1、「使徒信条」の解説を始めます。

    2022年になりました。これからしばらく時間をかけて、「使徒信条」の解説を始めようと願っています。この「オープンチャーチ牧場」には、「初歩の聖書と教理の解説」のページがあり、それと重複するような部分もありますが、「使徒信条」に従い、今日的な課題を意識しつつ、キリスト教信仰についてお話ししようと願っています。

 「使徒信条」は、教会に行き始めた人であるなら、恐らく皆、知っているでしょう。プロテスタント教会のほとんどの教会の礼拝で朗唱されていると思います。ローマ・カトリック教会と一部のプロテスタント教会では、代わって「ニケア信条」が朗唱されています。

 「使徒信条」は、最も古く、最も広く受け入れられている最も基本的な信条、信仰の告白と言われています。「使徒信条」と言う呼び方は、使徒に直接起源すると言うことから来ています。ペトロはこう言った、アンデレはこう言った、ヨハネはこう言ったと、12使徒が一人ひとり語った条項をまとめて出来上がったと、言われて来ました。しかし、これは完全な伝説で歴史的には正しくありません。

 今日の使徒信条の原型となるものは、3,4世紀の古ローマ教会の洗礼信条に遡ると言われています。古代、それぞれ各地の教会で、未信者に洗礼を授ける際に「信ずべき事柄」を教え、「我、……信ず」と信仰を言い表して洗礼を授けていました。それら多くあった洗礼信条の中で、古ローマ教会の洗礼信条が最もよく整っていたのでしょう。これが核となって今日の使徒信条が形成されたようです。

 実は、古代キリスト教会の「信条」と呼ばれるもののほとんどは、教会の会議において採択されたものです。ローマ帝国による迫害の時が過ぎると、教会は神学的な論争の時代に入ります。ユダヤ教の唯一神信仰に対して、イエスをどのように位置づけて理解するのか。ギリシャ哲学の世界からは神秘思想が入り込みます。その論争の中で、新約聖書が確定し、正統キリスト教信仰とは何かが議論されました。論争の解決のため多くの教会会議が開かれ、「信条」という形で教会的な一致が形成されていきました。紀元4,5世紀です。このため、会議で確定した信条は「我らは、……信ず」と、教会共同体の告白という形

になっています。

 それに対し、使徒信条は「我……信ず」と、個人的に信仰を告白して教会共同体へ加入する形になっています。これが洗礼信条である使徒信条の特色です。特別な教会会議によらないで、公同教会が使徒の初代教会から受け継いで自然に成立した基本信条です。その意味で「使徒信条」という表現は正しいと言えましょう。今回の花は、白ツツジです。(2022/1/7)

2、「信仰」を告白すること

 「使徒信条」の解説を始める前に、キリスト教では、なぜ、自分の「信仰」を告白するのか、自分の信じている事柄を表明することが求められるのか、についてお話ししなければなりません。

 日本では、自分の信仰を語らねばならないことが、よく分からないようです。「なぜ、自分の内心のことを言う必要があるのか」という言葉を聞くことが、よくあります。日本人の生得的な考え方と言っていいでしょう。「無宗教」と言って恥とも感じないようです。日本人は多重信仰であるだけでなく、自分の宗教について明確に語らないのです。神道では「教義のようなものはない」と言い、仏教でも信徒が明確に「これを信じる」と言うことはないようです。

 神社仏閣に参詣して、いろいろな願い事(鎮護国家、家内安全、受験合格、病気快癒、……)をつぶやくだけです。神々の存在、仏や観音の存在を、「感じる、想う」というだけで済ましています。内心の感じで済まし、言葉で表明しません。信じる対象については問わないのです。

 キリスト教信仰は、唯一の生ける神を信じる信仰です。信仰の対象は、生ける人格を持つ神です。あえて人間のレベルで例えて言えば、愛する人を目の前にして、「わたしはあなたの存在を認め、あなたを愛していますよ」と、愛を語り、告白することと同じなのです。信仰を持つとは、神との一対一の人格的な関係に入ることなのです。「我、……信ず」と言って、神との人格的な交わりの中に入るのです。

 また、キリスト教信仰は、信仰の基本を明確に理解し、保持し、伝達する信仰です。「感じ、想う」という不明確、不安定なものではなく、しっかり「知解し」、これを保持、伝達することを求める信仰なのです。洗礼の根拠としての聖書個所で「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(マタイ福音書28:19-20)とあります。

 洗礼は、「教えること」を前提にしています。使徒以来、使徒的福音の宣べ伝えには一定の枠があります。「教え」、「教えにかなった信頼すべき言葉」、「健全な言葉」、「教えられた伝承」という言葉が新約聖書自体の中で記されています。使徒的伝承の規範として伝え続けられてきた信仰内容が、「洗礼信条」としてまとめられたと言っていいでしょう。今回の花は、寒さの中で咲いている水仙です。(2022/1/14)

3、「使徒信条」の本文について

 これから「使徒信条」の解説を始めてまいります。先ず、「使徒信条」の日本語訳本文について記しましょう。

 「  我は 天地の造り主、全能の父なる神を 信ず

    我は その独り子、我らの主、イエス・キリストを 信ず

       主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、

       ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

       十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、

       三日目に死人のうちよりよみがえり、

       天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり

       かしこより来たりて、

       生ける者と死ねる者とを審きたまわん

    我は 聖霊を 信ず

       聖なる公同の教会、聖徒の交わり、

       罪の赦し、

       身体のよみがえり、

       永遠の生命を 信ず    アーメン         」

 今日、「使徒信条」として多くの教会で用いられている日本語本文です。元はラテン語本文(ギリシャ語本文もあり)を翻訳したものです。この日本語翻訳は文語です。この日本語の翻訳本文は、日本キリスト教団出版局の「讃美歌」(1955年)と「讃美歌21」とに掲載されているものです。しかし、だれの翻訳なのか、いつ頃の翻訳であるのか、不明です。

 使徒信条の翻訳は多くの人がしています。古くはヘボン博士による元治元年(1864年)出版の三要文(主の祈り、使徒信経、十戒)に遡りますが、その後日本基督一致教会時代の「基督教礼拝式」文集の中に、ごく古い形の「使徒信経」の翻訳文が残されています。その改訂を繰り返して、今日の「讃美歌21」所載のものになっているのでしょう。

 今なお、多くのプロテスタント諸教会が、文語の使徒信条を朗唱しているのが気にかかります。聖書は口語での翻訳を更新しています。しかし、使徒信条を口語化する気運は見出されません。むしろ、ローマ・カトリック教会がしっかり口語化をしています。カトリック教会は2004年に口語訳の使徒信条を認可し、それまでの文語訳「使徒信経」は公用として用いないこととしています。(2022/1/21)