この課題は、宗教にとって重要な事柄です。いずれ記さねばならないと思っていました。気の重くなる課題ですが、何回かにわたって記しましょう。
今の世はまさに「女性の時代」と言ってもいいでしょう。アメリカに女性の副大統領が誕生し、ドイツでは引退表明しましたがメルケル首相が長年にわたって活躍し、日本でも議会における男女の同数が求められ、立憲民主党では役員の男女同数が実現しました。セクシャルハラスメントは厳しく咎められています。
宗教の世界に目を向けると、様相が一変します。わたしたち日本キリスト改革派教会も女性の牧師、長老が実現したのはほんの数年前のことです。まだ女性の牧師を認めないプロテスタントの教派も多くあります。何と言っても、ローマ・カトリック教会では女性の司祭・司教はまったく認めていないはずです。また、司祭職の結婚も認めていません。そのため、司祭・司教職にある者によるセクシャルハラスメントが跡を絶ちません。現代の世俗世界とは大きく異なっています。
このようなキリスト教の実情は、それ自体で理解することも大切ですが、実はユダヤ教やイスラム教と対比することを忘れてはならないのです。キリスト教とユダヤ教、イスラム教は、実は同根なのです。最も古く、共通項と言えるのが、ユダヤ教で「旧約聖書」だけを正典としています。「旧約聖書」という呼び方はキリスト教の言い方で、ユダヤ教では「タナク」(トーラー・律法の書、ネビーム・預言書、ケスービーム・諸書、の頭文字)と言います。この「タナク」(旧約聖書)の上に、キリスト教は「新約聖書」を置きます。イスラム教は「コーラン(クルアーン)」を置きます。
女性にかかわる事柄では、キリスト教はイエスの教えを基本とした新約聖書によって旧約を乗り越えていきました。イスラム教は、ムハンマドの教えに基づくコーランにより、むしろ「タナク」をより厳格化していると言っていいでしょう。
ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)は、男性の場です。女性は片隅に追いやられ、会堂礼拝での奉仕は一切ありません。司式も、聖書朗読も、賛美も祈りも、男性の独占です。ユダヤ社会では、女性にも家庭などで一定の役割があり、世俗の領域では女性の実力が大いに発揮される場面もありますが、基本的には「割礼(男)の民」です。イスラムについては、わたしはよく知りませんが、ある一定程度の幅、許容度はあるようですが、基本的には女性の権利は世俗的にも宗教的にも確立していないようです。「保護」の対象に過ぎないのではないでしょうか。このようなユダヤ教、イスラム教との対比で見ることも必要ではないかと思っています。今回の花は優雅な「ダリア」とします。(2021/12/24)
キリスト教における女性の課題は、新約聖書・福音書に記されているイエスと、イエスを取り巻く女性たちの姿が基本になっています。イエスは、当時のユダヤ教の律法理解に対して、「しかし、わたしは言っておく」と言い、律法成立の根源に戻って考え抜く姿勢を示しました。その結果、旧約の長い歴史の中に起源を持ち、結果として慣習として存在していた多くの差別を平然と乗り越えています。
異邦人の女性やサマリアの女性に対しても平気で近づき、癒やし、救い、語らいます。ソーシャルディスタンスを保つべき「重い皮膚病」の人たちにも直接接して癒やします。イエスを取り巻く人々は、「罪人(職を持たない遊び人)、徴税人(ユダヤの富をローマにもたらす売国奴)、遊女(売春婦)」と言われる人たちでした。この人たちと平然と食事を共にしました。ファリサイ派の人たちが怒る理由です。
イエスと弟子たち一行の旅を支えたのは女性たちでした。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(ルカ福音書8:2-3)と記されています。イエスの旅の姿、その状況が、後の初代教会の日常生活の基本になったのです。
ただ1つの問題が、12人の「使徒」の中に女性がいないことです。キリスト教の最大の難関と言えるでしょう。ローマ・カトリック教会につながる今日の課題です。当時のユダヤ社会の状況を色濃く残していると言わざるを得ません。これはわたしの理解ですが、イエスの「社会適応」の1つであったと理解します。イエスにおいても、すべての社会的な課題が完璧に解決したと見ない方が自然です。イエスの言葉と行いによって基本的な方向が開示されたということです。(2022/1/14)
女性にかかわることとして、イエス後の初代教会の在り方を形づくる第1は、復活のイエスとの出会いの出来事でした。最初に復活のイエスにお目にかかり、復活の出来事を告げるべく派遣されたのは、墓を訪れた女性たちでした。また、イエスの昇天を見送り、聖霊の降臨を待つ弟子の群れの中には分け隔てなく女性たちも加わっていました。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1:14)。
新約のキリスト教会の出発を画するのが「ペンテコステ(聖霊降臨)」の出来事です。聖霊は男女の区別なく、集まっていた一同の上に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:3-4)。
聖霊に導かれて、ペトロはこの聖霊降臨の出来事の意味を語り出します。旧約預言者ヨエルの言葉を引用し、この出来事は「終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」(使徒言行録2:17-18)と、預言されていたことだと示したのです。
