします。(2023/2/3)
(2)旧統一協会の源泉
「世界平和統一家庭連合」(旧統一協会)の特有の儀式として「合同結婚式」があります。韓国で合同結婚式が繰り返し行われ、何万組、何千組と言われる日本からの参加者があり、その都度、多額の献金を韓国本部に持参しているとマスコミで報じています。しかし、この結婚式の持つ意味についての報道は案外少ないと言っていいでしょう。
旧統一協会の成立には、文鮮明教祖の特異な体験があります。10代の頃、金百文という人からシャーマニズムの神秘主義キリスト教「原理」の手ほどきを受け、基本を身に付けたと言われています。世界を陰と陽によって説明するだけでなく、神そのものも陰陽で説明します。キリスト教の三位一体の神ではありません。罪の根は天使長ルーシェルとエバの淫行と解説され、堕落したエバとその子孫の回復は陽の原理であるアダムとの性的な交わりによります。
旧統一協会にとって「性的行為」が救済行為なのです。合同結婚式は、罪のない人とされている文鮮明教祖に接ぎ木され、原罪を清算する儀式なのです。合同結婚式では、文鮮明教祖の体液が混じったと言われるワインを飲まされます。これによって原罪が清算され、文鮮明教祖からの血統を受け継ぎ「神の子」とされ理想家庭を築くのです。この「神の子」が増殖することによって地上天国がもたらされると信じ込まされます。
「カルト宗教2世」の問題、子どもの養子の問題も、ここに震源しています。子たちに広い世界を見せずに、教団内の価値観と信仰の強制がなされます。子のない家庭には養子縁組によって神の子の増殖を図ります。子の人としての基本的人権は全く考慮の外です。「理想家庭」とは儒教的韓国の家父長制の強制です。旧統一協会の持つ「いかがわしさ」の源泉は、ここにあると言っていいでしょう。教団自体は認めませんし、むしろ反対に、教団の献身者たちには極めて強い禁欲を求めています。そして、合同結婚式こそが信徒が目指すべき祝福とされ、その祝福を得るための物品の販売活動、超高額な献金のノルマの遂行となっているのです。
陰陽の原理が、個人レベルだけでなく民族レベルにも拡大適用されます。日本人は悪のエバの子孫とされ、韓国人は陽のアダムの子孫としています。エバの子孫である日本人は韓国人に仕えるべき存在とされ、韓国本部に献金させられ、徹底的に貢がされているのです。日本人信徒が、何千万、何億円という高額献金によって徹底的に搾取されても、「御父母様」のためとして当然視されています。
日本の保守的な政治家たちは、この旧統一協会の持つ「いかがわしさ」、韓国・日本の立ち位置の関係について全く知らないのでしょうか。知らないはずはありません。美しい日本とか、自尊心とか、立派なことを語りながらも、旧統一協会とズブズブの関係を築いて来た安倍元首相ら日本の保守政治家たちの「いかがわしさ」とその立ち位置は、まさに「国賊」という言葉も相当なのではないでしょうか。今回の花は彼岸花とします。(2023/2/10)
(3)旧統一協会の最大の問題点
「世界平和統一家庭連合」(旧統一協会)の最大の問題点は、自分の正体を隠して行動する正体隠しです。これは活動が問題視され社会的に叩かれてからの自己防衛の結果というのではありません。この教団の当初からの問題です。1980年代、駅前で「市民団体による生活意識調査」というアンケートがなされていました。「統一協会では?」「原理では?」と尋ねても「いいえ違います」と応えます。身元を隠してのアンケート活動で釣り上げられた人は、宗教とは関係がないというビデオセンターに連れて行かれ、原理を学ばされます。全部、旧統一協会の活動でした。
駅前で「難民への募金」活動をしました。各家庭を訪問して「珍味売り」が来ました。これらに携わる人たちは身元を隠し適当な名称を用いて「統一協会」であるとは名乗りません。しかし、旧統一協会の資金獲得の活動でした。これらの活動の実態について、現在、多くの書物が一般に出版され、実際に携わっていた人たちの告白が記されていますから、読んでいただければと願います。
