1、「使徒信条」の解説を始めます。

    2022年になりました。これからしばらく時間をかけて、「使徒信条」の解説を始めようと願っています。この「オープンチャーチ牧場」には、「初歩の聖書と教理の解説」のページがあり、それと重複するような部分もありますが、「使徒信条」に従い、今日的な課題を意識しつつ、キリスト教信仰についてお話ししようと願っています。

 「使徒信条」は、教会に行き始めた人であるなら、恐らく皆、知っているでしょう。プロテスタント教会のほとんどの教会の礼拝で朗唱されていると思います。ローマ・カトリック教会と一部のプロテスタント教会では、代わって「ニケア信条」が朗唱されています。

 「使徒信条」は、最も古く、最も広く受け入れられている最も基本的な信条、信仰の告白と言われています。「使徒信条」と言う呼び方は、使徒に直接起源すると言うことから来ています。ペトロはこう言った、アンデレはこう言った、ヨハネはこう言ったと、12使徒が一人ひとり語った条項をまとめて出来上がったと、言われて来ました。しかし、これは完全な伝説で歴史的には正しくありません。

 今日の使徒信条の原型となるものは、3,4世紀の古ローマ教会の洗礼信条に遡ると言われています。古代、それぞれ各地の教会で、未信者に洗礼を授ける際に「信ずべき事柄」を教え、「我、……信ず」と信仰を言い表して洗礼を授けていました。それら多くあった洗礼信条の中で、古ローマ教会の洗礼信条が最もよく整っていたのでしょう。これが核となって今日の使徒信条が形成されたようです。

 実は、古代キリスト教会の「信条」と呼ばれるもののほとんどは、教会の会議において採択されたものです。ローマ帝国による迫害の時が過ぎると、教会は神学的な論争の時代に入ります。ユダヤ教の唯一神信仰に対して、イエスをどのように位置づけて理解するのか。ギリシャ哲学の世界からは神秘思想が入り込みます。その論争の中で、新約聖書が確定し、正統キリスト教信仰とは何かが議論されました。論争の解決のため多くの教会会議が開かれ、「信条」という形で教会的な一致が形成されていきました。紀元4,5世紀です。このため、会議で確定した信条は「我らは、……信ず」と、教会共同体の告白という形

になっています。

 それに対し、使徒信条は「我……信ず」と、個人的に信仰を告白して教会共同体へ加入する形になっています。これが洗礼信条である使徒信条の特色です。特別な教会会議によらないで、公同教会が使徒の初代教会から受け継いで自然に成立した基本信条です。その意味で「使徒信条」という表現は正しいと言えましょう。今回の花は、白ツツジです。(2022/1/7)

2、「信仰」を告白すること

 「使徒信条」の解説を始める前に、キリスト教では、なぜ、自分の「信仰」を告白するのか、自分の信じている事柄を表明することが求められるのか、についてお話ししなければなりません。

 日本では、自分の信仰を語らねばならないことが、よく分からないようです。「なぜ、自分の内心のことを言う必要があるのか」という言葉を聞くことが、よくあります。日本人の生得的な考え方と言っていいでしょう。「無宗教」と言って恥とも感じないようです。日本人は多重信仰であるだけでなく、自分の宗教について明確に語らないのです。神道では「教義のようなものはない」と言い、仏教でも信徒が明確に「これを信じる」と言うことはないようです。

 神社仏閣に参詣して、いろいろな願い事(鎮護国家、家内安全、受験合格、病気快癒、……)をつぶやくだけです。神々の存在、仏や観音の存在を、「感じる、想う」というだけで済ましています。内心の感じで済まし、言葉で表明しません。信じる対象については問わないのです。

 キリスト教信仰は、唯一の生ける神を信じる信仰です。信仰の対象は、生ける人格を持つ神です。あえて人間のレベルで例えて言えば、愛する人を目の前にして、「わたしはあなたの存在を認め、あなたを愛していますよ」と、愛を語り、告白することと同じなのです。信仰を持つとは、神との一対一の人格的な関係に入ることなのです。「我、……信ず」と言って、神との人格的な交わりの中に入るのです。

 また、キリスト教信仰は、信仰の基本を明確に理解し、保持し、伝達する信仰です。「感じ、想う」という不明確、不安定なものではなく、しっかり「知解し」、これを保持、伝達することを求める信仰なのです。洗礼の根拠としての聖書個所で「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(マタイ福音書28:19-20)とあります。

 洗礼は、「教えること」を前提にしています。使徒以来、使徒的福音の宣べ伝えには一定の枠があります。「教え」、「教えにかなった信頼すべき言葉」、「健全な言葉」、「教えられた伝承」という言葉が新約聖書自体の中で記されています。使徒的伝承の規範として伝え続けられてきた信仰内容が、「洗礼信条」としてまとめられたと言っていいでしょう。今回の花は、寒さの中で咲いている水仙です。(2022/1/14)

3、「使徒信条」の本文について

 これから「使徒信条」の解説を始めてまいります。先ず、「使徒信条」の日本語訳本文について記しましょう。

 「  我は 天地の造り主、全能の父なる神を 信ず

    我は その独り子、我らの主、イエス・キリストを 信ず

       主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、

       ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

       十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、

       三日目に死人のうちよりよみがえり、

       天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり

       かしこより来たりて、

       生ける者と死ねる者とを審きたまわん

    我は 聖霊を 信ず

       聖なる公同の教会、聖徒の交わり、

       罪の赦し、

       身体のよみがえり、

       永遠の生命を 信ず    アーメン         」

 今日、「使徒信条」として多くの教会で用いられている日本語本文です。元はラテン語本文(ギリシャ語本文もあり)を翻訳したものです。この日本語翻訳は文語です。この日本語の翻訳本文は、日本キリスト教団出版局の「讃美歌」(1955年)と「讃美歌21」とに掲載されているものです。しかし、だれの翻訳なのか、いつ頃の翻訳であるのか、不明です。

 使徒信条の翻訳は多くの人がしています。古くはヘボン博士による元治元年(1864年)出版の三要文(主の祈り、使徒信経、十戒)に遡りますが、その後日本基督一致教会時代の「基督教礼拝式」文集の中に、ごく古い形の「使徒信経」の翻訳文が残されています。その改訂を繰り返して、今日の「讃美歌21」所載のものになっているのでしょう。

 今なお、多くのプロテスタント諸教会が、文語の使徒信条を朗唱しているのが気にかかります。聖書は口語での翻訳を更新しています。しかし、使徒信条を口語化する気運は見出されません。むしろ、ローマ・カトリック教会がしっかり口語化をしています。カトリック教会は2004年に口語訳の使徒信条を認可し、それまでの文語訳「使徒信経」は公用として用いないこととしています。(2022/1/21)