ここには革命的なことが語られています。神はすべての人に神の霊を注ぐ。息子・娘、若者・老人、しもべ・はしため、老若男女、世の身分に関係なく、言語・民族・などに関係なく、です。神の霊を注がれた者は、それぞれ賜物を与えられて「預言する」、神の言葉を語るのです。神の言葉を語ることは、神への奉仕の究極です。ここで、原則的に神への奉仕には一切の差別が撤廃されていると言っていいでしょう。
この革命的な一切の差別・区別・境界の撤廃について、現実の教会は受け入れることが出来ませんでした。旧約からの伝統的思考が骨身に染みつき改革できません。現実の教会は、多くの失敗や経験を経て「気づき」が与えられ、次第に改められていくプロセスをとります。使徒言行録の記す教会の歴史が、それを示しています。初代教会だけのことでなく、今日に至るも差別の現実は存在し続けています。ヨエルの預言は完成されていません。終末における完成を望み見て、気付いたところから大胆に改めていくのです。今回の花は、水仙とします。(2022/2/4)
現在、日本の社会は新型コロナの感染禍で大きく揺れています。その大きな揺れの渦中にキリスト教会も置かれています。今朝(3月4日)の朝日新聞に「オンライン国会」の可能性が報じられていました。議事の公開制などの問題はあるが憲法上は可能ということのようです。
今、キリスト教会は「集まること」におびえています。近隣の目を恐れたり、クラスターが起こることへの危機感から、多くの教会で、集会を出来るだけ絞る、あるいは中止して、「ウェブ配信」などによるオンライン礼拝が主流になっています。これは「オンライン国会」よりももっと根本的な課題を抱えているのです。キリスト教信仰は、判ればいい、理解できればいい、処理できればいい、という信仰ではありません。「直接性」を持つのです。このことを、多くの教会人は、どのように理解しているでしょうか。信仰の基盤が崩壊しかけているのです。
イエスは言われました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18:20)。礼拝成立の基礎となる御言葉です。人数にかかわらず、数人でも現実に集まる。キリストの名によって、現実に集まりがなされる。そこにキリストが現臨しておられるという信仰なのです。オンラインでは、この霊的リアリティがなく、映像を見る、放送を聴くに過ぎません。
オンラインでは「キリスト不在」と言ってもいいでしょう。もちろん、三位一体の神の臨在は「永遠、普遍、無限」であり、いつでも、どこにでも臨在されることは確かです。しかし、オンラインでは「礼拝共同体」の成立とはなりません。礼拝共同体の最も大切な「聖餐」は不可能です。例え行っても「バーチャル」(仮想)に過ぎません。コロナ禍もピークアウトしつつあります。どんなに危険が見込まれても、再び、集会の直接性、共に会い、互いに祈り合う霊的リアリティを早急に回復する時なのではないでしょうか。(2022/3/4)
今回は、「チャプレン」について記すこととします。日本の社会では「チャプレン」という職種、働きについて、ほとんど知られていません。欧米では大切な職種となっていますが、日本ではごく一部で存在しているだけです。
わたしの知る限りのことですが、チャプレンは、軍隊にも置かれています。「従軍牧師」と言われます。基本的には、学校・学園や福祉施設、最も大切にされているのは「病院」です。わたしは従軍牧師についての知識はほとんどありません。日本ではキリスト教系の学校、施設、病院・ホスピスなどに「チャプレン」が置かれています。
わたしは直接、チャプレンとしての働きには従事しませんでした。しかし、伝道者・牧師としての働きの中で、学校のチャプレン、福祉施設のチャプレンなどのお手伝いをしてきました。現在も、ある病院のホスピス病棟でチャプレンのお手伝いとしてチャペル(礼拝)の奉仕を続けています。その経験からお話しします。
病院のチャプレンは、医師や看護師ではなく、心理療法士やカウンセラーでもありません。チャプレンは、患者本人だけでなく、患者を囲む家族、病院のスタッフまでをも含む広い範囲での「霊的ケアー」をする働きです。霊肉共に病む人を、身体だけでなく霊的な総体的存在として受け止め、病む人の魂の声を聞き、心に寄り添い、看取りにまで立ち会います。高度な専門的な知識と強靱な精神力が要求される割には、日本では軽視され、無視されています。
欧米では多くの病院や施設に普通に置かれています。日本では「キリスト教系」を除いて皆無に等しいと言っていいでしょう。病院経営・施設経営の視点から不要視されています。病院の点数制ではカウントされない見えない働きです。病は決して肉体だけのものではありません。体が病むと、心も精神も病み痛むのです。体と心の癒やし、家族への霊的な配慮という総合的な視点が必要な務めと言っていいでしょう。「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」(金子みすゞ)。この見えぬものへの配慮の働きがチャプレンの働きなのです。今回は、節度と慎みを表すツツジとします。(2022/5/6)
キリスト教の「戦争と平和」の問題について数回にわたって記すこととします。この課題を取り上げるのは、現在行われているロシア・ウクライナ戦争を踏まえてのことです。戦争の惨禍がリアルタイムで報道され、日本国内でもいろいろな議論が沸き起こっています。キリスト教という視点から何か言えるかというと、なかなか難しいのです。整理しながら私見を記したいと思います。