外部の人に対して、自分たちの正体,身元を隠して接触し、人を引きずり込み、勧誘する手口はほぼ一貫していると言っていいでしょう。現在も、旧統一協会の指導者たちは、すべての問題行動や販売・経済活動は教団としては関係ない、として責任を認めていません。信徒の自主的な活動としています。教団のマニュアルに従い、教団のために懸命に活動し献金しても「個人のこと」とされ、教団は表に立ちません。身元を隠して経済活動をする。市民団体や趣味のクラブを名乗って活動する。虚偽を語る。問題が指摘されると直ぐに改名して別組織とする。
正体隠しの在り方が政治の世界にも深く蔓延していることです。旧統一協会は、勝共連合、世界平和教授アカデミー、平和大使協議会、天宙平和連合など多くの関連団体を持っています。「世界日報」というメディアも有しています。これらが関連団体であることを隠して、自民党系の保守政治家と合意書を交わして選挙活動の応援、秘書としての奉仕、票の配分や発掘などを行っています。特に注目しなければならないのは、信徒が身元を隠して国会議員の秘書団の中に入り込み、地方議員として選出されて、日本の保守政界に深く食い込んでいることです。
自分たちの正体を隠して、保守系議員に取り入り、彼らを隠れ蓑にして、彼らを広告塔として利用します。それによって、自分たちの特異な主張を実現するだけでなく、自分たちの力を誇示し、拡大化し、承認させようとしているのです。この正体隠しこそ、旧統一協会の最も恐ろしい問題点です。姿が見えないからです。今回の花はアザミとします。(2023/2/17)
(4)旧統一協会と保守政治家との闇
「世界平和統一家庭連合」(旧統一協会)の真の問題点は、日本の保守政界との癒着の構造です。安倍元首相の狙撃事件によって隠されていた闇の部分が明るみに出されました。旧統一協会が政治の世界と深い関わりを持ち、安倍元首相が旧統一協会のある意味での代表的存在と見なされていたのです。
旧統一協会はキリスト教界とも無関係ではありません。初期の頃から「世界平和教授アカデミー」という団体を造り、立教大学総長の松下正寿たちが原理研の活動をかばい、自民党などへ働きかけていました。この学者グループが今も健在で自民党系のシンクタンクの働きをしています。財界や自衛隊の人たちとの研究会、政治家たちとの交流を通じて、家族観、国家観、安全保障問題についての政策提言などをしています。
旧統一協会の政治的活動の中心が「勝共連合」です。岸元首相→安倍晋三→安倍元首相に繋がる最も太いパイプです。1968年、笹川良一、児玉誉士夫、岸信介の三人の元A級戦犯容疑者が発起人となり、統一協会の初代会長・久保木修己が会長に、笹川良一が名誉会長になりました。ここから勝共連合と自民党、岸→安倍ファミリーに繋がる根深い闇の構造的な関係が出来上がり、これ以降、自民党との一体化、勝共推薦議員が生まれてきたのです。
久保木修己は、政界、財界、言論界、教育界に人材を送り込んで、「日本を反共の防波堤」にしようとしていました。これは自民党をはじめとする保守政治家にとっては願ってもない勢力でした。身元を隠した信徒を秘書として用い、選挙には草の根の活動を担わせ、票おこしをしてもらいました。その差配をしていたのが安倍元首相です。信徒は地方議員にも当選し、各級の地方議会で「家庭教育支援条例」などを作らせました。
旧統一協会と自民党系保守政治家との共通の根にあるのは、儒教的な家族主義と反共のイデオロギーです。韓国の儒教的な家族主義と日本の天皇制に集約される家父長制(いい悪いは別にして)とは大きな違いがあります。その違いにも気付かない保守政治家たちは何を考えていたのでしょう。反共・勝共ということで、旧統一協会の反倫理的な在り方、反社会的行動まで許してしまう日本の保守政治家の倫理と節操は、どうなっているのでしょう。選挙で勝つために見境なく利用しますが、それは結局旧統一協会に徹底的に利用されたのです。