4、「使徒信条」の構造について

    「使徒信条」の解説を始める前に、その構造からお話しします。「使徒信条」は、大きく3つの段落、3つの条項をもっています。

 第1の段落は、「父なる神」の条項です。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」です。旧約の伝統を踏まえた「天地の造り主、全能の神」を信じ、受け入れる信仰の告白です。全能の神を「父なる神」と告白するところにキリスト教の特色があります。

 第2の段落は、「イエス・キリスト」の条項です。イエス・キリストを「我らの主」と信じ、受け入れる信仰の告白です。イエス・キリストを、「父なる神」の「その独り子」と位置づけて、「我らの主は、聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白します。これこそ、旧約信仰に基礎付けられたキリスト教信仰の中心部です。

 第3の段落は、「聖霊」の条項です。聖霊は、旧約信仰の中に明確に神的存在、神格を持つお方として現れ、広範な神的な働きをしていますが、使徒信条ではイエス・キリストとの関わりに焦点を絞っての告白となっています。「聖霊」を、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」の形成者、「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命」の授与者として告白されています。

 使徒信条は、このような3条項の定式で神の「三位一体」を構造的に告白しているのです。これ以降の古代信条は、三一論の定式に従い、あるいはそれを踏まえての信条となっています。聖書には「三位一体」(トリニティ)という言葉はまったく出てきません。このため、三位一体は非聖書的という声を聞くことがあります。

 しかし、新約聖書は確かに「三つにして唯一の神」を語るのです。イエスの宣教命令において「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(マタイ福音書28:19-20)。使徒的祝福の中で「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」(Ⅱコリント書13:13)。「三位一体の神」の信仰は、この聖書的表現の延長線上にあると言っていいでしょう。今回の花は、自然への愛を示すという木蓮とします。(2022/1/28)

5、「我は、……信ず」(クレドー)

 「使徒信条」の内容の解説を始めます。ラテン語の最初の言葉が「クレドー」という言葉から始まります。そのため、以後古代の「信条文書」を総称して「クレドー」と言うようになりました。「クレドー」の意味は「我、信ず」です。重い言葉です。人は、教会から「信ずべき事柄」を教えられ、その教えの内容を受け止めて「我、信ず」と告白し、三位一体の神の名によって洗礼を受け、信仰共同体の群れ、教会に迎え入れられます。使徒信条の全体を受け止めて、「わたし」のすべて、全実存をかけて「信じます」と表明するのです。

 信仰は、「わたし」という一人の人格をもって神の前に立つのです。キリスト教信仰は、確かに信仰共同体である教会を前提にしています。聖書的信仰を伝えてくれる教会、信徒の交わりである教会、あるいは信仰者の家族を大切にします。その交わりの中で、人は信仰者として養育されます。しかし、神の前では「あなたの信仰」、「わたしの信仰」が問われるのです。だれも「わたし」の代理をすることはできません。信仰の持つ本質的な厳しさです。

 「我、信ず」との告白は、その人の生涯にかかわります。一時の思いつきではありません。全生涯をかけた神との契約であることです。このことが忘れられて、洗礼を受けてから教会から遠ざかる人がいることです。「我、信ず」の告白において、受洗者の信仰的誠実さが求められると共に、三位一体の神がその受洗者の生涯を守り抜く神の真実が示されているのです。神の選びが具体的に現されるのです。

 「クレドー」の後に、信仰の内容が語られていきます。「父なる神」、「御子イエス・キリスト」、「聖霊」についてです。受洗者は、教会の導きの元で手ほどきを受けて信仰の告白に至ります。しかし、信仰告白・受洗で信仰についての学びが終了するのでありません。イエスは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ福音書28:19-20)と教えました。天に召される時まで学び続けるのです。教会の営みの中で、キリストの弟子として「恵みの神を知っていく」のです。これが「我、信ず」という言葉の中で含意されているのです。今回の花は、桃の花とします。(2022/2/4)

6、「全能の父なる神」を信ず

本文「我は……『全能の父なる神』を信ず」

    「使徒信条」の最初の告白は「全能の父なる神」です。この告白の表現には、旧約伝統としての主なる神の告白と共に、イエスから始まるキリスト教信仰の告白の言葉が1つにされています。旧約伝統の信仰告白は、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命記6:4)です。この「主は唯一の主」を受け止めて、使徒信条では唯一の主を「全能の神」と告白します。「全能」とは、「神が神であること」の表現と言っていいでしょう。無限、全能ということです。

 時折、神が「全能」であると言っても、神にも出来ないことがあると意地悪く語る人がいます。これは大きな誤解です。神の全能とは、神が「悪を出来ない」と言うことではなく、神が「よし」とされたことは何でも出来るということです。神は、本来的に「悪」を行うお方ではありません。

 唯一の主なる神を「父」と呼ぶ。これがキリスト教信仰の表明です。旧約にも、ごく僅かですが、神を「父」と呼ぶ個所があります。申命記32章6節、サムエル記下7章14節などです。しかし、ユダヤ教では一般的ではありませんでした。その中で、イエスが神を親しく「父」と呼んだことに対して、ユダヤ人たちは「ご自身を神と等しい者とした」と言って憤激し、イエスを殺そうと謀ります(ヨハネ福音書5:17-18)。

 イエスが、旧約のごく僅かな「神を父と呼ぶ」表現を受け止めて、唯一の神を「父」と親しく呼んだことは多くのユダヤ人には衝撃的なことでした。さらに、イエスはご自分で「神を父と呼ぶ」だけでなく、弟子たちにも「天におられるわたしたちの父よ」と呼んで祈ることを教えたのです(マタイ福音書6:9)。ここにキリスト教信仰の独自性が示されているのです。

 キリスト教信仰は、旧約聖書の唯一神信仰を土台にしています。「唯一の神がいます」。この唯一の全能の神を「父」と告白するイエスを、「その独り子、我らの主」と告白する信仰です。これは、イエスに始まり、弟子たちへ伝えられた独自な信仰の道筋です。旧約の啓示に始まり、それを受け止めたイエスの新しい自己啓示に基づく「神理解」の信仰です。これが「我は『全能の父なる神』を信ず」という言葉の中で含意されているのです。今回の花は、カンパニュラとします。(2022/2/11)

7、「天地の造り主」を信ず

本文「我は……『天地の造り主』を信ず」

 「使徒信条」の第一項は、日本語では翻訳の都合で「天地の造り主、全能の父なる神を信ず」となっています。ラテン語本文では、「全能の父なる神、天地の造り主」の順です。第一項は、「全能の父なる神」がいます。その神が「天地の造り主」であると告白されているのです。

    創世記の冒頭に「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)と記されます。「神がいます」。これが聖書的信仰の大前提です。その神の最初のみ業として「天地の創造」が語られます。聖書の語る神は、活きて働く神です。「天」とは、神のいます世界で、神ご自身が神の世界、天使などの「見えざるもの」の世界を造られました。聖書は、この天の世界の創造についてはほとんど何も語りません。