キリスト教と言っても決してすべて戦争否定ではありません。ロシアのプーチン大統領もロシア正教の信徒です。ウクライナのゼリンスキー大統領もウクライナ正教の信徒です。ウクライナを支援しているアメリカのバイデン大統領もカトリック教会の信徒ですし、ヨーロッパ諸国の政治的指導者たちは濃淡はありますがキリスト教徒なのです。このように見る限り、キリスト教は戦争反対よりも、むしろ戦争遂行を支える精神的な基盤を提供していると見ることも出来るのです。
しかし、聖書を素直に素朴に読む限り、聖書は「非戦」を訴えているのです。旧約の律法の基本は「十戒」にあります。その第六戒に「(あなたは)殺してはならない」と銘記されています。信徒の生活の在り方を貫く基本姿勢です。新約聖書では、イエスにおいて明確に非戦が命じられています。マタイ福音書26章52節「イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる』」。マタイ福音書5章9節「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」。
これを受け止めて、使徒パウロは報復を禁止します。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ書12:17-21)。
聖書、とりわけ新約聖書はキリストの受難の十字架に焦点があります。罪なきイエスが罪人とされて、争うことなく、十字架の受難の道を歩みました。このイエスの歩んだ道を歩むのが弟子としての在り方です。イエスの直接的な弟子たちの影響下にあった初代教会では、キリスト者と呼ばれる人たちは「非戦」を貫いたと言われています。イエスが語られた「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」(マタイ福音書10:23)という言葉に従って逃亡したのです。
キリスト者たちは、ネロ帝の迫害の下でも、ヴェスパシアヌス帝の息子ティトス将軍によるユダヤ戦役においても、ドミティアヌス帝の迫害下でも、キリスト者としての反抗はありませんでした。この点で、ユダヤ教とはっきり一線を画していました。ユダヤ教徒はローマ帝国に対して勇敢に戦い、破れ、亡国の民となりました。しかし、キリスト者たちは、およそ戦うことなく捕らえられ、虐殺され、各地に逃亡し、洞窟で、地下洞で、川岸で集会したのです。この初代キリスト教徒の歩みを忘れてはなりません。今回の花は浜木綿とします。(2022/7/29)
紀元1世紀から3世紀にわたる初代教会時代は、個々の例外はあったでしょうが、基本的に「非戦」を貫いたと言っていいでしょう。ここでは簡単に非戦を貫いた理由を記します。今日の日本におけるキリスト者の在り方の参考になるでしょう。
基本にあるのは、教会とローマ帝国との関係です。初代皇帝アウグストゥスの時から皇帝の権威が強化され、拡大した植民地帝国を統一する求心力として皇帝に対する宗教的礼拝が強化されました。ローマ帝国は、拡大した植民地に自治を与え、多民族の諸宗教の自由を認めました。同時に、皇帝を神とし、神殿で皇帝のために犠牲を捧げ、皇帝礼拝を求めました。ローマ帝国は、皇帝礼拝を承認する諸宗教は「レリギオ・リキタ」(合法宗教)と呼びました。
皇帝礼拝を受け入れない宗教は「レリギオ・イリキタ」(非合法宗教)とされました。ローマ帝国内では1つの宗教だけ例外が許されていました。ユダヤ教です。ユダヤ人は、いろいろな理由がありますが、皇帝に犠牲を捧げることが免除されていました。初代教会の初期、使徒時代は、ローマ統治者にはユダヤ教の一部と見なされていました。しかし、キリスト教がローマ世界に拡散し、独自の歩みを始めると、ユダヤ教と異なる存在であることが、ローマ統治者によっても判るようになりました。多くの異邦人がキリスト者となり、教会の主要構成員となったからです。
しかし、キリスト者は、皇帝に犠牲を捧げ、皇帝を神として礼拝することを拒否しました。このことによって、キリスト教は「レリギオ・イリキタ」(非合法宗教)とされ、以後、キリストの名を告白するだけで有罪とされ、財産、自由権を奪われ、命の危機に脅かされるようになりました。ネロ帝が最初のキリスト教迫害を行った紀元64年が分水嶺となりました。
キリスト者は「皇帝礼拝をしない」という一点で、国家の敵とされ、社会から憎まれ、追放され、投獄され、流刑にされ、奴隷にされ、鉱山で酷使され、コロッセウムで見世物とされ、ライオンと格闘を命じられ、松明のように燃やされました。
この悲惨な状況の中で、キリスト者は相互に支え合うため、強固な教会組織を整え、助け合いながら集会を守り抜きました。群れに監督、長老、執事などの役員を置き、国家的な迫害の中で互いを兄弟姉妹として交わり、密かに集会・礼拝を守り続けました。キリスト者は、集団で生活し、軍務に就くことや政府官吏になることも拒否し、身を潜めて生活しました。このような教会の状況を見たローマ帝国の国家統治者、地方統治者たちは、ますますキリスト教は国家の安全を脅かす存在として弾圧したのです。
初代教会の時代、紀元1世紀から3世紀にかけて、キリスト教会は十字架のイエスの足跡を踏む殉教の時代でした。しかし、決して報復運動を起こしたり、武器を執って暴動を起こすこともありません。勿論、個々に例外は当然あったでしょうが、教会としての歩みは「非戦」を貫いたのです。その中で、不思議なことに多くの人がキリスト者となっていったのです。非戦に生きる教会の在り方が、時代に生きる人たちの目に魅力的に見えたのではないでしょうか。今回の花は可憐なユキヤナギとします。(2022/8/5)
初代教会の「非戦」の理解と立場を一変させる出来事が起こりました。紀元313年、コンスタンティヌス帝がミラノ勅令によってキリスト教を公認宗教とし、やがて国教化します。その後、幾らかの紆余曲折はありますが、キリスト教はローマ帝国の国教となり、統治体制を担い支える存在となったのです。
