わたしのことを記しましょう。わたしは1941年12月の生まれです。77歳です。長い間、牧師という仕事をしてきました。牧師の仕事は、神の言葉・福音を伝えて、教会を建てる働きと言っていいでしょう。しかし、この牧師の仕事も、数年前に定年ということで引退しています。教会から離れて、「さみしくなったなあ」と想っています。
こんなわたしがホームページなどを個人的に建て上げたのは、理由があります。このホームページには、どこからの援助もひも付きもありません。わたしの全くの自費によっています。わたしの出身の教派教会からも、奉仕してきた教会からも、支援はありません。ですから、わたしの信じることを、自由に書くことが出来ます。型にはまることなく、自由に物書きしていくつもりです。
わたしが牧師をしていて気づいたことがあります。特に後半、引退が近くなって気づいたことがあります。「わたしたち」と言っていいでしょうか、わたしの周辺に、実に多くの「教会に行きたくても、行きにくい」人たち、教会のいろいろな集会には顔を見せない人たちがいるという現実です。
この人たちは、現実の生活の中では仏教徒、あるいは世間的な意味ではキリスト教会とは直接関わらない人たちです。しかし、これらの多くの人たちは、「反キリスト教」ではないのです。機会があったら教会にも行ってみたい、聖書も読んでみたい、信仰も持ちたい、と心の奥底では願っている人たちが「案外、たくさんおられるなあ」ということに気づかされました。
わたしは今まで牧師として、「教会に来なさい」、「教会に行きなさい」と勧めてきました。しかし、牧師を引退している今、もう、そのように語る必要もなくなりました。もう、語りません。具体的なある一つの教会を建てる働きから解放されました。あと、この地上で残されたときが、どれほどであるかは分かりませんが、教会に来ていない人たち、教会に来にくい人たち、行きたくても行けない人たちに、聖書の語る福音の真実を、お伝えしたいなあ、と想って、このホームページを始めたわけです。
今、桜の花が満開となっています。もう、散り始めていると言っていいでしょう。昨日、わたしは、自転車で近くにあるわたしの所属する教会の礼拝に行ってきました。行く道の途中に桜のトンネルがあります。大勢の人たちが足を止めて、見上げています。わたしも自転車をとめて、しばし見入っていました。「きれいだなあ…」と。
しかし、実は、わたしには、桜の花には浮かれきることの出来ない想いがあるのです。「桜と錨」(旧海軍のしるし)、「桜花」(特攻兵器)、「同期の桜」(軍歌)などに出てくる「桜」のイメージを思い起こしてしまうからです。若くして散華していったすぐ上の年代の人たちのことを想うと、桜の花の美しさを手放しで素直によろこべないものを内蔵しているのです。
もう時代が変わっている、と言われるかもしれません。わたしの思い過ごしでしょうか。1941年に生まれ、敗戦を味わい、戦後のどさくさの中で生きてきた者として、二度と再び、「散り急ぐ」人などが出ないことを祈っています。
代わって、わたしの大好きな花は、「菜の花」です。「いちめんのなのはな、いちめんのなのはな、…」と賛嘆する山村暮鳥の詩があります。心がいやされるとともに、なによりも食べられることです。この一面の菜の花の中に身を置くときに、手放しで素直に喜ぶことが出来るのです。
最近は、新元号「令和」を巡って、あちこちでフィーバーが続いているようです。しかし、4月10日付けの朝日新聞で、中国思想史の専門家が「『令和』 ぬぐえぬ違和感」という見出しで評論を書いています。わたしもここで、「ぬぐえぬ違和感」を記すこととします。
テレビで初めて、菅官房長官の掲げる「令和」の字を見ての率直な感想です。後に「令」には、「よい、めでたい」という意味があると解説されていましたが、どうも取って付けたような解説ではないでしょうか。「令」とは、本来、人がひざまずいた様で、人を集めて言いつける、命じる、おしえ、法(のり)、と言う意味が基本でしょう。古来から我が国では「律令」で親しまれてきた語なのです。
ですから、わたしは「令和」の文字を最初に見たとき、返り点を入れて、「和を令す」(和を命令する)という言葉として受け止めました。この場合の「和」は、ごく日本的な「和」、聖徳太子の17条憲法の「和を以て貴しとなす」、五箇条の御誓文「上下心を一つにして」などの文言を思い浮かべてしまいました。日本的な「和」は、異端的な言説を許さない上への服従の表明なのです。「和」を乱すものは村八分になります。
平和であった時代が終わり、いよいよお上から「和を命じられる」時代になったのだと感じたのです。わたしの個人的な思い過ごしであってほしいと願っています。しかし、秘密保護法が出来、有事法制が成立し、憲法9条が変えられようとしている時代です。日本的な「和」に忖度し、同じる想いは、わたしにはありません。今回の花は、「タンポポ」としました。道ばたで、人に踏まれても、踏まれても、なお根強く、力強く、生きて咲きます。