 「神は天地を創造された」。すると直ぐに「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と物語っていきます。聖書が雄弁に語るのは「地」の世界、人の生きる「見える」世界です。創世記が語る創造の基本は「神の言葉による創造」です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」。神の言葉が、混沌と闇の中から「地の世界」を産みだしていくのです。

 「地」は、神の愛情と秩序をもってなされた創造でした。創世記1章が記す「七日の創造物語」が指し示すのは、全能の神の深い愛情に基づいた綿密な計画の元に秩序と順序をもって産み出されたということです。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。これを受けて、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマ書11:36)と、信仰の告白をするのです。

 「地の創造」物語の中で、「人」の創造が語られていきます。「人」の創造こそ、創造物語の頂点です。人は、第六日の被造物である動物の一種でありつつ、同時に「神にかたどって創造された」(創世記1:27)のです。人の創造が詳細に繰り返し語られ、神との人格的な交わりの関係に置かれていることが示されています。この神の形を担う人の創造と神との深い人格的関わりこそが、聖書の創世物語において語りたい頂点です。「天地の造り主、全能の父なる神を、信ず」という信仰の告白は、これらの事柄をすべて受け止めて「我、信ず」と告白するのです。今回の花は、ツツジとします。造り主をたたえましょう。(2022/2/24)

8、「イエス・キリスト」を信ず

本文「我は……『イエス・キリスト』を信ず」

 「使徒信条」の第二項に入ります。日本語では「その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」という文言になっています。ラテン語本文では「イエス・キリスト」が冒頭に来ます。「その独り子、我らの主」は、「イエス・キリスト」の説明句となっています。この第二項は、キリスト教信仰の心臓部です。

 「イエス」の名は個人名です。「この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ福音書1:21)というヨセフへの天使の告知に基づいています。旧約の「ヨシュア」と同じで「主は救い」の意味を持ちます。このイエスという一人の男をどのように理解し、受け入れるかに焦点があります。このイエスの生涯を上手に描いた讃美歌(讃美歌第1編121)があります。

 1,馬槽の中に産声あげ、木工の家に人となりて、貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし、この人を見よ。

 2,食するひまもうちわすれて、しいたげられし、人を訪ね、友なきものの友となりて、こころくだきし、この人を見よ。

 3,すべてのものを与えしすえ、死のほかなにも報いられで、十字架の上にあげられつつ、敵をゆるしし、この人を見よ。 

 イエスの生涯が物語られ、歌われています。この賛歌には人としての姿だけが描かれていますが、福音書を読むと、イエスは多くのいやしと奇跡を行い、多くの不思議な業をもなさり、弟子たちが「いったい、この方はどなたなのだろう」と当惑したことも記されています。このイエスを、だれと見るか。ここにすべてがかかっています。イエスと3年ほど生活を共にした弟子たちは、「キリスト」「神の子」と告白したのです。弟子たちを代表してペトロが「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」(マタイ福音書16:16)と答えました。

 「イエス・キリスト」という言葉自身、すでに信仰の告白となっています。「キリスト」はヘブライ語「メシア」のギリシャ語訳です。この言葉は「油注がれた者」の意味で職務の名です。古代イスラエルでは「祭司」、「預言者」、「王」に任職する者に油が注がれました。イエス・キリストとは、「イエスは、油注がれた」祭司であり、預言者であり、王である、ということです。これが「救い主」ということです。「イエス・キリスト」とは、「イエスは救い主」という意味が込められているのです。今回の花は、春の菜の花です。(2022/3/4)

9、「神の独り子、イエス・キリスト」を信ず

本文「我は……『その独り子、イエス・キリスト』を信ず」

 「使徒信条」の第二項は、イエス・キリストについての告白です。ここでは、イエス・キリストを、「父なる神の独り子」と告白されていることについて記すこととします。これは、ユダヤ教に対するキリスト教の独立宣言とも言える事項です。

 旧約の信仰告白と言えるのは、申命記6章4-5節です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。「唯一の主」を信ずる信仰です。

 このイスラエル伝統の唯一神信仰に対して、イエス・キリストの存在をどのように位置づけるかということが、キリスト教信仰の最も大きな課題です。イエスは、まことに不思議な存在でした。多くの不思議な御業を行い、人を癒やし、死人を生かし、十字架の死、さらに復活・昇天までも、弟子たちの目の前で行われました。このイエスを、唯一神信仰の中で、どのように判断するかです。

 イエスご自身が、主なる神を「わたしの父」と呼び、「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる」(ヨハネ福音書10:38)、「父は子によって栄光をお受けになる」(ヨハネ福音書14:13)と語りました。これを受けて弟子たちは「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書16:16)と受け止めました。ここから、イエスは永遠からの神の御子と理解され、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書1:14)という聖書的記述となりました。

 これらの聖書的表現と告白を受け止めて、使徒信条は、イエスは「神の独り子」と告白したのです。さらに、325年のニケア信条では「主は、父から生まれた神の独り子にして、父の本質より生まれ、神からの神、光からの光、真の神からの真の神、造られずして生まれ、父と同一本質であって、天地の万物はすべて主によって創造された」と告白されています。

 イエスが「父なる神の独り子」であると、信仰的に受け止めるところで、旧・新約聖書が一貫したものとして理解でき、イエスの不思議な言葉とみ業の意味が理解できます。彼の生涯とその十字架と復活の救済的な意味が受け止められます。ここに、神の啓示の漸進的な発展を見るのです。わたしたちは、このイエスと信仰によって結ばれることにより、わたしたちもまた、「神の子ら」とされる恵みにあずかります。今回の花は、先導を意味する蝋梅(ロウバイ)とします。(2022/3/11)

10、「我らの主、イエス・キリスト」を信ず

本文「我は……『我らの主、イエス・キリスト』を信ず」

 今回は、「使徒信条」の第二項、イエス・キリストを「我らの主」と告白する意味を記すこととします。普通に「主」という時、考えられるのは、主従関係、所有の関係でしょう。しかし、旧約聖書では、主なる神「ヤハウェ」を、ギリシャ語70人訳では「キュリオス」(主)と訳していました。新約聖書では、それを受けて、イエスを「主」(キュリオス)と語り、記すのです。

 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリント12:3)と語られる時の「主」は、明らかに主なる神「ヤハウェ」を意味しています。「イエスを主と呼ぶ」ことの第1は、イエスは旧約聖書の語る「主なる神ヤハウェである」という信仰の表明なのです。

 次に、使徒信条で、イエスを「我らの主」と告白する最も基本的な理由と根拠は、十字架の贖罪の事実にあります。聖書はこう記します。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(Ⅰペトロ1:18-19)。「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(Ⅰコリント6:19-20)。

