今回は「ペンテコステ」(聖霊降臨日)をだいぶ過ぎてしまいましたが、聖霊の働きについて幾らかのことを記そうと思っています。
「ペンテコステ」は大切なキリスト教の記念日です。主イエスが地上におられた時に予告した通り、弟子たちの上に聖霊が降って新約の教会としてキリスト教会が出発した大切な時です。聖霊こそ、教会を生み出し、教会を支え導く三位一体の第三位格の神です。また、聖霊はキリストの霊として個人の心中に深く働き、信仰を起こし、救いを成就し、その働きをもって完成へと導いてくださいます。聖霊こそ、代々の教会と信徒とを導き守る、今働く神の力です。
しかし今日、「聖霊」についての理解で、教会の中に幾らかの困惑と騒動が起こっています。異様に高揚した熱気に満ちた集会がなされる中で、「異言」と言われる意味不明の言葉が語られたり、特別な「癒し」ということが行われたりしているようです。このいう集会を経験した人たちが、静かな雰囲気の教会の礼拝に出席した場合、物足りなく感じ、この教会は聖霊に満たされていないと言ってしまうのです。
実は、「異言」や「癒し」は近年になって起こったことではなく、古代教会の時代からあった現象です。古代教会では、これらの人たちを「異端」としてきました。しかし、わたしは異端とまで語る必要はないと考えています。聖霊の働きは人の思いや経験則を超えて働きます。わたし自身は、異言を語り、特別な癒やしを行う能力を持ちませんが、この人たちを異端視する必要はないと思っています。
互いに理解し合うことが必要だと思っています。熱気に満ち高揚した雰囲気がなければ「聖霊に満たされていない」などと語ってはなりません。聖霊は静かに人の心に語りかけ、人を密やかに新しく造り替えるお方です。聖霊は、御言葉と共に働き、御言葉を用いて働きます。神の言葉が語られるところでは、神の霊である聖霊が臨在し働いていることを確信して参りましょう。
わたしが心配することは、聖霊の特異な働きを熱く語る人たちの中に、「愛国」を強調し、イスラエルの「シオニズム」を支持する傾向が見られることです。それは、やがて教会を根底から突き崩してしまいます。「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソ4:30)と記されているとおりです。今回の花はブラシの木とします。(2025/6/26)
まもなく8月15日の「敗戦記念日」が参ります。ここでは80年ほど前までの戦前、戦時中の恥多きキリスト教会の姿を簡単に記そうと思っています。
戦前のキリスト教会は、例外は幾分ありますが、基本的には「キリスト教会」として国家からの独立性、自律性を見失っていました。教会は、本来、神の国の出張所と言っていいでしょう。教会は神のものであり、神の主権の下にあります。ところが、国家の一翼を担い、国家の協力機関となっていたのです。
昭和10年代から、国家は戦争体制造りにのめり込んでいました。すべての資源を政府がコントロールし戦争協力できるようにしていきました。昭和16年6月、30有余のプロテスタント・キリスト教諸教派を1つにまとめて「日本基督教団」として合同しました。それによって、天皇制の下に天皇崇拝のキリスト教、皇道的キリスト教というものになってしまいました。
この教団合同から各教会の礼拝も様変わりしました。唯一の神、唯一の救い主を礼拝する礼拝の前に、「国民儀礼」として、全員起立して、皇居の方角に向かって拝礼(遙拝)をし、君が代を歌い、皇軍将兵のために黙祷を捧げます。それから讃美歌を歌って礼拝を始めたのです。神礼拝の前に、天皇礼拝をしていたのです。
教会の集会・礼拝などに制服・私服の警察官が臨席することが多くなりました。大教会、有名な牧師、批判的言動の多い牧師の教会には、治安維持法を管轄する特高警察官が見回りに来て、説教をチェックし、「中止」を命じることもありました。
牧師の礼拝説教も変わってきました。古事記・日本書紀などを踏まえた神道的キリスト教の説教、時代風潮を踏まえた忠君愛国の説教、聖書を絡ませた兵士を励ます時局的な説教が多くなりました。せいぜい良心的なものは、本来語られるべきメッセージを除いた毒にも薬にもならない聖書のお話でした。聖書の語る平和、自由、民主主義、平等、隣人愛、博愛などの社会性を持つメッセージはタブーでした。
教会の公的な文書の言葉、祈りの言葉の中に、聖戦完遂、忠君愛国、皇運扶翼、尽忠報国、八紘一宇、敵撃滅、皇国勝利などの言葉が数多く見いだされ、一体これがキリスト教の文書の言葉なのかと目を疑う事態でした。これらは表面に現れた事柄ですが、実際はもっと惨めにキリスト教の本筋から離れてしまっていたのです。今回の花は蝋梅とします。(2025/8/8)