牧師引退後、昨年(2018年)の11月に、思い切って夫婦で沖縄を訪問しました。かねてから念願しつつも足を踏み入れることに一種のためらいを感じてきました。観光旅行ではなく、8日間にわたって沖縄戦の戦跡巡りを中心にしてきました。また、たった半日で「お弁当だけを食べてきた」ようなものですが、「辺野古」の埋め立て反対の人々の集まりにも身を置いてきました。辺野古の埋め立て地の対岸に立つと、埋め立て予定地の大きさと美しさとが見て取れます。無情に埋め立てが進められている状況を見てきました。
沖縄に行く前から、幾らかの書物を通して、沖縄・琉球の歴史を学びました。琉球王国は長い間、独立の国でした。中国の「冊封」を受けていましたが、交易によって繁栄した歴史を持っていました。しかし、薩摩藩による侵略、明治政府による「琉球処分」(力による日本への取り込み)、皇民化教育、琉球語の禁止、などは植民地支配です。そして、太平洋戦争ではまさに沖縄全体が本土のための無残な「捨て石」とされたのです。この本土のための捨て石政策が、今も続いていると言っていいのではないだろうか。そんな想いがしてなりません。
本土の人たち「ヤマトーンチュ」は、この長い時の間の中での沖縄の人たちの痛みと嘆きのうめき声に無頓着であったのではないかと、思っています。沖縄の人々の声が聞こえてこないこともあります。本土のジャーナリズムの問題もあります。キリスト教会も無関心の罪があります。しかし今、一人ひとりが心の耳を澄ませたら、沖縄・琉球の人たち「ウチナーンチュ」のうめき声が聞こえてくるのではないでしょうか。翁長前知事、デニー沖縄県知事の訴えの中にも、これらのうめき声が響いているのではないかと、思っています。今回の花は、沖縄で撮ってきた「ハイビスカス」とします。沖縄の情念を感じる花です。これからも、沖縄についての想いを、時折、取り上げてまいります。
「晴耕雨読」という言葉があります。現役の時代には、あこがれの言葉でした。引退して、毎日が晴耕雨読というよりも、「晴耕」がないのです。読書が仕事になっています。現役の時代は、ほとんどの時間、聖書や神学関係の書物を読みあさりました。いささかへそ曲がりですから、自分の教派関係のものだけでなく、他の流れのものもよく読みました。プロテスタント左派のもの、ペンテコステ系のもの、ローマ・カトリックのものなど、多々教えられました。とりわけ、キリシタン関係のものには多くの興味を持ち、長崎・五島列島などにも足を運びました
現在は、あまり聖書や神学とは関わらないものをもっぱら読んでいます。基本的に神学関係のものは整理、断捨離してしまったこともあります。インターネットで中古書を取り寄せたり、古書店をぶらぶらとしたりして、読みたい本を読んでいます。しだいに、また本が増えてきているという状態です。
牧師の働きを離れた今は、広い意味で、社会的、政治的な関係に近いものを読んでいます。原発、平和、沖縄、憲法などにかかわりのあるものを読みふけっています。ちょっとしたものだと1日に1冊くらい、簡単に読めてしまいます。そして思うことは、もう少し早くこれらのものを読んでおくべきだったということです。伝道の幅が広がったろうというだけのことではなく、社会的な発言や行動が出来たのではないかと、残念に思っています。これから、このコーナーで、これらの想いをお伝えできたらと、願っています。受け止めて、皆さまが取捨選択してくださって結構です。今回の花は、数年前に訪れた寺院の庭の中で咲いていたピンクの百合の花とします。白い百合の中で、「我、ここにあり」と自分の存在を際立たせています。いいなあ、と思いました。
今日、5月3日は「憲法記念日」です。1947年5月3日、「日本国憲法」が施行された時を記念する祝日です。わたしにとって、違和感なく、深い感慨をもって、祝日として覚えることが出来る時です。わたしは中学生の時、感動をもって、この新しい憲法を読んだことを覚えています。個人の尊厳の確保を基本において、基本的人権、国民主権、平和主義の国を建てていこうという、敗戦後の多くの人たちが感動をもって受け止めた憲法です。戦後70余年、国の歩みを支えてきた憲法です。しかし現在、この憲法が危機にさらされている状況です。
この一ヶ月ほどは、皇位の交代、改元などで、テレビ、新聞などは異常なほどの興奮状態です。これを商売のために利用する人たちのたくましい商魂への批判はありません。慶祝として手放しの状況です。もう少し、冷静に見ることが出来ないかと思っています。
今回、皇位の継承に伴って即位の「ことば」の中で、新天皇は「憲法に則り」と語りました。先の天皇の時は「憲法に従い」と語ったと思います。天皇という務めに就くに際して「憲法に従う、則る」などの表明は大切なことです。国家公務員に就くときも「憲法を遵守し」と誓約するはずです。
ところが例外が、特別公務員である内閣総理大臣、各省大臣などに就任するときです。何の誓約もしないみたいです。大臣就任に際して、憲法遵守の誓約をするべきではないでしょうか。アメリカ大統領も就任に際して、聖書に手を置いて合衆国憲法への誓約をしています。形だけと言われるかもしれません。しかし、この形は大事なことです。本来、「天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は、この憲法を遵守し擁護する義務を負う」(第99条)のです。
今回の花は「ツバキ」とします。広島の原爆記念公園の中に咲いていたツバキの花を撮ってきたものです。わたしたちは、敗戦の惨めさを忘れず、平和のために憲法を守り続けていかねばならない、と想っています。