 この聖書的表現を受け止めて、「この方が、金や銀ではなく、ご自身の尊い血によってわたしたちを罪と悪魔のすべての力から解放し、また買い取ってくださり、わたしたちの心も体もすべてを、ご自分のものとしてくださった」(ハイデルベルク信仰告白問34の答)と信じ、告白するのです。キリストの「血による贖い」を根拠にして、「わたしが、わたし自身のものではなく、イエス・キリストのものである」という、キリストの主権、キリストの所有権の告白です。

 復活のイエスが弟子たちの信仰を回復します。不信仰なトマスに、イエスは十字架の傷跡を示しながら「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけます。復活のイエスの顕現を目撃して、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と叫びます(ヨハネ福音書20:27-28)。これこそ、イエスを神・ヤハウェと信じる信仰と、イエスの主権性・所有者としての告白と言っていいでしょう。

 イエスを「主」と告白することは、信仰者には極めて大切なことです。他のどんな権威者であっても、「主である」ことを拒否する根拠なのです。ローマ皇帝であろうが、天皇であろうが、決して「我らの主」ではありません。「イエスを主と告白する」ことに、信仰者として生きる原点があります。臆病になってはなりません。贖罪信仰を明確にしましょう。今回の花は、ルピナスとします。(2022/3/18)

11、「主は聖霊によりてやどり、…」

本文「イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、…」

 「使徒信条」の第二項、イエス・キリストの生涯と御業とを告白する中心部へと入ります。イエス誕生についての信仰の表明です。「イエスの誕生」を、どう理解するか。普通に人間的に理解すると、夫ヨセフの子となるでしょう。男女の結合による子の誕生となります。しかし、聖書はこの理解を徹底的に排除して超自然的な誕生としています。その1つが「聖霊によりてやどり」で、2つが「処女マリアより生まれ」ということです。

 この2つは切り離せぬ1つの出来事ですが、ここでは「聖霊による宿り」に焦点を絞って解説します。イエス誕生の出来事を記すのはマタイ福音書1章18-25節です。夫となるべきヨセフに対して、天使が「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と告げます。「聖霊による身ごもり」の告知です。

 もう一個所は、ヨハネ福音書1章14節です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。イエス誕生は、「言が肉となる」出来事であったというのが、聖書が語りたいことです。イエス誕生の主体は、永遠から神と共にあり、神である言(ロゴス)です。普通の人間の誕生ではなく、神である言(ロゴス)が肉を採る、神が人となる出来事です。天が地に突入する出来事です。

 イエス誕生は、普通の人間の誕生ではなく、神の御子であるお方が人となる誕生です。そのため、イエスの誕生において、神の霊である聖霊が圧倒的な力を発揮します。ローマ・カトリック教会では、マリアの無原罪を語りますが、それはおかしなことです。マリアも原罪を負う人の子です。しかし、聖霊が圧倒的な力をもって彼女を覆い、彼女をどのような腐敗にも染まることなく清め、神の器とされ、「言が肉となって」、わたしたちの世界に宿られたのです。イエス誕生のすべてが聖霊の支配と護りのもとになされたのです。まさに、三位一体の神の御業です。

 普通の人間の男女の結合による子の出生は、罪人の子として原罪を負って生まれてきます。しかし、イエスは「罪と何のかかわりもない方」(Ⅱコリント5:21)、「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(Ⅰペトロ2:22)、「御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません」(Ⅰヨハネ3:5)と記されます。神の御子であるお方が、聖霊の圧倒的な働きの中で、処女マリアから「罪なき人」として誕生した、と聖書は語るのです。今回の花は白バラとします。(2022/3/25)

12、「主は、処女マリアより生まれ、…」

本文「イエス・キリストを信ず。主は、処女マリアより生まれ、…」

 「使徒信条」の第二項、イエス・キリストについての信仰の告白です。イエスの誕生が「処女(おとめ)マリア」からの誕生であると告白されています。イエス誕生が圧倒的な聖霊の聖化の活動であると共に、「処女(おとめ)マリアより生まれ」ということが、どういうことを語ろうとしているのか、ということです。

 世の人々は、「処女懐胎」が可能か、ということに興味を持ちます。しかし、聖書はそのようなところに関心はありません。全体が「超自然的誕生」なのです。「処女マリアより生まれ」とは、永遠の言(ロゴス)である神の御子が、マリアに宿り、マリアから「まことの人間性をお取りになった」という出来事なのです。神であるお方が、処女マリアに宿ることにより、マリアから人間としてのすべての血肉、人間的な霊魂も含めて「まことの人間性」を獲得されたということです。

 このマリアからの誕生によって、イエスは「ダビデのまことの子孫」となり、アブラハム以来の旧約伝統の中に生まれました。また「罪を別にして」、すべての点でわたしたち人間と同じ人間となりました。聖書は語ります。「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ書2:7)と記します。ここに僕となられた神の御子の「へりくだり」(謙卑)があります。

 なぜ、この出来事が起こらねばならなかったのでしょうか。それは「忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(ヘブライ書2:17)と記されています。イエスの誕生は「民の罪を償う(贖う)」という救済のためでした。このために、まことの神でありつつ、まことの人となられたのです。これが「御子のへりくだり(謙卑)」で、この神秘を教会は「二性一人格」と表現することになります。

 「罪なき人」となる意味が、ここにあります。宗教改革者カルヴァンは「彼(イエス)が、わたしたちの肉を採ることは必要だったのでしょうか」と問い、「極めて必要でした。神に対して人間によって犯された不従順は、同じ人間の本性において償われることが必要だったからです。それ以外の方法では、わたしたちのために神と人との和解を遂行する仲保者となることは出来ません」(ジュネーヴ教会信仰問答・問51)と応えます。人によって犯された罪は、人によって償われるべきです。しかし、どこにも償いをすることのできる罪なき人はいません。そのため、神はご自身の御子が人となるという救済の道を定めたのです。クリスマスは、この神の救いが形を採って動き始めた喜びの時なのです。今回の花は高潔な花テッセンとします。(2022/4/1)

13、「主は、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、…」

本文「イエス・キリストを信ず。主は、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、」

 「使徒信条」の第二項、イエス・キリストの生涯についての信仰の告白です。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と語られます。「ポンテオ・ピラト」とはローマ人の総督の名前です。彼は紀元26年から36年、ユダヤの総督に任命されて、この総督の治下でイエスは十字架刑で処刑されました。紀元32年とも33年とも言われています。

 たいへん短く切り詰められた文章の中に、なぜ、異教徒のローマ総督の名が特記されているのでしょうか。それは神の救済の歴史(救済史)と世俗の一般の歴史との接点を示すことにあります。神の救いの出来事が決して超歴史的、神話的な出来事、今日的に言えばバーチャル空間の出来事ではないということです。イエスの出来事は、この現実世界の中で行われたことです。イエス処刑のことは、ローマの公文書にも記されている歴史の出来事です。

