41、聖書の解釈について(3)

 ……聖書の「基本的な意図」に基づいて

 今回は旧約・新約を貫く「聖書」についての基本的な理解を記しましょう。「聖書」とは、どのような目的を持つ書物なのでしょうか。旧約は、古代イスラエルの歴史書でしょうか。人生訓を記した論語のようなものでしょうか。新約は、イエスの伝記なのでしょうか。そのように考える人も多いようです。

 実は、聖書は総体的に「救済の書」、救いの道、解放を伝える「福音の書」なのです。旧約は、イスラエルの民の出エジプトという壮大な歴史のドラマを伝えることによって神の救済・解放を伝える書物です。さらに神殿とその祭儀を通して、やがて来る救い主による罪人の救済の出来事を予表する書物です。新約は、旧約によって予表され告知されていた神の救済が、人となられた神の御子、イエス・キリストによって歴史の中で実現した神の救済、罪の贖い、罪からの解放の出来事を物語る書物です。

 では、「律法」と呼ばれる部分は、どのような性質のものでしょうか。「律法」は、神の救済の恵みを受けた者が神に感謝して生きるための道筋なのです。このことを告知しているのが十戒の冒頭の言葉です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20:1)。出エジプトという壮大な民の解放・救出をなした神への感謝、恵みへの応答として「十戒」・律法に従って群れを形成し、神に従い、隣人を愛して、生きることが求められているのです。

 この旧新約「聖書」を貫く基本的な構造が分からずに、自分勝手な聖書の読み方をして失敗するのです。大切な「宗教の書」ということで、読んで感動した個所、感銘を受けた言葉、人生の処世訓のような言葉に心動かされて「これが聖書だ」と判断します。また、自分で大切だと判断した言葉に「こだわる」ところから、とんでもない誤解が生じます。断片的な「言葉」を繋ぎ合わせて前後の文脈を無視します。聖書の全体的、総合的な意図と構造を無視して強引な解釈を施します。

 聖書は、よき音信(おとずれ)、「福音」を伝える書です。「福音」から切り離された「律法」は、人を刺し貫く厳しい「掟」の言葉に過ぎません。聖書を「福音の言葉」として正しく読むためには「導き手」が必要です。聖書を「福音」として読むためには、教会に行き、信仰の書としての読み方を学んでいただくことが必要です。今回の花は優美な白木蓮とします。(2023/4/7)

42、「日曜学校」の再建を祈る

 今回は「日曜学校」について記すこととします。「日曜学校」はキリスト教会特有の活動ですが、現在、たいへんな状況になっています。コロナ禍以前からですが、コロナ禍が収束しても回復しないのが「日曜学校」の活動です。数的に激減しているだけでなく、活動を再開できない教会も多くあるようです。

 わたしが伝道者になった1970年頃は日曜学校はしっかり活動していました。1980年代までは教会の最も大きな伝道の場でした。しかし今や、回復不能な大打撃を受けています。少子高齢化だけの問題ではありません。わたしは、もう一度、「日曜学校」は原点に戻る必要があるのではないかと思っています。

 元々、「日曜学校」は、英国のグラスターというところで18世紀末期に始まりました。当時の英国は産業革命の真っ最中でした。スラム街に住む工場労働者たちの過酷な労働状況による過度の飲酒と道徳的な退廃が蔓延していました。下層階級の子どもたちも大人の労働者なみに過酷な労働に携わり、読み書きも出来ず、自分の名さえ書けない子もいました。この状況を見て、心を痛めたのがロバート・レイクスという英国国教会の信徒でした。

 ロバート・レイクスは、自分の教会の牧師に頼み、教会堂の空いている小部屋を借りて、日曜日に子どもたちに読み書きや算数の一般教育の授業を始めたのです。日曜日に授業をしたのは、子どもの労働者でも月曜から土曜日まで目一杯働かされ、日曜日以外なかったからです。テキストは主に聖書でした。この日曜学校がアッという間に広がりました。時代が必要としていたのです。