今日、5月15日は、沖縄の日本復帰47年の記念日です。わたしも、この記念日について失念していました。朝日新聞の囲み記事で知ることが出来ました。最近は、天皇の代替わりのあれこれがジャーナリズムを賑わしていますが、沖縄のことはあまり扱われません。本土のジャーナリズムは、もう少し沖縄に目を向けてもらわねばならないでしょう。
沖縄は、太平洋戦争時の想像を絶する悲惨な歩みを経験しただけでなく、敗戦後も長く苦難の歴史を歩んできました。サンフランシスコ講和条約によって、日本本土は1951年に独立を回復しましたが、琉球諸島はアメリカ合衆国の施政権下に置かれました。「見捨てられた」と言っていい。米軍人などによる事故や暴行、ベトナム戦争の基地となるなどを経て、本土復帰運動が起き、やがて「核抜き、本土並み」の返還が約束されて、1972年5月15日に日本へ復帰したのでした。
わたしの学生時代、親しくしていた沖縄の友人はパスポートを持っての留学でした。この時期、もう、わたしはキリスト教信仰を持っていたのですが、「へぇー」という程度の軽い驚きにとどまりました。沖縄の事情も聞きはしましたが、深く考えはしなかったのです。申し訳ないことをしたと、今は悔いでいっぱいです。
沖縄は、日本によって、繰り返し「見捨て」の対象になりました。独立の琉球王国を1872年(明治5年)「琉球藩」とし、1879年(明治12年)「琉球処分」により「沖縄県」として大日本帝国の領土に組み込みました。ところが、太平洋戦争の終末期には捨て石として見捨て、戦後は日本の早期独立のために捨て石としたのです。そして、現在は米軍基地の維持のために「辺野古」を犠牲としているのです。これも見捨てです。本土の人間の一人として、このような沖縄・琉球の歴史を知るにつれて、申し訳ない思いを深くしています。
わたしは、沖縄・琉球の歴史を想うとき、沖縄の自立と自律を祈らざるを得ません。実際的には何の手助けも出来ない状況ですが、神に祈ることは出来ます。今回の花は雨に煙る「バラ」とします。美しい花に隠されているトゲのあること、抵抗の精神を見ていかねばならないと思っています。
先日、フッと立ち寄った書店で「手塚マンガで憲法九条を読む」(子どもの未来社刊・2018年)を発見しました。わたしの子ども時代は、「手塚マンガ」にどっぷりつかっていました。貸本屋があった時代です。親と学校の先生に隠れて「鉄腕アトム」を読みふけりました。それからマンガから離れることが出来なくなりましたが、いつのまにか手塚治虫から離れてしまいました。多くの面白いマンガが次々に出てきたからです。
久しぶりに手塚マンガに出会ったと言ってもいい。そして、この本を通して、改めて手塚治虫という一人の漫画家の発信してきたメッセージに目を開かれました。戦前にはマンガを描く自由がなく、命が軽視され、戦災により浮浪児となり、障がい児となった者たちの惨めさを描き、自分の無力さ、などなどをも冷めた目で描いています。
その対極に、敗戦後の自由と明るさが描き出されます。原子力エネルギーでのアトムが誕生し、生き生きとした人間らしいアトムの活動が描き出されました。アトムマンガ誕生の背景にあったのは、戦争の時代の惨めさと暗さだったのです。原子力問題などもあり、アトムから身を引いてしまっていたのですが、小森陽一さんの解説に導かれて、手塚マンガにもう一度引き戻されました。手塚治虫のマンガは、命の尊さ、平和と人間性、自由に漫画が描ける明るい時代を求めるヒューマンな叫びだったのです。
今日、日本国憲法はまさに危機に瀕しています。自民党・安倍政権によって「九条」の改悪がもくろまれています。このことに、戦争を知らない世代、若い人たちが無関心なのではないでしょうか。わたしたち、不作為と怠惰と臆病を脱ぎ捨てて、敗戦によって獲得された平和と人権、明るい社会を決して失わないようにしていきたいものです。今回の花は、我が家のベランダに咲いた「蛍袋」とします。反戦と平和への思いを一筋に求めてまいりたいものです。
最近、テレビのニュースを見るのに疲れてしまいます。幼い命が失われるニュースが、連日のように繰り返されます。その度に、児童相談所や警察などの関係者が記者会見して弁明し、謝罪しています。学校でのいじめによる児童・学生の自殺も繰り返されています。これも、その度に学校の教師や教育委員会の人たちが会見して弁解に努めています。
失われたいのちの尊さと共に、出来事に関わった人たちの記者会見などを見るたびに、やるせない想いと共に、関わった人たちの「いのち」の重さについての無自覚とさえ言えるものが見え隠れしています。いのちが軽いのです。少子化対策が叫ばれ、「子どもを…人産め」と叫ぶ政治家はいても、失われていく命についての真剣な取り組みはなされていないのです。児童相談所の主事や学校の教師を飛躍的に増加させるような国全体での取り組みとなっていません。このままだと、児童相談所や学校が「ブラック企業化」していくだけでしょう。