 今日、時の表示は「紀元…年」という形で示されます。古代において、年代を支配者の治政何年に当たるかで表示しました。歴史家とも言われる福音書記者ルカは、イエス誕生の時の住民登録について「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」(ルカ福音書2:1-2)と記します。イエスの存在と生涯とは一般歴史の中に刻印されている出来事です。

 「苦しみを受け」と語られています。この言葉で、イエスの30数年の生涯が「苦難であった」ことを物語ろうとしています。「受難、受苦」は、十字架の出来事を指し示す言葉です。しかし、十字架処刑だけが「苦難・受難」と受け止められがちですが、イエスの生涯のすべてが十字架を目指した受難の歩みであることを示そうとしているのです。

 これは福音書の記述の仕方と同じです。福音書はイエスの人物伝と言えますが、普通の伝記の記述の仕方と異なります。4つの福音書とも、イエスの最後の1週間に三分の一以上の分量が割かれています。ここに、イエスの生涯の中心がある、焦点がある。この十字架を担ったイエスは、このような誕生と苦難の歩みをした人なのだという記述の仕方です。十字架の出来事に焦点を当てて、そこから生涯を記述し、十字架を担うことにその生涯の意味があると言う描き方です。今回の花は、白いアネモネとします。(2022/4/8)

14、「主は、十字架につけられ、…」

本文「イエス・キリストを信ず。主は、十字架につけられ、…」

 「使徒信条」の第二項、イエス・キリストの贖罪の中心点です。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」に続いて、直ちに「十字架につけられ」と十字架処刑が語られていきます。イエスの苦難としての生涯の頂点がここにあります。

 旧約時代ユダヤの処刑方法には、石打ち、火あぶり、首切りなどがあったようですが、主なものは「石打ち」でした。姦淫の女がイエスの前に捕らえられてきた時、人々は「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています」(ヨハネ福音書8:5)と言います。イエスが十字架につけられたため、十字架刑がユダヤの処刑方法のように考えられていますが、実は古代ローマの処刑方法でした。ローマ総督ピラトのもとで裁かれたため、十字架刑が執行されたわけです。

 では、十字架には意味はないのでしょうか。「木にかけられる」ことに重い意味があります。申命記21章23節に「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」と記され、それを受けてガラテヤ書3章13節に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」と記しています。イエスは、木の十字架にかけられて「神に呪われた者」となったのです。

 イエスが十字架において大声で叫んだ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)の意味がここにあります(マタイ福音書27:46)。イエスの十字架における死は、神からの見捨て、神の呪いの死を意味していたのです。神の呪いの実態は神からの見捨てでした。

 わたしたち人間は、神によって愛の交わりの中に造られたにもかかわらず、神を神として崇めず、逆に被造物を神として拝みます。神との交わりに生きるべきを、神から逃亡し、神から離れ、自己中心に生きました。このような生き方を「罪」と言い、この生き方こそ、神の真剣な怒りと呪いの対象なのです。罪を犯したすべての人に対して、神の怒り・神の呪いが覆い尽くしているのです。これを、パウロは「律法の呪い」と語っているのです。

 これに対して、イエスが罪なきお方、救い主として呪いの木である十字架にかかってくださったのです。イエスの十字架の死は、わたしたちの代理者、救い主・キリストの贖い、身代わりの罪の償いを意味しています。イエスはわたしたちのために「神に呪われた者」となり、神の裁きを極限まで耐え忍ばれたのです。今回の花は、白百合とします。(2022/4/15)

15、「主は、死にて葬られ、…」

本文「イエス・キリストを信ず。主は、死にて葬られ、…」

 「使徒信条」の第二項、イエス・キリストの死と葬りです。十字架処刑の後に「死と葬り」が一気に語られています。イエスの受難の頂点です。ここではキリスト教の救済の中心、贖罪の出来事が語られております。

 ハイデルベルク信仰問答は問40で「なぜ、キリストは『死』を苦しまなければならなかったのですか」と率直に問います。イエスの死を『』の中に入れて特別な意味を持つものとしています。イエスは「死んだ」というだけではなく、その死において、人間が受けねばならない精神と身体のすべての苦痛、苦悩、死の恐怖、絶望を現実に真実に味わったということです。

 答は「なぜなら、神の義と真実のゆえに、神の御子の死による以外には、わたしたちの罪を償うことができなかったからです」と記します。「神の義と真実」とは、何のことでしょう。神は人に「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2章16-17節)と命じました。これが「神の義と真実」の根拠です。人はこの神の言葉、神の戒めに違反しました。背神です。これが罪です。この背神の罪に対して、神が怒り、裁かれます。神は聖にして義なるお方です。神の義と真実が犯される時、その義と真実が貫かれ、全うされねばなりません。その裁きの結果、人は「必ず死ぬ」のです。

 しかし、神は、その神の義に基づく怒りと裁きを、人間に代わって、神の御子を人とならせ、人となったイエスによって罪の償い、贖いをさせているのです。これがイエスの十字架の「死」の意味です。イエスは、罪人の人間に代わって、神の怒りと裁きを受け止め、死の苦しみを十全に味わい、罪の償いをすべて果たしているのです。これを代償的贖罪と言います。

 「葬られ」と続きます。イエスは死んだ後、アリマタヤのヨセフの墓に葬られました。安息日が始まろうとしていたため、慌ただしくですが、「ユダヤ人の埋葬の習慣に従い」(ヨハネ福音書19:40)墓に葬られました。ハイデルベルク信仰問答は問41で「なぜ、この方は『葬られ』たのですか」と問い、答は「それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです」と記します。「葬り」は、イエスが本当に死んだことの確認です。イエスは葬られて、死者の列に加えられました。今回の花は、クリスマスローズとします。(2022/4/22)

16、「主は、陰府にくだり、…」

本文「イエス・キリストを信ず。主は、陰府にくだり、…」

 「使徒信条」の第二項、イエス・キリストの死と葬りの後に「陰府にくだり」と続きます。イエスの「へりくだり」(謙卑)の徹底、極致です。この事項は、今日の使徒信条の中には含まれていますが、最初期の使徒信条、古ローマ教会の洗礼信条の中には含まれていなかったようです。ニケア信条にも含まれません。

 「陰府」はラテン語「インフェルナ」ですが、これをどのように理解するかで論争があります。カトリック教会では伝統的に「古聖所」と訳し「場所」として理解します。Ⅰペトロ3章18-19節「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」。古聖所を「旧約時代の義人の霊魂がキリストの来臨と罪の贖いを待ちながら留まったところ」と理解し、この聖句を援用して、イエスは死んでから旧約の義人たちを解放したのだと解釈します。

