12月に入るとあちこちで「クリスマス……」という企画に出会います。クリスマスセール、クリスマスコンサート、クリスマスディナー等々です。キリスト教の土着化と思えば悪い気はしませんが、「どうも違うなあー」という違和感があります。
クリスマスがクリスマスとして受け止められていない。ここでは、クリスマスの基本とその周辺についてはっきりさせたいと思っています。クリスマスの基本・本筋は、Christ-mas、キリスト礼拝なのです。処女マリアから、神の御子が救い主キリストとして人となって生まれた出来事を喜び祝う時です。「主の主にいませど、マリアより生まれ、馬ぶねの中にうぶごえをあげて、そのからだ、与えたもう、罪人のために」(讃美歌21/255)と歌います。クリスマスの本筋はキリスト降誕の一点にあります。この出来事を喜び祝うのがクリスマス・キリスト礼拝の本筋です。
わたしが教会に行き始めた頃、クリスマス行事の中で、サンタさんが登場することはほとんどありません。タブーに近かった。しかし今、わたしはクリスマスにサンタさんが登場しても良いのではないかと考えています。クリスマスの傍流、クリスマスの生み出したサイドメニューと考えてもいいのではないでしょうか。
サンタさんは実在の人物です。赤い服を着て白いひげを生やしトナカイの橇に乗ってクリスマスの前夜にプレゼントを配って回るというのは、ほとんどが空想の産物です。紀元4世紀の頃、小アジアの教会にニコラウスという司教がおり、この人が冬の夜、貧しい人たちにお金や食べ物を配って歩いたということが基盤になっています。赤い服は当時の司教の服装でした。
彼の死去した日が12月6日で「聖ニコラウスの日」とされ、貧しい人たちにプレゼントを贈る日となり、やがてクリスマスと合体したようです。クリスマスに豪華な食事をしたり、豪華な品物をプレゼントするという華やかさに心を奪われることは、本来のクリスマスから遠ざかる道です。神の御子がその身と生涯を罪人のために捧げられました。このキリストの奉仕をわたしたちも受け止めるところで、クリスマスは新しい意味を加えます。貧しい隣人に仕える道です。ここにニコラウスもいるのです。「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返す」(マリアの賛歌)時です。今回の花は鶏頭とします。(2024/12/20)
皆様が、教会の礼拝という集会に行くと必ず「説教」という時間があります。牧師などによって聖書からいろいろなことが語られます。他の宗教にも説教と似た講話などが行われる時もありますが、そう多くはありません。読経や祝詞(のりと)だけで済んでしまいます。礼拝の中で説教は数10分から小一時間あり、礼拝のメインと言ってもいいでしょう。何故、こういう説教があるのでしょうか。
キリスト教は「啓示宗教」と言われます。「啓示」と訳される英語・Revelationは、暴露、素っ破抜き、漏らすなどの意味をも持っています。聖書は、実は神の想いの暴露、漏洩と言っていいものです。神ご自身が胸の内を暴露しているのです。神が人に伝えたい想いがある。その神の想いを伝えるのが「説教」なのです。
新約聖書・ヨハネ福音書の冒頭に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記され、さらに「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されています。この個所をかいつまんで言います。神ははじめから「ことば」を持つ神であること、その「ことば」が肉体をまとってこの世界に来た。これがイエスというお方だと、ヨハネ福音書は語るのです。
この「ことば」は、神の意志の伝達の手段であると共に、伝達の内容でもあるのです。神はイエスというお方において御自分の内なる想いを暴露し、表明しているのです。神がわたしたちを愛する神であり、わたしたちを愛してイエスによって救いの御業を完成し、神の救いにあずかるようにと招いておられるのです。これが、神の内なる想いの暴露なのです。
キリスト教会の礼拝での「説教」は、その神のことばの働きの継続だと言っていいでしょう。「ことば」は、想いや意志を伝える手段です。相手にコミュニケートしなければなりません。伝わらねば何の意味もありません。しかも、意味が通じるだけでは不十分です。相手の心や感情に対して深い感動を呼び起こし、具体的に応答が起こるところで、本当に伝わった、コミュニケートしたと言えるのです。皆さまが教会に行って「説教」を聞く時、神の内なる想いの伝達として「ことば」を聴いてくださるようにと願っています。今回の花はパンジーとします。(2025/1/10)
キリスト教信仰を「行いの宗教」などと言えば、ブーという非難の声が聞こえてきそうです。救いは「信仰のみ」によるからです。しかし、ここでお話しするのは、キリスト教は多くの現実的な「行い、行為」をもってその特色とすることです。