いのちの尊さを知るとは、基本的人権の自覚なのです。聖書では、人の尊厳性は人が「神の形」に造られたところにあるとしています。何かが出来る、能力がある、ということではなく、赤ちゃんであっても、人が人であることに尊さがあり、人として保護されていかねばならないのです。このような視点からの国造り、人造りが望まれるのではないでしょうか。幼い命が失われる悲惨なニュースは見たくはありません。今回の花は、アジサイとします。うち続く冷たい梅雨の中でも穏やかに咲いて生きます。
この6月下旬(2019年)、一週間ほど、北海道の道央部分を妻と一緒に旅してきました。現役を去り、時間の制約を解かれてゆっくりと出来ることは、たいへんありがたい主の恵みと受け止めています。昨年は、沖縄での戦跡を訪ねる旅をして心痛む想いをしてきました。
今回は、有名な旭山動物園、三浦綾子記念文学館、ラベンダー園などを気の向くままに見てきました。ただ1つ、心痛む思いで見てきたのは、夕張市石炭博物館と賑わいの失せてしまった夕張市街を見たことです。産業構造の変化ということもあるのでしょうが、朽ち果てた多くの公共的な施設群を見ると、箱物を建設することで衰退を挽回しようとした空しさを感じました。またここに至るまでには、巨額な負債が長期間にわたって隠蔽されてきたことも知りました。我が国の巨大な財政赤字の結末はどうなるのでしょうか。
ラベンダーには少し早すぎたみたいですが、「六花の森」では感動して花と絵などを見てきました。自然と草花がすばらしいだけでなく、感動の物語が付随しているのです。今回の旅は、ラベンター園、六花の森、紫竹ガーデンなど北の国の花を愛でる旅でした。今回の花は、小雨の煙る「六花の森」で撮ってきたエゾハナシノブとさせていただきます。わたしたちの訪問を静かに待っていてくれました。
この6月21日には参議院議員の選挙があります。新聞などの報道では早々と、自民党がしぶとく勝ち、与党での3分の2が続くという予想がなされています。戦後70年余の平和の歩みを支えてきた日本国憲法第9条が危機にさらされることになります。これだけは、なんとしても避けたいというのが、わたしの祈りです。
安倍自民党政権は、現憲法を危機にさらしているだけでなく、庶民の生活をも脅かしています。年金問題しかり、労働者の給与が目減りし、しかも10月には消費税が10パーセントになります。これだけ庶民が痛めつけられても、自民党政権が揺るがないというのは不思議でなりません。多くの人は惰眠をむさぼっているのでしょうか。公文書は改ざんされ、議会で虚偽が語られ、議会の招集要請すら応えない。民主国家の根幹が揺らいでいるのに、不思議なことです。
アメリカのトランプさんに寄り添って、アメリカ製の超高額な兵器を爆買いし、沖縄で、秋田で、国民をないがしろにする安倍自民党政権は退陣してほしいというのが、わたしの切なる祈りと願いです。最後に、わたしが高校生の時代に読んで感動した聖書の言葉を記し、わたしの祈りとしましょう。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2章4節)。今回の花は、北海道旅行で採ってきた平和の想いを表すデ-ジー、雛菊とさせていただきます。
先日、6月21日に参議院議員の選挙がありました。結果として、自民・公明の与党での3分の2ということがなくなったとのことで、ひとまず胸をなで下ろしています。しかし、まだまだ日本国憲法第9条が危機にさらされている状況は変わらないでしょう。9条に何かが加えられたり、改悪されないように、祈り続けてまいります。
最近思うことは、人のいのちが軽視されていることと、憎しみが憎しみを生み、報復が当たり前の時代になっていることに、気が重くなるのです。日本では、悪質な犯罪そのものは全体として減少しているようですが、突出して激しい憎悪や行き当たりばったりの傷害事件や殺人事件が続いています。京都のアニメ制作会社で34名の人命が失われてしまいました。ずいぶん昔に新宿の歌舞伎町の火事で多くの人命が失われましたが、それ以来の多数の死傷事件ではないでしょうか。悲しい出来事です。
今回の京都のアニメ制作会社の事件では犯行に至った動機などがまだ明らかではありません。しかし、このような多数ではなくても、殺傷事件が相ついでいます。最も深いところで、社会の中に不満や怒り、憎しみが深く内蔵されているのではないかと思っています。それが最も弱いところで噴出してきているのではないかと考えています。
人の世には「赦しと愛」が必要なのではないでしょうか。憎しみに対して憎しみの対応ではなく、憎しみの彼方に「赦しと愛」を望み見る。こんな一筋の道を社会の中のどこかで見ることが出来るならば、少しずつ人の世の生き方が変わってくるのではないでしょうか。わたしたちの心の中にも、赦しと愛の余地を少し空けておきたいものです。今回の花は、先月の北海道旅行の中で撮ってきた「ハマナシ」とさせていただきます。悲しく美しく自生していました。
今日、日本と韓国との関係がたいへんギクシャクしている状況を悲しむ者の一人です。わたしはキリスト教会の関係者として、日本と韓国の教会関係を取り結ぶために、何度か訪韓し、韓国に友人も多くいます。日韓の友好関係を損なってはならないと願う者の一人です。
しかし、日本と韓国の間では、竹島・独島の問題、従軍慰安婦の問題、元徴用工の問題、貿易の規制の問題、など多くの問題で出口が見つからない閉塞状況が続いています。それに伴って相互に「愛国」というナショナリズムが絡み合い、出口の光が見えません。やったら、やり返すという悲しい報復合戦が続いているのです。