 安息日である日曜日に、教会堂を用いて、一般教育を行う。これに対して、教会内から大きな非難と反対の声が挙がりましたが、しだいに定着するようになりました。一般教育だけでなく、宗教教育をも行うようになり、やがてアメリカの教会にも浸透するようになり、プロテスタント・キリスト教が日本宣教を始めると共に、日本でも取り入れられました。宣教師学校、ミッションスクールです。

 ところが今日では、日曜学校が変わってしまっています。ほとんどが教会員子弟のための宗教教育の機関になっています。「教会学校」と呼ばれて、完全に内向きの構造になり、教会の信徒教育の場となっています。これでは回復することは無理でしょう。「日曜学校」回復の道は、元のロバート・レイクスの行った過酷な社会状況に生きる人たちのためのよき居場所、彼らに対する奉仕の場としての活動に引き戻すことです。時代の中で生きる人々の悲痛な叫び声を聴いて、会堂を開放し、課題を抱えて苦悩する人たちに奉仕する道を模索することが必要です。これが、本来の「日曜学校」活動なのです。今回の花は珍しい黄色の花菖蒲とします。(2023/6/9)

43、教会の「コロナ禍」後の問題を考える(1)

 1,コロナ禍の中の教会

 最近は、いくぶんコロナ禍が収束しつつあり、多くの教会でも活動を再開し始めています。これから、どうなっていくでしょうか。今回は、コロナ禍後のキリスト教会全体の在り方について考えたいと願っています。

 2019年後半から新型コロナウィルス感染の流行が始まり、2020年の年頭あたりから教会もコロナ対策に翻弄されるようになりました。マスクや消毒液と共にソーシャルディスタンス(距離を置く)ということで、教会での人の出入りを制限するようになりました。やがてパンデミック(世界的大流行)という言葉と共に、学校や食堂などでのクラスター(集団感染)という言い方が始まりました。「教会からクラスターを出してはならない」ということで極端なまでの自己防御を図りました。

 礼拝や諸集会をしばらくの間一切取り止めた教会もありました。役員や一部の人たちだけに制限した教会もありました。今まで決して口にしなかった「教会(集会)に来ないでください」という言葉を公然と語り、教会の門扉に「礼拝中止・休会」の張り紙を出す教会もありました。教会の命である「聖餐式」も出来なくなり、なんとか回避しようとしてとんでもない方向に走り出した教会もありました。

 多くの教会ではインターネットを用いたウェブ配信での礼拝を始めました。信徒は、パソコンやスマホの画面で放映されてくるのを受け止めるだけの「バーチャル(仮想・虚像)礼拝」です。何の手当もしないよりはましですが、多くの教会ではこれを「ウェブ礼拝」「オンライン礼拝」などと呼び公認の礼拝としてしまいました。

 会堂の礼拝の場に「身を置かなくても良い」、家庭でウェブ配信の礼拝風景を見て、それが礼拝ですよ、と公認を与えてしまったのです。ウェブ配信などの技術を持たない教会や牧師たちは、週報を郵送するだけという状況になりました。多くの教会がコロナ禍の中で機能不全に陥ったと言っていいでしょう。

 2022年末くらいから、コロナ禍がしだいに収束に向かいました。世の中では「経済を回すため」ということで規制がしだいに緩められ、2023年5月から新型コロナウィルス感染症も「5類相当」に移行されました。マスクは自由になり、新幹線は満員になり、飲食店は活況を呈し、観光地はインバウンドで外国人客が賑わっています。物価の高騰などはありますが、世の中は活気に溢れています。

 しかし現在、キリスト教会には活気が戻ってきていません。多くの教会で、日曜学校は閉鎖されたまま、礼拝の人数は半減しています。伝道活動を再開しようとしていますが活力がありません。どうなっているのでしょうか。今回の花はキバナコスモスとします。(2023/9/22)