日本におけるキリスト教の信徒数は1%未満と言われています。しかし、他の宗教などに比べて、社会的な活動では多くの働きをしています。私立学校教育などに占めるキリスト教系の学校は少なくありません。幼稚園・保育園まで加えたら、私立学校に占めるキリスト教系の学校・学園は多大なものがあります。
病院や福祉施設の数もキリスト教系の病院、福祉施設はかなりの割合を占めているのではないでしょうか。誰でも知っている有名な病院や施設だけでなく、地域の片隅で細々と営んでいる施設などもたくさんあります。とりわけ、障がい者施設、幼児の施設、課題を抱えて生きる人たちのための施設などは、公的認可を得て公的支援を得ることが難しい中で、信仰に立って営みを続けています。
仏教関係の団体の営む学校、学園、病院や福祉施設なども決して少なくないことは承知しています。しかし、人口の比率で比べたら、僅か1%未満のキリスト教関係者たちが行っている社会的活動の圧倒的な多さに、多くの人が気付いてほしいと願っています。なかなか気付いていただけないのではないでしょうか。
キリスト教は、「ことば」を大切にするとともに、「ことば」と共に、「ことば」に添えて、「行い」もってその信仰を表明していく信仰なのです。「ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、『私たちを見なさい』と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。すると、ペテロは言った。『金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出した」(使徒言行録3:4-7)。
手を差し伸べる信仰と言っていいでしょう。この信仰の姿勢は、イエスに始まり、初代教会の時代にしっかり根付き、教会と信仰者の基本的なあり方として継承されてきたのです。今回の花はロウバイとします。(2025/1/24)
(1)キリスト者の新しい主人
今回から数回にわたって、キリスト教、特にプロテスタント・キリスト教の特色の1つとされる「抵抗権」について記します。大事な今日的課題だからです。
キリスト者、あるいは牧師と言われる人でも、「抵抗権」という言葉を知らない人が多いのではないでしょうか。その中で、カルヴァン系の教会では割合知られている言葉と言っていいでしょう。この「抵抗権」という言葉を本当に理解するには、キリスト教信仰の基本から説明しなければなりません。
先ず、イエスをキリスト・救い主と信じた「わたし」は、だれのものか、と言うことを真剣に受け止めることです。イエス・キリストを信じることによって、キリストがその人の新しい「主」となるのです。「イエスを主と告白する」とは、そういうことです。キリスト教信仰は、気分的なものでも、御利益的なものでもありません。イエス・キリストを「わたしの主」と認めて生きる信仰なのです。
「ハイデルベルク信仰問答」というものがあります。その第1問答で「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方はご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました」と記します。ここに、キリスト者の基本的な立ち位置があります。
人は、キリストの十字架の贖いを信じて、罪が赦され、義とされ、罪と滅びの中から救い出されて、「キリストのもの」(キリストの所有)となったのです。「わたし」の主人が、「わたし」から「キリスト」に入れ替わったのです。
今まで、わたしの主は「わたし」でした。「わたし」こそ、自我の罪の根源です。欲望のままに生きる存在でした。「わたしは自由だ」と思っていたが、実はサタンに誘惑されるままに生きてきたのです。「世の価値観と世の流れ」の中で生きてきた。それが「自由」だと錯覚していたのです。しかし、キリストを信じ、自我の束縛から解放され、新しい主キリストと共に、新しい人生を歩み出しました。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5:17)。神の所有となりました。ここに抵抗権の根源があります。今回の花はシャクナゲとします。(2025/5/9)
(2)上に立つ権威への服従の限界
今回は「抵抗権」と真反対のように思える「上に立つ権威」への服従を記すことにします。キリスト教は決してテロ集団や革命的な勢力ではありません。むしろ、世の秩序の大切さを教え、人と協調し平和に過ごし、隣人に仕えて生きることを教える信仰です。イエスご自身、納税を是としました。
マタイ福音書22章17節-21節です。ファリサイ派の人たちから尋ねられました。「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と。イエスは言います。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい」と。彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは「これは、だれの肖像と銘か」と言われます。彼らは「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と応えました。