これは、わたしの私見ですが、根本的には1965年の「日韓基本条約」に問題があるのではないでしょうか。この「日韓基本条約」をもう一度、誠実に見直すことしかないでしょう。この基本条約が成立したのは、日本が高度経済成長に向かう時期、韓国は朴正熙軍事政権の時代でした。ある意味で「金で解決した」という側面があります。個人補償の問題も話し合われたようですが、きちんとした個人補償はなされなかったのではないでしょうか。韓国国内内部の問題だと言って済まないでしょう。徴用工の問題や慰安婦問題は、当時まだ霞んでいたのではないでしょうか。国家間の基本条約と言っても歴史の産物です。状況の変化を認めて、基本に立ち帰って、歴史を正面から受け止め、虚心になって協議し直さねばならないのではないでしょうか。
最も近しい隣国との関係がギクシャクすることは避けねばなりません。まして、ナショナリズムに委ねてはなりません。ピンチはチャンスです。日本と朝鮮半島との交流の長い歴史を踏まえて、これからの両国の親しい関係を築き直していく良い機会です。行きがかりを捨てて、傷がいやされることを、切に祈り求めています。今回の花は北海道旅行の途次、撮ってきた「シャクヤク」とします。しなやかで優しい姿は見る者の心の傷をいやしてくれるのではないでしょうか。
名古屋で開かれていた「あいちトリエンナーレ2019」の中での「表現の不自由展・その後」展が、開催たった三日で閉鎖に追い込まれたということです。理由は、韓国の従軍慰安婦を表すと言われる「平和の少女像」が展示されたことにあるようです。多くの問い合わせ、激しい攻撃、行政の意思などがあって、閉鎖という処置に追い込まれたようです。
たいへん残念なことです。自治体や政府の公的な資金が用いられ、公的施設で開かれていることが問題になったようですが、これこそ問題なのではないでしょうか。政府や時の権力者の意向に添わないもの、あるいは反対のあるものは公的施設を使えない、公的資金をもらえないということでは、検閲であり、思想・信教の自由、表現の自由など憲法が認める自由な人権が犯されることなのです。明白な憲法違反です。憲法21条「① 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。② 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを犯してはならない。」
反対があるから、テロなどの危険が予想されるから、ということで安易に作品の展示を取りやめることは、反対運動をする人たちの思い通りになることを承認してしまうことです。元々、芸術や文芸は本来的に反権力です。権力への批判こそ、創造的な作品の発想の原点なのではないでしょうか。時の権力者の意向に添わないのは当然のことです。反権力を容認することこそが、権力者側に求められているのです。今回の事件は、表現の自由が、どのようにして不自由になっていくのかを、適切に示してくれた事件と言えるでしょう。
自由な作品の展示が抑圧される状況は、アジア・太平洋戦争直前の抑圧された社会状況を彷彿とさせています。暗い不自由な時代の到来が予想されます。わたしたちは、しっかりと時代の流れにあらがい、抵抗し、表現や言論の自由の尊さを主張していかねばならない時に立ち至っています。今回の花は、わたしの実家の庭の片隅に咲いていた「ヤブラン」とします。強い草木の陰で周囲にあらがってひっそりと忍耐強く咲いていました。
この「折々のことばと写真」の頁の中で、花の写真を扱うことにしたため、あちこちに出かけて花の写真を撮るようになりました。花には季節があります。「あそこに、……の花が咲いている」という情報をいただくと、出かけていって撮ってきます。ところが、時を失してしまうことも、また多いのです。林芙美子の「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と語った言葉を思い出しています。
今、わたしの祈りの課題となっているのは、沖縄の歴史と韓国の歴史です。両者ともに、旧「大日本帝国」の侵略による不条理と痛みを、今なお引きずっているのです。そして、今日の日本の多くの人たちは、この両者の歴史の深みの問題には目を向けようとはしていません。本当に苦い思いを飲み込まねばならないからです。
沖縄の辺野古の埋め立ての問題も、沖縄の人々の心の内に深く突き刺さっている琉球処分、太平洋戦争の犠牲・捨て石とされたこと、今も捨て石状態が続いていることなどを受け止めないと、真の解決の道は見つからないでしょう。
韓国との問題も、戦後の直近の歴史だけで考えてはならないのです。戦前の日本統治下で、どのような無体なことを強いてきたかを知るところから始まるのです。その怨念の積み重なりを解きほぐしていくところから、日韓の正常な関係の回復は始まっていくのではないでしょうか。
今回の花は、月下美人とします。以前、我が家で育てていたものです。年に一晩だけ咲く花です。はかない優美な花です。花の命の短さを感じさせてくれます。