非戦を貫き、身を潜めて存在してきたキリスト教会が陽の目を見ることとなりました。教会員になることは帝国内で昇進する道ともなりました。その中で大きな課題は「戦い」の問題でした。最初にキリスト者が戦争に従事することの正当化を主張したのがアンブロジウス(340?-397)でした。「無辜の民を守るための戦争」を正当化しました。それを受け継いで神学的に定着させたのがアウグスティヌス(354-430)です。政治権力によって維持される秩序を肯定し、その平和のための戦争を容認しました。平和を目指す戦争という理屈です。
カトリック教会は以後、基本的にアウグスティヌスの理解を引き継ぎます。領主権力を承認し、領主たちの戦争を祝福し、十字軍を主催するようにもなります。アンブロジウス、アウグスティヌスという2大教父の影響は大きく、やがてプロテスタント宗教改革にも引き継がれます。ある意味で、宗教改革運動とはアウグスティヌス主義の復興と言っていいものです。
プロテスタント教会の主流派は、このアウグスティヌスの主張を継承します。ルター派、改革派、英国国教会、長老派教会、組合教会などです。これらプロテスタント主流派教会は、幾らかの違いはありますが国家との密接な関係を維持します。国家によって保護され、また国家を支持する教会でした。宗教改革期に多くの信条文書が記されましたが、非戦あるいは反戦を明記したものは主流派教会の中にはありません。
それを色濃く反映しているのが長老派教会のウェストミンスター信仰告白(1647)です。第23章「国家的為政者について」という章を設け、1節で神は国家的為政者を任命し、剣の権能をもって武装し、悪を行うものを罰することが許されているとします。2節でキリスト者が為政者の職務に召されることは合法であり、「平和を維持する」、「この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやゆむをえない場合には、合法的に戦争を行うことこともありうる」としています。
国家為政者による「平和のための戦争」「合法的戦争」を許容しているのです。このような思考法が、現在もキリスト教世界での主流の考え方です。戦争についての欧米の為政者たちの基本的姿勢が、ここに示されていると言っていいでしょう。
これらプロテスタント主流派と異なる道を選んだのが、再洗礼派と呼ばれる少数の人たちです。フッターライト、フレンド派、クエーカー、メノナイト派など幾つかのグループがありますが、基本的には字義的な聖書直解主義に立ちます。幼児洗礼を拒否するのも、そこから出てきます。国家との関係を出来るだけ遠ざけ、「絶対平和主義」を主張します。「絶対平和主義」と言っても、特別な主張ではなく、新約聖書のイエスの言葉に立ち戻ったに過ぎません。
元々はヨーロッパ宗教改革運動の傍流でしたが、今日、このグループの人たちの主張と活動が次第に注目されてきています。宗教的寛容、宗教的自由の主張、無抵抗主義、良心的不服従、良心的兵役拒否などの主張が、しだいに各方面に認められて大きなうねりとなってきました。今回の花は、美しいですが時流に乗って大衆に愛されるサクラとします。(2022/8/12)
「戦争」と、同じ言葉を用いても、古代、中世、あるいは近世までの戦争と現代の戦争とでは、大きく様相が異なることを指摘しなければなりません。近世までの戦争は、兵士、軍人同士の戦いが主で、一般住民にも被害、被災が少なくなかったでしょうが避難しようとすれば出来る時代でした。騎士たちによる「決闘」の延長のような戦争であったと言っていいでしょう。
しかし、第一次世界大戦以後の現代の戦争は、大きく様相を変えています。総力戦です。前線の軍隊同士の戦いではなく、その後方にある一般市民社会、都市を狙っての攻撃・民衆を殲滅する戦いとなりました。ロンドン大空襲、南京大空襲、ベルリン大空襲、東京大空襲、その行き着いた先が広島・長崎への原爆の投下です。ベトナム戦争では一村すべての殲滅でした。軍隊、軍事施設への攻撃ではなく、基本的には武器を持たない一般民衆の大量殺戮・虐殺が狙いなのです。
大量殺戮・虐殺のためには手段は選びません。地雷散布、都市へのじゅうたん爆撃、焼夷弾、化学兵器、劣化ウラン弾、原水爆など、科学技術の最先端を用いての大量殺戮兵器を次々に開発され、それらを用いての戦争となっています。4.5世紀のアンブロジウス、アウグスティヌス、17世紀のウェストミンスター信仰告白作成の時代とでは、同じ「戦争」という言葉を用いてはなりません。今日の戦争は一般住民、民衆の「大量殺戮、殲滅戦」となっています。
どのような戦争でも、その目的は「正義と平和のため」になされてきたと言っていいでしょう。「無辜の民を保護する」「自国民の保護」「自国の権益の擁護」「自衛」のためであり、平和をもたらすため、平和維持のための戦争であると言います。日本のアジア・太平洋戦争は明らかに侵略戦争でしたが、開戦の詔書では「東亜の安定、平和」が繰り返し語られ、「世界の平和に寄与するため」「自存自衛のため」「東亜永遠の平和の確立」のための戦争であると謳っています。侵略のための不義の戦争だなどとは、為政者は口が裂けても語らないでしょう。
近時の戦争においては、その被災者・被害者、死者の実相をしっかり見つめることです。沖縄戦での民衆の戦禍の実際がいろいろなところで語られています。軍命、あるいは軍による家族殺し、自死の強要、悲惨な実情から目を背けてはなりません。軍隊は決して国民を保護するものではありません。いざとなったら「遺棄、棄民」する。旧満州において関東軍は国民を遺棄しました。広島・長崎における原爆投下は一般民衆の大量虐殺であり、後々の世代まで放射能の影響が残ります。シベリア抑留を味わったのは軍人だけでなく、多くの女性もいたことを忘れてはなりません。従軍慰安婦とされた人たちの無残さと苦悩を見逃してはなりません。