 プロテスタント教会では、旧約の信徒、義人たちは、やがて来たるキリストによって義とされ、すでに神の国に迎えられていると理解し、「古聖所」などはないと主張します。しかし、陰府を場所的・空間的に理解するのは魅力的な理解でもあり、多くの異説が出てきています。罪人が天国に行く前に、この陰府に一時留まり、罪が次第に清められる煉獄説、イエスの陰府への宣教によって再び悔い改める機会が与えられるなどの説です。煉獄と贖宥の根拠となる思想です。

 このような空間的、場所的理解に対して、ハイデルベルク信仰問答は「イエスの苦難の徹底」として理解します。問44で「なぜ『陰府にくだり』と続くのですか」と問い、「それは、わたしが最も激しい試みの時にも、次のように確信するためです。すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで、ご自身もまたその魂において忍ばれてきた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みから、わたしを解放してくださったのだ、と」応えます。

 イエスの「陰府くだり」についての最も良い理解の仕方であると、わたしは受け止めています。イエスの「陰府くだり」を「わたし」に引き寄せて理解する実存的解釈です。イエスは、ゲッセマネにおいて、十字架の死において、言い難い不安、苦悩と苦痛の極限を受け止めておられます。これこそ陰府の深みです。わたしたちもまた、生涯の中で、この陰府の深みを味わうことがあります。「激しい試み」を受ける時、そこにイエスの歩まれた道を見出し、苦難に耐える力を得ていくのです。今回の花は、珍しいランの一種バンダとします。(2022/4/28)

17、「主は、三日目に死人のうちよりよみがえり、…」

本文「イエス・キリストを信ず。主は、三日目に死人のうちよりよみがえり、…」

 「使徒信条」の第二項、イエス・キリストの復活が物語られます。ここから、イエスが高く上げられる「高挙」が始まります。「三日目に」は、イエスの十字架の死が金曜日の夕3時頃で、土曜の安息日を挟んで、週の初めの日(日)の早朝の復活ということで、数えて三日目となります。「三」に特別な意味を見いだすことは出来ませんが、「短期間の後に」のようです。

 「死人のうちより」と語られます。重要な意味を持つ言葉です。イエスは、死んで墓に葬られ、死者の一人となり、死者の列に続くものとなりました。死者の列に連なるものとなったイエスの復活なのです。これが「死人のうちより」の意味です。このイエスの復活の後に、多くの死人の復活の列が続くのです。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Ⅰコリント15:20)。イエスの復活は死人の復活の「初穂」なのです。

 イエスは「よみがえり」ました。日本語「よみがえり」は、「蘇る、甦る」、さらに「黄泉から帰る」という意味の言葉です。蘇生、失っていた活力を取り戻すという意味が強い言葉です。イエスの場合は、文字通り死人からの復活です。「復活し」に訳し直すべきです。カトリック教会の新しい使徒信条翻訳も「死者のうちから復活し」と訳しています。

 イエスの復活において、2つのことを指摘しなければなりません。1つは、現実に弟子たちの目に見える形での復活でした。女性たちに現れ、使徒たち、多くの弟子たちに現れて目で見るところとなりました。使徒たちは、主の復活の証人なのです。しかし、肉の復活ではなく、朽ちることのない栄光の天に属する体への復活でした。「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」(Ⅰコリント15:44)。イエスの復活において、この出来事が起こっているのです。

 2つは、死に打ち勝った勝利であることです。パウロは「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(Ⅰコリント15:54-55)と記して、イエスの復活を死に対する決定的な勝利として語ります。最初の人アダムにおいて犯された罪の結果、すべての人が罪人となり、罪の支払いとしての死を経験します。「死」がすべてを覆います。

 しかし、イエスは事実、死人の中から復活し、死を打ち破り、死に勝利しました。イエスの復活によって、死は最早終わりではありません。復活による永遠のいのちが現れ出たのです。ここに、イエスを信じる者の確かな希望があるのです。今回の花は、コルチカムとします。(2022/5/6)

18、「主は、天にのぼり、…」

本文「イエス・キリストを信ず。主は、天にのぼり、…」

 「使徒信条」の第二項、イエス・キリストの昇天の告白です。聖書において「昇天」は、イエスの復活と聖霊降臨に挟まれた一続きの高挙の出来事として物語られています。

 復活したイエスは、40日にわたって弟子たちに現れた後、聖霊の降臨を約束し、弟子たちの見ている前で天に上げられました。「『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(使徒言行録1:8-9)。

 これが、イエスの「昇天」と言われている出来事です。「帰天」とも言われます。イエスが父なる神から託された救い主としての使命、贖いのみ業を完全になし終えての勝利の帰還です。弟子たちの目に見える形での「栄光の帰還」と言っていいでしょう。この地の世界から天の世界への場所の移動です。

 「天」とは、いわゆる宇宙のことではありません。月や星の世界のことでもありません。それらはいずれも神の造られた被造世界で、目に見え、人によって確認できる世界です。「天」は、永遠の父なる神のいますところ、神の世界です。神の独り子として、父なる神と共にいましたところへの勝利の帰還をしたのです。そのため、栄光の「雲に包まれて」人の目から見えなくなったのです。

 わたしたちは今、「天」について知るところは、そう多くありませんが、わたしたちの帰るべきところです。聖書で「天の国」、「神の国」と言われ、神の恵みが完全に支配する世界です。そこに、わたしたちも迎え入れられるのです。イエスは弟子たちに言いました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ福音書14:1-3)。

 わたしたちが、地上の生を終える時、イエスはわたしたちを天に迎え入れてくださいます。主と共に、永遠の祝福にあずかるところです。ここに、イエスを信じる者の確かな希望があるのです。今回の花はチューリップとします。(2022/5/13)

19、「主は、全能の父なる神の右に座したまえり、…」

本文「イエス・キリストを信ず。主は、全能の父なる神の右に座したまえり、…」

 「使徒信条」の第二項、イエス・キリストの昇天に続く父なる神の右の座への着座の告白です。「神の右に座す」ことは、イエスの証言に基づいています。イエスは大祭司の中庭で尋問されました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と。それに対し、イエスは「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ福音書14:62)と応え、天的なメシアであることを証ししました。

 このイエス自身の言葉を受け止めて、ヘブライ書が明確に「わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き」(ヘブライ書8:1)、「キリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、…」(ヘブライ書10:12)と記します。

 「父なる神の右」とは場所的な概念ではありません。宗教改革者カルヴァンは「イエスが神の代理人である」意味だとしています。終末の完成の時まで、神の権能がキリストに委ねられ、その権能の特有な表現が「神の右」なのです。「最後の敵として、死が滅ぼされます。『神は、すべてをその足の下に服従させた』からです。……すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」(Ⅰコリント15:26-28)。キリストの統治の表現なのです。