最近は、テレビでも新聞でも、ことあるごとに、来年に迫った「2020東京オリンピック」のことを報じています。来年に迫っていますから、今さら「オリンピックの開催を止めろ」などと言ってもまったく聞かれないでしょうし、意味のないことかもしれません。しかし、どこかで、本当に小さな声ですが、今日、オリンピックを東京で開催することへのいくつかの疑義を最後まで表明することも必要かと思っています。
疑義の1つは、当初、2・11東日本大震災の「復興オリンピック」と言われていましたが、その意味をほとんど失っていることです。フクシマの原発はコントロールされていません。汚染水の処理や、溶け出した燃料棒の搬出・処理も出来ていません。何ひとつキチンとは復興していないのではないでしょうか。
疑義の2つは、地球温暖化の時代、なぜ、熱中症で死者もでるほどの日本で最も暑い8月に行うのでしょうか。かつて1964年に行った東京オリンピックは、気候が安定している10月でした。アスリート第1では決してなく、「アメリカさん第1」なのではないでしょうか。
疑義の根本にあるのは、今日、巨額な費用をかけての「オリンピック」が本当に必要なのかということです。アスリートたちのためには、各種スポーツの世界大会が目白押しです。今日のオリンピックは、かつてのナチスの「ベルリン・オリンピック」と同じように、「国威発揚」の最高の機会になっているのではないでしょうか。オリンピックの目的から外れています。
わたしは今日、善意の人々でも、オリンピック運動に無批判に乗っかるのは、極めて危険なことではないかと考えています。時代の政治の動向に流され、大資本による略奪的な活動に手を貸すことになるのではないでしょうか。今回は「反オリンピック考」としました。今回の花は、6月に北海道の旭山三浦庭園で撮ってきた「フデリンドウ」とします。あまり人の来ない庭園の片隅で辛抱強くけなげに咲いていました。(2019/09/11)
最近、読んだ本の読後感想です。「沖縄戦を知る事典…非体験世代が語り継ぐ」(吉川弘文館、2400円)。わたしは昨年2018年の秋、1週間余にわたって、初めて沖縄を訪問し「戦跡巡り」をしてきました。その折りに、この本が出版されていたら大きな助けになったろうなあ、と思っています。読む事典で、編集・執筆者の全員が、戦後生まれの若い人たち、「非体験世代」ということです。そのため、体験者の証言・語りを元にした聞き取りを編集したものです。特色は、沖縄戦とその後の諸相ほぼ全体にわたってを網羅し、今日のわたしたち「ヤマトーンチュ」が考えねばならない点のすべてが指摘されていることです。
昨年、訪問してきた多くの戦跡を彷彿と思い起こさせてくれると共に、この本を友にして、再度訪問し確認したいという願いが湧き起こるほどでした。学術研究としてのものではなく、実際の沖縄戦の地獄を体験したさまざまな人たちの「語り」を記し、まとめたものだけに現実の重みと言葉のリアリティを感じさせられます。日本の国体(天皇制)護持のための捨て石とされ、日本軍によって徹底的に収奪され、集団自決(強制死)へと追い詰められていった過程が浮き彫りにされています。また教育の恐ろしさも分かります。学校教育が沖縄の人々を軍国主義化し、「皇民化」していったのです。「日の丸、君が代」の強制、道徳教育に突き進む今日の学校教育の問題点も浮き彫りにされています。
有事法制ができ、集団自衛権が合憲とされ、憲法9条が改悪されようとしています。日本は、再び、戦争への道を突き進むのではないでしょうか。世界を見ないで、成算を度外視して、狂気のように破滅に突き進むのが日本という国の有り様です。悲惨な歴史の経験を大切に語り伝えてほしいものです。今回の花は、「ひめゆりの塔」を思い起こしながらの「白百合」とします。(2019/09/27)
台風19号の大きな被害が、テレビで大きく報道されています。東日本大震災を思い起こすような洪水の氾濫、水没家屋などが、これでもか、と言うように映し出されています。死者、行方不明者の数も恐らく100人を超えるかもしれません。「この程度の規模」などと言えるものではありません。国会でも取り上げられて、予備費を充当し、さらに補正予算を組む方向で検討すると言うことです。いずれにしても回復・復旧のためには、相当の期間、相当の費用がかかることでしょう。
これらの回復・復興の道筋と共に、もうそろそろ、わたしたち日本人も相当の長期的な道筋で根本的な課題について取り組まねばならない時に立ち至っているのではないでしょうか。台風の増大と巨大化は、地球規模の温暖化と切り離せません。台風だけではなく、わたしたちの日常生活の至る所に、地球温暖化の影響を見る時代となっています。「私たちの家が燃えている」と言って、スウェーデンの国会前で座り込みを始めて、気候変動・温暖化対策を求める若者たちの中心的な存在となった16歳のグレタ・トゥーンベリさんの訴えに真剣に耳を傾ける必要があるでしょう。未来を若者たちに残しておかねばならないのです。