かつての15年戦争では日本は加害者でした。加害者として被害者たちの悲痛な呻き声、悲惨の実体をしっかりと見聞きし検証することが必要です。敗戦に際して日本人が味わった苦しみは、その前に朝鮮半島の人たち、中国・満州の人たち、東南アジアやフィリピンの人たちが味わった同じ苦しみを味わったのです。
日本では、戦後77年が経過し戦争の悲惨の実体が風化しています。若者の一部には戦争をゲームのように考える人たちもいます。政治家の中には核兵器を保持しょうとする勢力があります。そのような中で、キリスト者と言われる人たちの中にも戦争の合法論を語る人も少なからず存在しています。現代の戦争の悲惨な実体、無残な姿をしっかり見てほしい。どのような戦争であっても、戦争は、神の法は勿論のこと、人の世の法でも、明らかな殺人で犯罪なのです。巨大な犯罪です。今回の花は、愚かさを意味するオダマキとします。(2022/8/19)
プロテスタント主流派と異なる道を選んだ再洗礼派と呼ばれる人たちの主張を、現在、もう一度きちんと取り上げねばなりません。彼らを異端視してはなりません。この人たちの主張は基本的には「聖書主義」なのです。字義的な聖書直解主義に立ちます。「絶対平和主義」と言われていますが、特別な主張ではなく、聖書とイエスの言葉に立ち戻ったに過ぎません。
旧約聖書の基本的な平和の主張は、「(あなたは)殺してはならない」(出エジプト記20:7)という「十戒」の第六戒です。十戒は、神に贖われた神の民の生活の指針であり、旧約律法の根幹をなす掟です。十戒は、個人的倫理の規範であるだけではなく、ここに表明された神の意志に従って神の民であるイスラエルを形成していくという群れの形成原理、社会倫理でもあります。
ところが、十戒の中で第六戒は軽視され無視されてきました。出エジプトしたイスラエルは、カナンの地に入るに際して、ヨシュアによって、カナンの「町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ」と命じられます。それに応えて、「彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」(ヨシュア記6:17-21)のです。これが「聖戦」とされました。
このような戦闘・殺戮は、カナン入国時だけでなく、士師の時代も、ダビデ・ソロモンの統一王国時代も、南北分裂王国時代も、数限りなく行われました。群れの形成の原理である第六戒についての記憶は全く失われていたのです。
イスラエルにおいてだけ、第六戒「殺してはならない」の掟が無視されただけではありません。今日のいずこの世界でも、第六戒は無視され続けています。国家為政者と言われる政治家において、経済界において、多くの学会において、教育界において、さらには宗教界においてさえも、無視されています。人の行為と決断を導くのは利益の獲得であり、メンツであり、資本の論理です。キリスト者と言われる人たちでも、この第六戒は意識の外なのではないでしょうか。
しかし、どれほど無視され軽視されても、これが神の基本的な意志の表明であることです。「殺すな」は、故意の殺人を禁じたものです。旧約聖書では人間社会の誤りあることを認めています。偶発的な殺害に対しては「逃れの町」のシステムをもって救済処置を講じています。戦争は、いかなる形であっても、故意の殺人、謀殺です。神の法では、戦争は明らかな罪、犯罪です。現実に妥協したり忖度することなく、罪を罪として宣言することが大切です。「駄目なものは駄目だ」という基本の根拠です。
なぜ、神は「殺すな」と命じているのでしょう。今日、人命が軽視され、計量化されています。優生思想によって効率化され差別化されています。人が人として持つ根本的な尊厳性は、どこにあるのでしょう。聖書によれば、人が「神に似せて」神の形を担う者として造られたからです。「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(創世記9:6)。人の命に絶大な価値があり、一人の命が大切なのです。
第六戒「殺してはならない」は、殺人禁止の規定であるだけでなく、この戒めへの背反は神への背信でもあります。いかなる人でも、敵と言われる人であっても、神の形を担う神の被造者であるからです。神が人の命に特別な関心を持っているからです。この戒めは、殺さなければいいという消極的なものではなく、「命を生かしていく努力」が求められているのです。「人の命を生かしていく努力」の延長線上に、イエス・キリストの十字架の贖いがあるのです。イエスはわたしたち罪人の罪を担い、贖いを成就して、神の前に生きる者としてくださったのです。今回の花は平和を意味する黄色のバラとします。(2022/8/26)
旧約聖書の基本的な平和の主張は、「(あなたは)殺してはならない」(出エジプト記20:7)という「十戒」の第六戒です。新約聖書では、この十戒がイエスによって大きく深化されています。「殺すな」は、殺人だけにとどまらず兄弟げんかにまで拡大されて和解が勧められています。「姦淫するな」は、淫らな思いで他人の妻を見る内心の行為が「心の中で姦淫を犯した」と言われます。(マタイ福音書5章)