象徴的な問答です。「税」と言う事柄を通して、イエスは世の為政者の権威を認め、それに従うことを教えました。このイエスの言葉を受け止めて、使徒パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」と述べ、「権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(ローマ書13章1-7節)と教えます。
「上に立つ権威」「今ある権威」は、神によって立てられたもので従うべきで、義務を果たしなさい、敬いなさい、と勧めます。「上に立つ権威」「今ある権威」は、必ずしもキリスト信徒ではなく、無神論者や他の宗教の信仰者であるでしょう。しかし、この地上の為政者として「神が立てた」権威なので、キリスト者は為政者に従うのです。キリスト者は、神に従う故に、神の立てた世の権威者に従うのです。無限定ではないことに留意してください。これがキリスト者の基本的な生き方です。今回の花はタンポポとします。(2025/5/16)
(3)神への服従の優先
今回は「抵抗権」の基本となる「神への服従」について記すことにします。キリスト者は、キリストの贖いによって「キリストのもの」となり、神の所有となりました。キリストを主とし、このお方を神として礼拝するのがキリスト者の最も大切な務めであり、キリスト者の基本的な生き方です。
一般的・通常時には、上に立つ権威に従って生きるのですが、この上に立つ権威が、キリストの主権を認めず、つまり神礼拝を否定し、神の御言葉に従うことを否定するような時が来ます。その時には、神の言葉に従って生きるのです。これが「抵抗権」の基本です。世俗の権威には限定があるからです。
「抵抗権」は、近代になってからの主張ではなく、初代教会時代からの教会の基本的主張です。ユダヤ教の大祭司が「使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。『あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている』。ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません』」(使徒言行録5:27-29)。
世俗の権威は決して無限定のものではありません。神を無視し、神の正義と神の慈しみを無視して、神からの信託に背くならば信託違反になります。その場合、世俗の権威は神の立てた権威としての根拠を失っているのです。そこでは、キリスト者は「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」ということになります。
キリスト教会は、「皇帝礼拝」を命じるローマ帝国の権威に対して果敢に抵抗しました。ローマ帝国は、ある意味で多様性の国家でした。古来からのローマ市民は少数でした。ローマ帝国は版図を拡大し多様な民族を抱えました。それを維持する軍隊もローマ人だけでなく蛮族と言われる人たちを雇用しました。
その多様な民族を精神的・構造的に統一するために考案されたのが「皇帝礼拝」です。「皇帝礼拝」をする限りにおいて、多様な民族の多様な宗教をも容認しました。しかし、古代のキリスト教会は、唯一の神のみへの礼拝を貫き、皇帝礼拝を拒否し、抵抗し、迫害の中を生き抜いたのです。今回の花はツツジとします。(2025/5/23)
(4)神の形としての人間
今回は「抵抗権」の基本としての「神への服従」と共に、人が「神の形」に造られたこともキリスト教「抵抗権」の根底にあります。やがて基本的人権の根拠となる主張です。聖書では、人は「神の形(似姿、イメージ)」として造られたと記します。「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された」(共同訳・創世記1:27)。ここに、人の究極的な尊厳性があります。
「神の形」は、人間の体と魂を含めた全存在を指していますが、とりわけ知・情・意という人間の精神性、人格性と深く関わります。「神を想う思い」「永遠を想う思い」と言っていいでしょう。人が堕落し、罪人となり、この「神を想う思い」は罪によって大きく傷つき、歪み、撓み、欠損していますが、神の形の痕跡が全く失われてしまったのではありません。
アダムの堕罪によっても、人は依然として「人」であり、神の形を保持しています。失われることのない人格を持ち続けています。人は宗教を持ち、また福音を聞くことによって真実の神との交わりが回復可能なのです。この神との交わり、神を礼拝する権利と自由、神に従う良心が、個人の人格の核なのです。これは何者によっても奪い去ることの出来ない神から与えられた基本的な権利です。
キリスト教会は、最初期から「基本的人権」とか「抵抗権」などという事柄を、そのような特別な言葉・用語で主張してきたわけではありません。長い間の教会の営み、教会の歴史を通して、聖書、特に新約聖書によって、神の前における個人の尊厳、自由と平等、唯一神への礼拝、究極的な神への服従の重要性などを学び取り、教えられてきたのです。