温暖化対策というと、日本では「原発」・原子力発電が登場してしまいますが、これは温暖化以上に地球環境を決定的に破滅させてしまう危険なものです。太陽光、風力、地熱、水力などの再生可能エネルギーに頼る以外ないでしょう。同時に、社会全体の在り方を変革していくことも必要でしょう。ものに溢れ、豊かさと成長を追求し、収奪する資本主義社会の在り方から、互いに譲り合い、「足ることを知る」、地球を1つの「家」と見る社会へと、世界的な視野で社会を組み替えていかねばならないのではないでしょうか。今回の花は、調和と謙虚を花言葉とするコスモス(秋桜)とします。(2019/10/17)
今年2019年5月1日に新天皇の即位「令和」が始まり、10月22日には「即位礼正殿の儀」が行われました。続いて11月14日には「大嘗祭」が行われることとなっています。昭和の時代にはあまりなかったことですが、若い人たちの中に「天皇ファン」「皇室ファン」みたいな人たちが出てきています。週刊誌では皇室の記事を競って載せているほどです。平成天皇の努力の結果かもしれません。
しかし、わたしはこれらの一連の儀式に強い違和感を感じています。「高御座」は神武天皇の天孫降臨を現しているとのこと。日本の国の有り様が神道神話に根ざしていると共に、現天皇がその継承者であることを示したわけです。この後に行われる「大嘗祭」と共に、人が神となる一連の儀式と言っていいでしょう。人間宣言をしたはずの人が「神懸かる儀式」、現人神となる儀式と言えるでしょう。日本は神話の国でしょうか。
天皇と皇族の人たちに「基本的人権」がないことが、わたしには気になっています。基本的人権を持たない人が、基本的人権を持つ日本国民統合の象徴であるとは不思議なことです。「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。この基本的人権・人の平等の道筋を踏み外すことなく、国の営みがなされていくことを切に祈る者です。今回の花は「悲しき思い出」という花言葉を持つ曼珠沙華(彼岸花)とします。天皇制が人の差別化と圧政の原点とならないことを願っています。(2019/10/26)
最近は、政治家や大臣たちの無思慮な失言、放言が相次いでいます。辞任に追い込まれる場合も、そうならない場合もありますが、いずれにしても語られ、表現される「ことば」が軽くなっています。ツイッターなどでまったく違った人を犯人扱いし、誤った情報が世界中に拡散するようなことも起こっています。
聞くに耐えないヘイト・スピーチが平然となされ、いろいろなところで意地悪、イジメがはびこっています。生徒同士のいじめだけでなく、学校の教師仲間でのいじめまで出て来ました。「絆」とか「寄り添う」と言う「ことば」が、至るところで飛び交いますが、実質を伴っていません。自分に都合のいい絆であり、利用できる者への寄り添いなのではないでしょうか。
言葉は人と人を結ぶもので人間社会の帯のようなものですが、その「ことば」への責任が伴っていないために、社会が緩んでいるのです。責任が曖昧にされている昨今ですが、これは決して最近になって始まったことではないと思っています。最大の無責任は日本国家の太平洋戦争の責任の取り方です。宣戦布告の「御名御璽」の最高責任が取られることなく、うやむやにされました。その後、日本の国は平然と「ことば」への責任が問われることなき国になったのです。安倍首相の政治姿勢に至って緩みが極まってきたと言えるでしょう。
聖書では「言は肉となった」(ヨハネ福音書1章14節)と記されています。語られ、約束された事柄が、肉となる、現実となったということです。「ことば」が虚しく宙を舞うのではなく、現実となるような重みを持って語られる世界となるように祈り、行動してまいりたいものです。わたしたちの語る言葉が重みを持つものでありたいと願っています。今回の花は、「ことば」への信頼を求めてスイレン(睡蓮)とします。(2019/11/7)
最近、沖縄のことが、わたしの大きな関心事の1つとなっています。ようやく浜松の映画館「シネマイーラ」でドキュメンタリー映画「米軍が最も恐れた男 カメジロー 不屈の生涯」が上映されたため、昨日、見てきました。実は、ほんの少し前まで「瀬長亀次郎」という人については沖縄選出の国会議員・政治家という程度の知識しかありませんでした。恥ずかしい限りです。
日本の敗戦後、長く続いた沖縄におけるアメリカ占領軍の軍政に対して「民主主義」の視点から首尾一貫して戦い続けてきた人でした。瀬長亀次郎の生涯において、戦後の沖縄の過酷な歴史が見えてきます。「日本復帰」だけでは終わらない米軍と自衛隊の「基地のない沖縄」こそが、彼の求めた平和な沖縄の在り方でした。日米安保条約と日米地位協定による日本の中の沖縄ではなく、それを突き抜けた基地なき沖縄の在り方を求め続けたのです。沖縄戦の流血の悲惨を体験した残りの者としての彼の語る言葉は重みのある言葉です。ノーベル平和賞を受けた佐藤栄作氏などと比べることの出来ない遙かに真実の平和の戦士でした。
今日もなお、沖縄と日本とは、真の意味で米軍の占領下にあると言っていいでしょう。未だ真の独立国になっていないのです。基地の新設のために、有無を言わせず、美しい辺野古の海が埋め立てられています。日本政府はアメリカに抗議しようとさえしません。抗議する沖縄の声をあらゆる手段を用いて封殺しようとしているのです。「瀬長亀次郎」の時代は、まだ終わっていないのです。今回の花は、韓国を象徴する「ムクゲ(木槿)」とします。「無窮花」とも書きます。ともに大日本帝国による悲哀を味わっているのです。(2019/11/21)
