61、クリスマスの本筋と周辺

 12月に入るとあちこちで「クリスマス……」という企画に出会います。クリスマスセール、クリスマスコンサート、クリスマスディナー等々です。キリスト教の土着化と思えば悪い気はしませんが、「どうも違うなあー」という違和感があります。

 クリスマスがクリスマスとして受け止められていない。ここでは、クリスマスの基本とその周辺についてはっきりさせたいと思っています。クリスマスの基本・本筋は、Christ-mas、キリスト礼拝なのです。処女マリアから、神の御子が救い主キリストとして人となって生まれた出来事を喜び祝う時です。「主の主にいませど、マリアより生まれ、馬ぶねの中にうぶごえをあげて、そのからだ、与えたもう、罪人のために」(讃美歌21/255)と歌います。クリスマスの本筋はキリスト降誕の一点にあります。この出来事を喜び祝うのがクリスマス・キリスト礼拝の本筋です。

 わたしが教会に行き始めた頃、クリスマス行事の中で、サンタさんが登場することはほとんどありません。タブーに近かった。しかし今、わたしはクリスマスにサンタさんが登場しても良いのではないかと考えています。クリスマスの傍流、クリスマスの生み出したサイドメニューと考えてもいいのではないでしょうか。

 サンタさんは実在の人物です。赤い服を着て白いひげを生やしトナカイの橇に乗ってクリスマスの前夜にプレゼントを配って回るというのは、ほとんどが空想の産物です。紀元4世紀の頃、小アジアの教会にニコラウスという司教がおり、この人が冬の夜、貧しい人たちにお金や食べ物を配って歩いたということが基盤になっています。赤い服は当時の司教の服装でした。

 彼の死去した日が12月6日で「聖ニコラウスの日」とされ、貧しい人たちにプレゼントを贈る日となり、やがてクリスマスと合体したようです。クリスマスに豪華な食事をしたり、豪華な品物をプレゼントするという華やかさに心を奪われることは、本来のクリスマスから遠ざかる道です。神の御子がその身と生涯を罪人のために捧げられました。このキリストの奉仕をわたしたちも受け止めるところで、クリスマスは新しい意味を加えます。貧しい隣人に仕える道です。ここにニコラウスもいるのです。「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返す」(マリアの賛歌)時です。今回の花は鶏頭とします。(2024/12/20)


62、「ことば」の宗教としてのキリスト教

 皆様が、教会の礼拝という集会に行くと必ず「説教」という時間があります。牧師などによって聖書からいろいろなことが語られます。他の宗教にも説教と似た講話などが行われる時もありますが、そう多くはありません。読経や祝詞(のりと)だけで済んでしまいます。礼拝の中で説教は数10分から小一時間あり、礼拝のメインと言ってもいいでしょう。何故、こういう説教があるのでしょうか。

 キリスト教は「啓示宗教」と言われます。「啓示」と訳される英語・Revelationは、暴露、素っ破抜き、漏らすなどの意味をも持っています。聖書は、実は神の想いの暴露、漏洩と言っていいものです。神ご自身が胸の内を暴露しているのです。神が人に伝えたい想いがある。その神の想いを伝えるのが「説教」なのです。

 新約聖書・ヨハネ福音書の冒頭に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記され、さらに「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されています。この個所をかいつまんで言います。神ははじめから「ことば」を持つ神であること、その「ことば」が肉体をまとってこの世界に来た。これがイエスというお方だと、ヨハネ福音書は語るのです。

 この「ことば」は、神の意志の伝達の手段であると共に、伝達の内容でもあるのです。神はイエスというお方において御自分の内なる想いを暴露し、表明しているのです。神がわたしたちを愛する神であり、わたしたちを愛してイエスによって救いの御業を完成し、神の救いにあずかるようにと招いておられるのです。これが、神の内なる想いの暴露なのです。

 キリスト教会の礼拝での「説教」は、その神のことばの働きの継続だと言っていいでしょう。「ことば」は、想いや意志を伝える手段です。相手にコミュニケートしなければなりません。伝わらねば何の意味もありません。しかも、意味が通じるだけでは不十分です。相手の心や感情に対して深い感動を呼び起こし、具体的に応答が起こるところで、本当に伝わった、コミュニケートしたと言えるのです。皆さまが教会に行って「説教」を聞く時、神の内なる想いの伝達として「ことば」を聴いてくださるようにと願っています。今回の花はパンジーとします。(2025/1/10)