ユダヤ教の現実主義的十戒理解に対し、それに抗う形で、イエスの十戒理解が明確にされたのが、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5:43-44)の言葉です。さらに、イエスは十戒全体を次のように要約します。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ福音書22:37-40)
このイエスの視点に立つ限り、戦争を合法化することは出来ません。イエスが神殿当局者によって逮捕される非常時に、弟子の一人が持っていた剣を抜き大祭司の部下の一人の耳を切り落とす事態が起こりました。その時、「そこで、イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる』」(マタイ福音書26:52)と命じたのです。イエスは、この時、すでに自身の逮捕、裁判、十字架処刑を予見していました。にもかかわらず、剣を振るうことを禁じたのです。
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。これは私闘の禁止、個人的な争い、殺人の禁止だけではなく、剣・武器を執るすべての戦いの禁止なのです。武器をもって国を建て、支配権を拡大しても、それは一時のことで、遂にはその武器によって滅びるのです。剣・武器によって国を建て、国を維持し発展させることは出来ません。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」が鉄則です。歴史はその真実を示しています。剣・武器を取ることは、殺人であり、亡国の業なのです。
「剣をさやに納めなさい」。これがイエスの明確な不戦、非戦の命令です。このイエスの言葉を基本にして、パウロはローマ書12章17-21節で「だれに対しても悪に悪を返さず」と「復讐・報復すること」を禁じています。争いがある世界の中で、剣によらない平和の確立のために働くのが、キリスト者の使命であることを受け止め直すことです。
イエスの十字架が「平和の業」なのです。パウロは、イエスの十字架において、旧約の示す敵意、イスラエルと異邦人の敵意を取り除いたと理解します。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ書2:14-16)。
イエスの十字架の受難が平和をもたらす業であり、これがキリスト教平和論の核心なのです。このイエスの十字架の視点を見失ったキリスト教の「合法的戦争論」とか「平和をもたらす戦争論」などは、国家為政者に寄り添う神学的まやかしであり、イエスの十字架の意味を根底から見失っているとしか言えません。
少なくとも、新約聖書の中には、戦争や大量虐殺を肯定する言葉はありません。イエスは、十字架における自己犠牲によってユダヤ人・異邦人という敵対関係、対立を止揚し、平和・シャロームをもたらしたのです。キリストによって、敵対する者たちを「一人の新しい人」として造り上げる、イエスの平和の業としての十字架が高く掲げられねばなりません。今回の花は平和を待つ花ラベンターとします。(2022/9/2)
キリスト者とは何か。ハイデルベルク信仰問答は第一問答で「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と記します。キリストの贖罪の血をもって買い取られた「キリストのもの」、これ以外ありません。一切の忖度や虚飾、ごまかしを拭い取って、立つべき場はここにあります。
イエスは、弟子であるキリスト者に「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ福音書21:22)と、受難のイエスの足跡に踏み従うことを命じています。使徒たちと初代教会の人々は、このイエスの言葉に従って、迫害下、きわめて困難な道を非戦をもって歩んだのです。旧約のイザヤが預言した「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2:4)人々でした。イエスの語った「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5:9)人々でした。
コンスタンティヌス帝によるキリスト教の国教化からキリスト教会は変質しました。国家を支える宗教、戦争を肯定する精神基盤を提供する宗教へと堕落したのです。ここから「正義のための戦争」「合法的戦争」という神学的まやかし、現実肯定のごまかしが、キリスト教会全体を覆ってしまいました。アンブロシウスがどう言おうが、アウグスティヌスがどう言おうが、イエスの言葉から明瞭に逸脱したのです。
日本では江戸時代、キリスト教は邪宗門とされ弾圧されてきました。それが維新後、黙認され、大日本帝国憲法により制限付きながら信教の自由が付与されました。このため、以降のキリスト教会は再び弾圧されたくない、逆に西欧文明の基盤であるキリスト教をもって「国家社会の有用な宗教」とする願望が強く働きました。戦時中は、敵性宗教とされないように国策に協力する形で生き延びようとしました。キリスト教会としての自律性を見失い、福音の本質から逸脱していたのです。
わたしたちは歴史を否定することは出来ません。キリスト教会の長年にわたって犯してきた罪と過ちの歴史を見据える必要があります。また、日本の教会が犯してきた罪と過ちの道筋を自覚して受け止めねばなりません。教会の本来の在り方を回復するためには過去を見つめねばなりません。「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」(ワイッゼッカー)のです。