最近は、テレビを見たり、新聞を読む度にイライラが募っています。日本の国の有り様に不安と怒りを覚えることが多すぎます。その最大の1つは、天皇の代替わりについてのマスコミを含めての無批判さです。「天皇」は、信教の自由、住居の自由、投票権などの基本的人権をまったく持っていないことに誰も気づいていません。神懸かるためのいくつかの儀式のため膨大な国費を費消し、政教分離が無視されています。膨大な数の無責任な天皇ファンが産み出されています。天皇制維持のため誰も批判出来ない危険な状況が生まれています。戦前の「国体」が出来上がっているのです。
第2は、安倍自民党政権の無責任体制です。臨時国会の請求があっても無視をする。森友・加計問題での文書の改ざん・廃棄、虚偽文書、証言拒否、官僚の政権への忖度・すり寄り、などにはあきれるばかりです。大臣の任命責任の無自覚さには大臣の軽さが見て取れます。今回発覚した「桜を見る会」での資料の破棄と虚偽発言は、日本国家の伝統的無責任体制の極まりが見て取れます。敗戦に際して戦争犯罪に問われる恐れのあるものすべて焼却してしまったのです。国としてのモラルと品格が地に落ちています。
さらに、アメリカのトランプ政権に寄り添って日米の貿易交渉も不明確なままです。米軍基地のために国土がさらに割愛提供されようとしています。日本の国土と富と力が売り渡されていると言って言い過ぎではないでしょう。民主主義国家として国の有り様全体が見過ごすことの出来ない異常な状況となっています。このままで、いいのでしょうか。戦前、無教会の指導者・矢内原忠雄が、国家が正義に反した場合、国民から批判されなければならない。「一先ず、この国を葬ってください」と語りました。同じような状況が、今日、起こっているのではないでしょうか。今回の花はサザンカとします。困難に打ち克つひたむきさです。(2019/12/7)
年末年始は、孫娘が来てくれて久し振りに活気が戻りました。家族でゆつくりと話す楽しみを味わいました。そんな中で降って湧いたように飛び込んできた2つのニュースがあります。1つは、日産の前会長ゴーンさんの国外への脱出です。新聞やテレビの論調の多くはゴーンさんへの手厳しい批判ですが、わたしはゴーンさんにいささか同情しています。企図されていたような突然の逮捕劇、極めて長期の拘留、妻と会うことも出来ない非人道的処遇、予想される超長期の裁判、これらを考えると逃げ出す気持ちも分からないではありません。事柄の是非善悪とは別に、このような処遇を考え直さないと同様なことが起こるでしょう。逃げ場所がない日本人は、同様な長期の苦痛を耐え続けねばならないのは不条理です。
2つは、アメリカによるイランの革命防衛隊の司令官の殺害です。トランプ大統領自身が言明しているのですから間違いない事実でしょう。これはゴーンさんの事件とは格段に重みの違う世界史的な大事件です。明らかな主権侵害であり、法によらない殺人です。まかり間違えると第3次世界大戦への導火線となりかねない出来事ではないかと思っています。極端な自国中心のものの考え方、物事を多くの人と計って冷静に合理的に判断するのではなく、思いつきで博打のように決断する。このようなトランプ大統領では、この後の収拾も危ういものです。
日本は自衛艦を中東に派遣しようとしています。火中の栗を拾うことになるのではないでしょうか。アメリカ追随、トランプ追随を止めねばなりません。そのためには、なんとしても現在の日本国憲法とその平和主義の根拠である第9条をしっかり守り抜くことが必要です。年頭に当たって、このことをお互いに自覚してまいりたいと願っています。今回の花は、黄色いバラとします。太陽に向かって平和であることをひたむきに祈り続けて咲いています。(2020/1/9)
ここしばらくは国会中継を見ながら腹立たしさが増しています。「桜を見る会」を巡っての首相の答弁を見ていると、地位にしがみついている首相の哀れさが滲み出ています。問い詰める野党議員に対して、同じ言葉を繰り返すだけで、真実を明らかにしようとしない姿には、腹立たしさと共に哀れさを感じます。問われたことに、誠実に向き合い、応えようとはしていない。つかみどころのない「こんにゃく問答」になっています。
これは「桜を見る会」だけではなく、数年前からの森友・加計学園の問題以来です。一切を官僚の責任にして、自分の責任はひとかけらも認めようとしない安倍首相の姿には、「これが日本の首相なのか」という失望感以外ありません。
とりわけ、わたしが注目しているのが「IR・カジノ法案」成立の問題です。もう早速に贈収賄の汚職問題が生じていますが、これは国として「賭博、博打」を許容、推奨する法であることです。暴力団やヤクザの人たちの賭博行為は禁じながら、国が賭博の胴元になろうとしていると言えるでしょう。「美しい日本」を標榜する人たちが、多くの国民を賭博・カジノに誘っているのです。金さえ落ちれば、後はどうなってもいい、という見苦しい無責任な品格のない国造りをしているのです。この法の廃止を切に祈り求めるものです。今回の花は、水仙とします。「うぬぼれ、自己愛」が花言葉と言われています。今が盛りですが、もうすぐに終わりの時が来るでしょう。(2020/2/8)