 復活のイエスは、弟子たちをガリラヤに集めて大宣教命令を語られます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。……」(マタイ福音書28:18-20)。十字架の贖いを成就したイエスは、今、天にのぼり、父なる神の右に座して、万物を支配する権能が授けられているのです。

 今、イエス・キリストはどこにおられるますか。天にいます。すると、イエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28:20)と約束したことは、どうなるのでしょう。ここに聖霊の働きがあるのです。ハイデルベルク信仰問答はこう語ります。「キリストは、真の人間であり、真の神であられます。この方は、その人間としてのご性質においては、今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊においては、片時もわたしたちから離れてはおられないのです」(問47の答)。聖霊こそ、キリストの臨在の証しなのです。今回の花は高貴なダリアとします。(2022/5/20)

20、「主は、かしこより来たりて、…」

本文「イエス・キリストを信ず。主は、かしこより来たりて、…」

 「使徒信条」の第二項、イエス・キリストの「再臨」の信仰が告白されます。イエスの「来臨」は2回あります。第1回は、処女マリアからの誕生です。人目につかず密やかに「人となり」ました。第2回が、「かしこより来たりて」と語られる「再臨」です。ここまでのイエスの動きはすべて過去形ですが、再臨「来たる」は未来形です。

 「かしこより」とは、「父なる神の右から」ということで、「栄光の主」としての来臨です。イエスによって「人の子の栄光」として明らかに語られます。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」(マタイ福音書16:27)、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(マタイ福音書24:30)。イエスの昇天を見上げる弟子たちに、天使が「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1:11)と語られています。

 イエス自身が再臨を終末として語ります。最後の晩餐で「わたしの来るときまで」(ヨハネ福音書21:21-23)と繰り返し語ります。それを受けて、教会は聖餐制定の言葉の中で「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」(Ⅰコリント書11:26)と応答します。黙示録において、天上のイエスが語ります。「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る』」と。教会はこれを受けて「アーメン、主イエスよ、来てください」と応えます(ヨハネ黙示録22:20)。イエスの再臨は啓示と応答の関係の中で受け止められています。

 「再臨」は、教会とその信徒の信仰的姿勢を緊張をもって整える力です。教会は、イエスの再臨という終末を望み見て歩む共同体であることです。緊張を産むのは、再臨がいつなのか判らないことです。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタイ福音書24:36)。

 イエスの再臨を「終末」として理解します。終末は決して破滅ではなく、救済史が完了する時です。信仰者は、この地において多くの労苦の中を歩みます。その中で、完成の時のあることを覚えて、心を上に向けて神の国の民として歩みます。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(Ⅰコリント書15:58)。今回の花はカモミールとします。(2022/5/27)

21、「主は、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」

本文「イエス・キリストを信ず。主は、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」

 「使徒信条」の第二項、イエス・キリストの「再臨」の目的、「最後の審判」が告白されています。日本語では「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と読点「、」で分割されていますが、ラテン語原文では区切りなしの1つ文章です。正確には「生ける者と死ねる者とを審くためにかしこより来たりたもう」です。

 「かしこより」とは、天から、父なる神の右から、栄光のうちに最後の審判のための来臨です。「審く」は日本語としては「裁く」でしょう。しかし、これは裁判と言うよりも「審判」なのです。事柄を審判して「右」、「左」の判断をすることで、英語では「ジャッジ」と訳されます。審判者は再臨のイエス自身です。イエスは「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(マタイ福音書25:31-33)と語っているとおりです。

 この審判は「生ける者も死ねる者も」です。この言葉が意味していることは、「すべての者」です。イエス再臨の時、すでに死者となっている者だけでなく、生きて再臨を迎えた者もです。さらに信じている者だけでなく、信じていない者たちもということです。「信ずる者」にとって死が終わりでないように、「信じない者」にも死は終わりではありません。「信じない者たち」が、どのようにして最後の審判に呼び出されるのかは、聖書は記していません。知る必要のないことです。

 最後の審判は、キリストを信じた者にとっては恐怖の時ではなく、キリストの故に義とされたことが公に認められる時なのです。今は信仰において見ずして信じていることがはっきりと確認される時なのです。「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(Ⅰペトロ1:4)。永遠のいのちの継承者として神の国の民とされる時です。

 キリスト教は、イエス・キリストの再臨において、創造に始まる歴史の終末と完成とを見る信仰です。この地に生きる限り、信仰者として生きることは苦しみの中で生きることです。どの時代、どのような環境の中にあっても、真実に信仰に生きる者にとって、この地での生活は労苦の多い「各地に離散して仮住まいをしている」に過ぎません。そのすべての悲しみが癒やされ、労苦が報われ、慰めを受ける時が、再臨の時です。キリスト者は、この再臨を待ち望んで生きるのです。今回の花は優雅な胡蝶蘭とします。(2022/6/2)

22、「我は、聖霊を信ず」

本文「我は聖霊を信ず。」

 今回から「使徒信条」の第三項に移ります。第三項は、三位一体の「聖霊」についての告白です。聖霊は、本来、広汎な働きをしています。天地創造の最初から「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:1-2)と記されています。聖霊は世界を包む神の霊です。

 しかし、使徒信条では、聖霊のこの面での働きについては一切語られません。聖霊についての信仰が、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、…」を一息で救済論的な働きに絞られての告白となっています。そのために大事なことは、聖霊についての告白は、なによりも聖霊の位格(人格)について語られねばならないのです。

 聖霊は、御父と御子と共に、第三位格の神であることです。このことをはっきりさせない聖霊の信仰は、万物の内に内在する精霊信仰のようなものになってしまいます。古代信条の1つ「ニケア・コンスタンティノポリス信条」(通常「ニケア信条」)では、「我らは聖霊を信ず」に続いて「聖霊は、主にして生命を与える者、父(と子と)から出て、父と子と共に礼拝され、崇められ、また預言者を通して語りたまえり」と告白しています。聖霊は、御父、御子と共に同等・同質の神、三位一体の第三位格の神であるということを確認しておかねばなりません。

 聖書は、聖霊の「御父からの発出」(ヨハネ福音書15:26「父のもとから出る真理の霊」)と共に、「御子を通しての発出」(ヨハネ福音書14:26「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」、ヨハネ福音書20:22「聖霊を受けなさい」)の2つの証言を記します。それを受けて「父と子とから」と、西方教会は理解して来ました。このことは救いの適用を考える時に大事なこととなります。

 使徒信条の「聖霊」の働きは、教会を産み、教会を通して選びの民を救済する働きに絞られます。ニケア信条での「主にして生命を与える者」、「預言者を通して語りたもう」という聖霊の働きです。使徒言行録2章に、ペンテコステ(五旬祭)における聖霊の圧倒的な降臨の出来事が記されています。この出来事によって、神の言葉が語られることによる新約の教会が形成されました。