その上で、イエスの言葉、新約聖書が示す福音の本筋に立ち戻らねばなりません。それが「悔い改め」です。「悔い改め」は、個人的な事柄であるだけでなく、歴史的キリスト教会全体が今、神から求められていることです。そうでなければ、キリスト教会は「平和の福音」を本当には語ることは出来ません。奥歯にものが挟まったような言い方になるでしょう。
教会は福音の言葉を委ねられています。福音の言葉は人を生かす言葉です。人を殺す言葉は語ってはなりません。福音の単純性に立ち戻らねばならないのです。教会は、いつ、いかなる時も、基本的な「平和」の主張「(あなたは)殺してはならない」(出エジプト記20:7)という「十戒」の第六戒を躊躇なく語ることです。イエスの言われた「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ福音書26:52)の言葉を正確に明瞭に語ることです。
教会は、報復を語ってはなりません。イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5:43-44)語りました。これを受けて、パウロはローマ書12章17-21節で「だれに対しても悪に悪を返さず」と「復讐・報復すること」を禁じています。
キリスト教会が語るべきことは、イエスの十字架において実現した平和の福音、「シャローム」です。「剣をさやに納めなさい」。これが、イエスの明確な不戦、非戦の命令です。このイエスの言葉を基本にして、剣(武器)の廃絶と剣(軍備)によらないまことの平和の確立のために働くことが、キリスト者の使命であることを真剣に受け止め直すことです。今回の花は「信念」を表す白い木槿とします。(2022/9/9)
前回で終わりにしようと思いましたが書き足りないことがありました。それは「平和」の言葉が多様な使われ方をしていることです。世界平和統一家庭連合(旧統一協会)が「平和」を乱発しています。「世界平和連合」「平和大使」「天宙平和連合」等々で反共、勝共を語り、平和と真逆な実態を示しています。安倍元首相も「積極的平和主義」という言葉で戦争の出来る状況造りや軍備増強をしています。
表面的な言葉だけでは、ごまかされてしまいます。「平和」は、どのような立場からでも使われやすい言葉です。各自で「平和」の言葉に含まれている実態を検証・調査する以外ありません。「平和のための戦争論」もあります。本当に不戦、非戦の平和なのか、しっかり目を見開いて検証しなければ足元をすくわれます。
今は難しい時代になっています。平和が「国家」の在り方と深く関わりを持つからです。国家こそ戦争の主体です。宣戦布告をするのは国家であり、停戦や終戦を決定するのも国家です。国家によって国民は、募兵され、徴兵され、傭兵されて従軍します。すなわち、殺人行為を行うのです。教会とキリスト者は、この国家にどのように対峙するかということが基本です。
教会と国家・政府との分離が「政教分離」とされ、形式上は旧大日本国憲法でも信教の自由が記されていました。国家・政府は時の状況によって多様に変化します。政治と宗教を分離する時もあるでしょう。逆に「国家総動員」して全体を1つの方向に強制することも起こります。国家・政府はカメレオンのように可変します。
問題は教会の在り様です。教会の国家・政府に対する基本的な姿勢です。教会の自己理解と共に、教会の自律が問われているのです。国家・政府の出方によって教会もカメレオンのように変化するのではありません。国家・政府がどのようであっても、教会は教会であるという自己理解を確立することです。
教会は、「国家・社会のための有用な宗教」であろうとか、国家・政府の行うことの「精神的基盤を提供しよう」とか、決してしないことです。国家・政府に対して自律して常に批判的存在であり続けることです。それだけでなく、教会内部の有力者への忖度などをしないことです。信徒の有力者の力によって教会のメッセージが歪められてきたことも確かにありました。
教会は、世に在っても世のものではありません。キリストによって贖われた民であり、キリストの主権の元にあります。この地にある教会は「各地に離散して仮住まいをしている」(Ⅰペトロ1:1)信徒の群れです。この視座を揺るがせにしてはなりません。教会は、国家社会に依存しない、本質的に「神の国の民」です。神の国の視座から、国家社会、政府に忖度することなく、「否は否」と語る責務を持っています。これこそ寄留の民の責務であり、教会の自律性と言われてきたことです。
今日、戦争の主体も多様化しています。ロシア・ウクライナ戦争で、ロシアはウクライナに宣戦布告をしていません。大きなテロが行われ、各地で戦闘が行われますが古典的な戦争概念ではつかみきれません。ロシア・ウクライナ戦争にアメリカは参戦していませんが巨額な武器贈与をもって現実には参戦しています。武器を贈与し経済封鎖に加わることでEU諸国も日本もロシア・ウクライナ戦争に参戦しているのです。
戦争による惨劇・惨禍は深刻化するばかりです。一般民衆が大量に家を焼かれ、大量に殺戮され、女性が犯され、多くの孤児が生まれ、故郷を失って流浪する人たちが生じています。原発が攻撃されたら被害は地球規模になります。この惨劇を傍観できません。戦争の本質は、武力をもってする人間による人間の殺傷です。これは人間の尊厳性の根底的な否定です。世界のキリスト教会は、いずれの教会・教派であっても「合法的戦争、正義の戦争」など口が裂けても語るべきではありません。聖書に立ち戻って不戦、非戦を訴えねばなりません。
「殺してはならない」(出エジプト記20:13)、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ福音書26:52)という聖書の言葉に立って、不戦、非戦のために、普段からしっかり声を挙げねばならないのです。それが「平和を実現する人々」(マタイ福音書5:9)である教会の在り方であり責務です。