これらの事柄が、多くの人にしだいに自覚されるようになったのがヨーロッパにおける「ルネッサンス」と「宗教改革」でした。特に宗教改革によって、一人ひとりが自分で自由に聖書を読むようになると、神の前における自己の確立、人の根源的な自由と平等、人としての尊厳と権利などの聖書的主張がしっかりと受け止められるようになったのです。今回の花はカラーとします。(2025/5/30)
(5)日本における権力への抵抗の歴史
「抵抗権」について、最初の(1)で、キリスト教、特にプロテスタント・キリスト教の特色と記しましたが、実は決してプロテスタント・キリスト教の独自の主張ではありません。初代、古代のキリスト教会もローマ帝国の権威に対して抵抗し、戦い抜いてきました。
それだけでなく、近世に入ってキリスト教が日本に入ってきたキリシタンの時代にもしっかりと「抵抗」が自覚されていたことを発見するのです。高山右近は、豊臣秀吉から信任の厚かったキリシタン大名でした。彼が秀吉から棄教を迫られた時の手紙(返書)が残されています。
「私は日常、心魂を傾けて太閤様にお仕えして参りました。……ただ一つのこと以外には絶対に背くものではないのです。その一つの事、信仰を捨てて、デウス(神)に背けとの仰せには、たとえ右近の全財産、生命をかけても従うことはできないのです。それはデウスとの一致こそわれわれ人間がこの世に生まれた唯一の目的であり、生活の目標でありますから、デウスに背くことは人間自らの存在意義を抹消することになります。キリシタン宗門に入った人はこのことを皆、よく心得ているのです」。高山右近は生涯、この抵抗の姿勢を貫き通しました。
実に見事な信仰の告白であり、抵抗権の表明です。天下人の命令と言えども絶対服従を拒むキリスト教信仰の存在を恐れて、秀吉は「伴天連追放令」を出し、徳川は幕府を挙げての全国的なキリシタン弾圧と鎖国を強行したのです。遠藤周作は、キリシタンの上っ面の歴史をもって、日本はキリスト教信仰が根付かない風土・土壌と理解しましたが、わたしは誤りではないかと考えています。
高山右近に示されている信仰の告白と抵抗権の表明に比べて、幕末以降に日本に入ってきたプロテスタント・キリスト教は、むしろ失敗の歴史であったことを明確に自覚しなければならないと思っています。極論すれば、時の権力にすり寄り、おもねり、忖度し、抵抗権を放棄して、形だけの教会を形成してきたのではないかと、考えています。それは教会人が、時の権力者と同じ「社会的成功」を目指した営みであったからではないでしょうか。今回の花はアマリリスとします。(2025/6/6)
(6)戦前・戦中の教会の状況
幕末・明治期から日本の敗戦までの80年ほどのプロテスタント・キリスト教会の世俗権力との関わりの歴史を記そうと思います。無理を承知で記します。例外も極めて多々あります。しかし、あえて言えば、近代日本のプロテスタント・キリスト教会は総体として権力への抵抗に完敗したと言っていいでしょう。
幕末・明治期以降のキリスト教会は2つの大きな課題を抱えていました。1つは、江戸時代からの「キリシタン・邪宗門」の負のイメージを拭い去ることでした。踏み絵や寺請制度、五人組の連帯責任などによって、民衆の中に染みついた危険な宗門という負のイメージは、幕府崩壊によっても拭い去ることはできません。
2つは、キリスト教は日本の近代化を担う使命を持っているという自負です。キリスト教は危険な邪宗門でないばかりか、国の近代化に役立ち、国家に有益な宗教であることを示そうと悲しいまでの努力をしたのです。江戸時代の禁制がなくなり、信教の自由が保障されたと言われていますが全く異なります。キリシタン禁制は明治になっても続き、明治5年の「キリシタン禁制」の高札撤廃は、外圧とキリシタン禁制が「周知されているため」という理由でした。
明治期以降、大日本帝国憲法と教育勅語の下での教会形成でした。大日本帝国憲法「日本臣民は安寧秩序を妨げず、及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有す」(第28条)という限定付の信教の自由でした。国民は学校教育で「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」(教育勅語)と教えらました。徹底的な皇民化教育で天皇礼拝と神社参拝が強制されました。
その中で、キリスト教会の主流派は、邪宗門の嫌疑を払拭して国家に有益な宗教となることを懸命に心がけたのです。神道、仏教の代表者と肩を並べて宮中参内が許されたと大喜びしました。時の権力の意向を忖度し、すべての戦争に協力し、「日本的キリスト教」となり、植民地支配にも協力しました。「抵抗権」など、どこかに吹き飛び、牙を抜かれ、国家に協力する宗教に成り果てました。キリストのみを神として信じ礼拝するキリスト教の基本から大きく外れたのが、戦前・戦中期のプロテスタント・キリスト教会でした。今回の花は紫陽花とします。(2025/6/13)