旧統一協会の闇の活動によって、男女の平等と選択的夫婦別姓、家族の多様性と同性婚、人格権の尊重、学問と教育の自由、真の平和の追求などで、日本は世界の中で足踏みし後退しています。「日本は先進国」などと言うことは出来ません。この後進性の根底にあるのは旧統一協会との闇の中での構造的つながりです。保守政治家は韓国を蔑視し嫌韓しつつも、具体的思想的には旧統一協会を通して韓国の土俗シャーマニズムと深く繋がっていたのです。この事態を見直して、個人の自由と尊厳の重視という世界の潮流に身を置かねばなりません。今回の花は不誠実を表すジギタリスとします。(2023/2/23)
先日、3月4日、浜松市内の映画館で「サマショール ~遺言 第六章~」という映画を見ました。福島原発事故10年の記念としてフォトジャーナリストの豊田直巳氏が監督して実写映像をもって訴えているものです。「サマショール」とは、ウクライナ語で「自主帰還者」を意味するとのことです。フクシマ原発事故とウクライナのチェルノブイリ原発事故とを重ね合わせて、福島・飯館村のこれからの歩みを考えたものです。
放射能に汚染された飯館村は、すべての住民が強制避難させられました。最近、避難解除されて、仮設住宅などで生活していた人たちの一部、年老いた人たちが飯館村に帰ってきました。汚染された土地で農業や酪農が始まりました。しかし、もう若い人たちは戻りません。これから、どうなっていくのでしょう。チェルノブイリ原発事故の跡地に戻って淋しく生活しているウクライナの老人の姿が飯館村の将来を示しているのではないかという指摘です。かつての懐かしい故郷は元に戻りません。映画は「原発さえなければ……」という訴えです。
2023年3月11日で、東日本大震災とフクシマ原発事故から12年になります。安倍元首相は、原発は「アンダーコントロール」と言ってオリンピックを招致しましたが、何も終わっていません。廃炉にした後の最終処分も始まっていません。除染したという汚染土の始末もできていません。汚染水を海洋投棄しようとしています。避難指示の解除によって戻る人、戻らぬ人が分断されています。元の生活には戻れぬだけでなく、一切の生活の保証も断ち切られようとしています。政府による政策的「棄民」が始まっているのです。
その傍らで、岸田政権は、ロシア・ウクライナ戦争を奇貨として、原発を主要電源に位置づけようと活発な動きを見せています。老朽化した原発を半永久的に使い続け、新しい原発を建造しようとさえしています。「脱炭素化」を口実にして原発依存を増やし、真の再生可能エネルギー源を確保する道を阻止しているのです。
日本の保守層と自民党政権は、原子力の技術を温存し、プルトニュームを蓄積し、将来的に「原子力爆弾」の開発に繋げたいのだと憶測する以外ありません。アメリカから武器を爆買いし、敵基地攻撃能力を持ち、集団自衛権の承認などの視線の先には、憲法の改悪、9条の改訂・無効化、旧帝国憲法体系の復活というシナリオが浮かんできます。
日本は地震大国です。広義には日本列島全体が活断層の上に乗っているのです。いつ、東南海地震が起こるか分かりません。最近のトルコ、シリアでの強烈な地震は決して他人事ではありません。わたしたちは、自国の政府の冷酷さ、いざという時には「棄民」され、故郷が放棄されることを自覚しておかねばなりません。かつての「大本営発表」のような政府の巨大な嘘によって国民全体が戦争熱に浮かされたようなことにならないために、冷静に起こりつつある事態を見つめ、これに抗っていかねばならないのです。今回の花はカトレアとします。(2023/3/10)