キリスト教会は、国家・政府に対して、しっかり距離を取らねばなりません。国家・政府に対して常に「クリティカル」(批判的)であるべきです。どんなに小さな群れであっても、「戦争は最大の犯罪である」と語り続ける教会の在り方は、社会にとっても、国家にとっても、大きな意味ある存在となります。これが教会の預言者的使命です。これをもって、わたしの現時点での「戦争と平和」についての理解の表明とします。今回の花は白百合とします。(2022/9/16)
最近は、「旧統一協会」(世界平和統一家庭連合)を巡って「カルト」言う言葉が飛び交っています。ここでは「カルトとは」を取り上げる前に、キリスト教の正統と異端についてお話ししておきます。
キリスト教会は長い間、ローマ・カトリック教会が正統性を独占してきました。異端審問などを通して、自分たちと少しでも毛色の違う者、違った考え方を異端として弾圧してきた歴史があります。宗教改革期には、カトリックとプロテスタントが互いに相手を異端と決めつけました。これらは自己防衛のためで恥ずかしい歴史です。
今日では、もはやローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会では互いを異端呼ばわりすることはなくなりました。互いに違いを認め合いつつ、キリストの教会であることを認め合っています。では、もはや「異端」はないのでしょうか。そもそも「異端」とは何でしょうか。
正統は「オーソドキシー」と言います。異端は「ヘテロドキシー」(ヘラシー)と言います。何をもって「正統」と言うのでしょうか。多くの方が安易に「あれは異端的だ」と言って人を排斥する場合があります。これは悲しいことで慎まねばなりません。正統とは、自己の組織防衛でもなく、他者の排斥でもありません。キリスト教の基本的信仰を維持しているならば「異端的」などと語るべきではありません。正統性とは信仰の基本的な教義・教理の問題です。
正統信仰の基本は、ニケア・コンスタンチノープル信条、カルケドン信条、使徒信条などの古代の基本信条に告白されている神の三位一体、キリストの二性一人格の告白にあります。これに66巻の聖書の規範性です。これは主にプロテスタント教会の主張と言えます。これに逸脱したものを異端と呼んでいます。正統信仰をしっかり保持しているならば、洗礼の様式、礼拝の仕方、教会の組織や運営の在り方、その他の細々したことが異なっても異端的などと軽々しく言うべきではありません。
しかし、今日、この正統信仰の基本から大きく逸脱し、ずれている教団があることは確かです。この視点からキリスト教系の「異端」と位置づけられているものは、「エホバの証人」(ものみの塔)、「モルモン教」、そして「旧統一協会」などがあります。通常のキリスト教教派の枠外で、もはやキリスト教とは言えず、わたしは「別個の宗教」と言っていいのではないかと考えています。新宗教なのです。今回の花はテッセンとします。(2023/1/6)
……特に旧約聖書の「律法」について
キリスト教散歩の「11」で、「聖書の解釈について」記しました。聖書は「神の言葉」と言っても古代の文献でもあります。十分に歴史的に、文献的に批判検討して読まねばならないと記しました。今回は旧約「律法」についての基本的理解を記します。
日本の多くの文学者たちは、キリスト教の信徒であるとないとに関わらずよく聖書を読んでいます。さすがだなあと思いますが、多くの著名人の作品を読むと共通した理解の仕方があります。聖書を律法主義な理解によって読んでいることです。聖書の真っ当な読み方から外れている場合が多く、やがてキリスト教から離れ悲惨な結果をもたらします。
現在、「ものみの塔」と言うキリスト教系の異端のグループの輸血拒否の問題が子どもの虐待として騒がれています。聖書を用いているので無関心ではいられません。
旧約聖書の「律法」について、基本的なことをお伝えしておかねばなりません。旧約の律法理解についてきちんと記したものがあります。「ウェストミンスター信仰告白」の第19章「神の律法について」です。
これによると律法を大きく3つに分けて考察します。1つは、「道徳律法」と呼ばれる部分です。「十戒」が基本になり、「義の完全な規準」で恒久的な服従の義務を負います。2つは、「儀式律法」(祭儀律法)と呼ばれる部分です。「普通に道徳律法と呼ばれる律法の他に、神は未成年の教会としてのイスラエルの民に対して、儀式律法を与えることをよしとされた。これは、いくつかの予表的規程を含み、キリストとその恵み・行為・苦難・祝福を予表し、…この儀式律法はみな、今の新約のもとでは廃棄されている」と記します。
旧約律法の多くは、この儀式律法に関わるものです。祭司と神殿に関わる事柄、動物犠牲に関わるもの、献げ物・献金に関わる事柄、等々です。これらはキリストによる罪の贖いを目指し、それを予表するための規程で、これらのすべてが、キリストの十字架の贖いによって完了しました。そのため儀式律法は「廃止されている」のです。「ものみの塔」の禁忌である「血を飲む」ことも廃止されています。
3つは、イスラエルの民に対する「多くの司法的な律法」です。これらは「その民の国家と共に終わり、……今はどのようなことをも義務づけていない」と記します。イスラエルの民への時代的な規定です。家族や夫婦の関係、財産の処理、隣人関係、その他です。旧約聖書のすべての律法・規程をこのように区分けして考えることが大切です。旧約の1つ1つの律法が、どれに属しているかを考え抜くことです。今回の花は白い花桃とします。(2023/3/31)