 これこそ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28:20)という「キリスト共在の恵み」を可能とさせる道でした。福音が語られるところに、キリストの霊である聖霊が共にいて、語る者を励まし導くと共に、聞く者に内住して心を動かし、悔い改めと信仰へと導いてくださるのです。今回の花は藤とします。(2022/6/10)

23、「聖なる公同の教会、を信ず」

本文「我は、聖なる公同の教会、を信ず」

 「使徒信条」の第三項は、聖霊の救済的働きに絞っての告白となります。その働きの最初が「聖なる公同の教会」です。聖霊は「教会を産み出す神の霊」と言っていいでしょう。使徒言行録2章1-3節に、エルサレム神殿の家中に響き渡る「激しい風が吹いてくるような音」と「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」という不思議な出来事が起こったことが記されています。これがペンテコステ(五旬祭)の出来事です。

 これによって「新約の教会」が成立し、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。新約の教会の特色は、神の言葉を全世界に向かって語る、福音を宣教することです。聖霊は、語られる言葉と共に働いて神を信じる者を起こしてくださいます。御言葉と共に働く聖霊です。

 この教会が「聖なる(教会)」と言われます。キリスト教会は、歴史の中で多くの失敗と罪を犯してきましたし、今も失敗を犯し続けています。1つ1つ言挙げしなくてもよいくらいに事実です。では、なぜ、「聖なる」と言うのでしょうか。

 ひとえに教会の頭(かしら)であるキリストの故です。罪人の集まりに過ぎない教会ですが、キリストがその血をもって贖い取った信徒の群れであり、キリストが「言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるため」(エフェソ書5:26-27)です。

 さらに「公同の教会」と言われます。「公同」と訳された言葉は「カソリカ」(カトリック)で、普遍的、一般的、世界的という意味です。ローマ・カトリック教会は、カトリック「公同」であることを自称しているに過ぎません。ローマ教会だけでなく、ギリシャ正教会もプロテスタント諸教会も「カトリック」なのです。

  いずれの教会も地域的限定を持ちます。ではなぜ、「普遍的」と言うのでしょうか。それは信仰内容の故です。使徒信条を始め、ニケア信条、カルケドン信条、アタナシュウス信条などの共通の古代信条を告白することによって、地域的限定を持ちつつも、地域性を越えて、教派的限定を超えて、世界の教会と一つに結ばれるのです。

  「聖なる」も「公同の」も、今日、教会の現実とはなっていません。わたしたちの目には隠されているままです。「聖性」も「公同性」も終末において完成することを信じる告白なのです。そのゆえに、「我、信ず」という信仰の事柄なのです。今回の花は、アジサイとします。(2022/6/17)

24、「聖徒の交わり、を信ず」

本文「我は、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、を信ず」

 「使徒信条」の第三項は、聖霊の救済的働きの告白で、その最初が「聖なる公同の教会」の誕生です。この「聖徒の交わり」は、先行する「公同の教会」の説明句と言っていいでしょう。(旧)日本基督教会では「聖なる公同の教会、(即ち)聖徒の交わり」と、「即ち」を挿入して朗唱していました。

 ローマ・カトリック教会では、長い間、「聖徒の交わり」を「聖徒の通功」と訳して、諸聖人の功績が教会に積み重なって教会の富となり、功績のない一般の人たちに分与、融通されると教えてきました。ここから、贖宥(免罪符)などの異端的とも言える考え方が生まれてきました。しかし、現在のローマ・カトリック教会では「聖徒の交わり」と訳しています。

 教会とは何でしょうか。「信徒の集い」です。イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18:20)と言いました。これが最もプリミティブな教会の姿です。まさに「聖徒の交わり」としての教会なのです。

 「聖徒」とは、キリストによって覆われている者たちのことです。信仰者もこの地上にあってはなお罪人です。しかし、キリストを信じる信仰によってキリストに接ぎ木され、キリストの恵みによって覆われるのです。「キリストを着る」のです。使徒信条で語られている「聖徒」とは、現在、地上にある信徒だけではなく、過去、現在、さらに世の終わりに至るまでのすべての信徒が意味されています。天上に召された者たち、この地にある者たち、やがて生まれる者たちも含まれます。旧約の信徒も新約の教会の信徒もすべてです。

 「交わり」とは、ギリシャ語「コイノニア」です。教会の交わりは、神との交わり、祈りの交わりです。互いに祈り合う、とりなしする交わりです。礼拝共同体です。礼拝は、共に集い神に祈りを捧げることです。この地にあって、天上にあって、共に集い神に賛美を献げるのです。二人、三人、キリストの御名によって集うところにキリストご自身が臨在して、キリストと交わり、互いに祈り合う群れです。

 「コイノニア」の意味は「一つのものに共にあずかる」です。聖餐が意味されています。神を礼拝する共同体の中にキリストが臨在しておられ、キリストが聖餐のパンとぶどう酒においてご自身を分かち与えてくださいます。礼拝に集う者たちは、このパンとぶどう酒にあずかることによって、活けるキリストに共にあずかります。これが「教会」なのです。今回の花は、清潔な白ユリとします。(2022/6/24)

25、「罪の赦し、を信ず」

本文「我は、聖霊を信ず。…罪の赦し、を信ず」

 「使徒信条」の第三項、聖霊の救済的働きの中で「罪の赦し」が告白されます。キリストによる贖いの恵みの最も中心的な事柄として「罪の赦し」が取り上げられます。聖霊降臨の後に、ペトロがキリスト教会最初の説教をし、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録2:38)と勧めます。

 ペトロの説教で、悔い改め(信仰)、洗礼、罪の赦し、が一続きに語られています。悔い改めは、信仰の裏表と言っていいでしょう。罪を悔い改めて離れ、神とキリストを信じるのです。その信仰によって義と認められ、罪が赦されます。この悔い改めと信仰が公に教会の洗礼において確認されるのです。

 義認の福音とは言われず、「罪の赦しの福音」です。福音の中心は「罪の赦し」にあります。マタイ福音書18章で、イエスは語ります。「ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」。

 返済できない負債を、主人が「憐れに思う」という一方的な赦しです。この赦しの根拠が十字架の贖いです。イエス・キリストが神の小羊として罪人のすべての罪を担い、十字架において血を流し罪の贖いを全うしてくださいました。

 ハイデルベルク信仰問答・問56「『罪の赦し』について、あなたは何を信じていますか」と問い、「神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらず、それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して裁きにあうことのないようにしてくださる、ということです」と答えます。

 「赦し」は、神がわたしの罪を覚えない、思い出さない、心に留めないことです。「わたし(神)は、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」(イザヤ書43:25)。さらに積極的に「キリストの義をわたしに与えて」くださいます。これが「義認」です。キリストの獲得された義を付け替えて返済済みとしてくださったのです。わたしたちは生涯、赦しの恵みの中で生きるのです。今回の花は慈しみを意味するアリウムとします。(2022/7/1)