26、キリスト教と女性について(1)

 この課題は、宗教にとって重要な事柄です。いずれ記さねばならないと思っていました。気の重くなる課題ですが、何回かにわたって記しましょう。

 今の世はまさに「女性の時代」と言ってもいいでしょう。アメリカに女性の副大統領が誕生し、ドイツでは引退表明しましたがメルケル首相が長年にわたって活躍し、日本でも議会における男女の同数が求められ、立憲民主党では役員の男女同数が実現しました。セクシャルハラスメントは厳しく咎められています。

 宗教の世界に目を向けると、様相が一変します。わたしたち日本キリスト改革派教会も女性の牧師、長老が実現したのはほんの数年前のことです。まだ女性の牧師を認めないプロテスタントの教派も多くあります。何と言っても、ローマ・カトリック教会では女性の司祭・司教はまったく認めていないはずです。また、司祭職の結婚も認めていません。そのため、司祭・司教職にある者によるセクシャルハラスメントが跡を絶ちません。現代の世俗世界とは大きく異なっています。

 このようなキリスト教の実情は、それ自体で理解することも大切ですが、実はユダヤ教やイスラム教と対比することを忘れてはならないのです。キリスト教とユダヤ教、イスラム教は、実は同根なのです。最も古く、共通項と言えるのが、ユダヤ教で「旧約聖書」だけを正典としています。「旧約聖書」という呼び方はキリスト教の言い方で、ユダヤ教では「タナク」(トーラー・律法の書、ネビーム・預言書、ケスービーム・諸書、の頭文字)と言います。この「タナク」(旧約聖書)の上に、キリスト教は「新約聖書」を置きます。イスラム教は「コーラン(クルアーン)」を置きます。

 女性にかかわる事柄では、キリスト教はイエスの教えを基本とした新約聖書によって旧約を乗り越えていきました。イスラム教は、ムハンマドの教えに基づくコーランにより、むしろ「タナク」をより厳格化していると言っていいでしょう。

 ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)は、男性の場です。女性は片隅に追いやられ、会堂礼拝での奉仕は一切ありません。司式も、聖書朗読も、賛美も祈りも、男性の独占です。ユダヤ社会では、女性にも家庭などで一定の役割があり、世俗の領域では女性の実力が大いに発揮される場面もありますが、基本的には「割礼(男)の民」です。イスラムについては、わたしはよく知りませんが、ある一定程度の幅、許容度はあるようですが、基本的には女性の権利は世俗的にも宗教的にも確立していないようです。「保護」の対象に過ぎないのではないでしょうか。このようなユダヤ教、イスラム教との対比で見ることも必要ではないかと思っています。今回の花は優雅な「ダリア」とします。(2021/12/24)

27、イエスと女性たち(2)

 キリスト教における女性の課題は、新約聖書・福音書に記されているイエスと、イエスを取り巻く女性たちの姿が基本になっています。イエスは、当時のユダヤ教の律法理解に対して、「しかし、わたしは言っておく」と言い、律法成立の根源に戻って考え抜く姿勢を示しました。その結果、旧約の長い歴史の中に起源を持ち、結果として慣習として存在していた多くの差別を平然と乗り越えています。

 異邦人の女性やサマリアの女性に対しても平気で近づき、癒やし、救い、語らいます。ソーシャルディスタンスを保つべき「重い皮膚病」の人たちにも直接接して癒やします。イエスを取り巻く人々は、「罪人(職を持たない遊び人)、徴税人(ユダヤの富をローマにもたらす売国奴)、遊女(売春婦)」と言われる人たちでした。この人たちと平然と食事を共にしました。ファリサイ派の人たちが怒る理由です。

 イエスと弟子たち一行の旅を支えたのは女性たちでした。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(ルカ福音書8:2-3)と記されています。イエスの旅の姿、その状況が、後の初代教会の日常生活の基本になったのです。

 ただ1つの問題が、12人の「使徒」の中に女性がいないことです。キリスト教の最大の難関と言えるでしょう。ローマ・カトリック教会につながる今日の課題です。当時のユダヤ社会の状況を色濃く残していると言わざるを得ません。これはわたしの理解ですが、イエスの「社会適応」の1つであったと理解します。イエスにおいても、すべての社会的な課題が完璧に解決したと見ない方が自然です。イエスの言葉と行いによって基本的な方向が開示されたということです。(2022/1/14)

28、イエス後の教会と女性たち(3)

 女性にかかわることとして、イエス後の初代教会の在り方を形づくる第1は、復活のイエスとの出会いの出来事でした。最初に復活のイエスにお目にかかり、復活の出来事を告げるべく派遣されたのは、墓を訪れた女性たちでした。また、イエスの昇天を見送り、聖霊の降臨を待つ弟子の群れの中には分け隔てなく女性たちも加わっていました。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1:14)。

 新約のキリスト教会の出発を画するのが「ペンテコステ(聖霊降臨)」の出来事です。聖霊は男女の区別なく、集まっていた一同の上に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:3-4)。

 聖霊に導かれて、ペトロはこの聖霊降臨の出来事の意味を語り出します。旧約預言者ヨエルの言葉を引用し、この出来事は「終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」(使徒言行録2:17-18)と、預言されていたことだと示したのです。

 ここには革命的なことが語られています。神はすべての人に神の霊を注ぐ。息子・娘、若者・老人、しもべ・はしため、老若男女、世の身分に関係なく、言語・民族・などに関係なく、です。神の霊を注がれた者は、それぞれ賜物を与えられて「預言する」、神の言葉を語るのです。神の言葉を語ることは、神への奉仕の究極です。ここで、原則的に神への奉仕には一切の差別が撤廃されていると言っていいでしょう。

 この革命的な一切の差別・区別・境界の撤廃について、現実の教会は受け入れることが出来ませんでした。旧約からの伝統的思考が骨身に染みつき改革できません。現実の教会は、多くの失敗や経験を経て「気づき」が与えられ、次第に改められていくプロセスをとります。使徒言行録の記す教会の歴史が、それを示しています。初代教会だけのことでなく、今日に至るも差別の現実は存在し続けています。ヨエルの預言は完成されていません。終末における完成を望み見て、気付いたところから大胆に改めていくのです。今回の花は、水仙とします。(2022/2/4)

29、教会とオンラインの問題

 現在、日本の社会は新型コロナの感染禍で大きく揺れています。その大きな揺れの渦中にキリスト教会も置かれています。今朝(3月4日)の朝日新聞に「オンライン国会」の可能性が報じられていました。議事の公開制などの問題はあるが憲法上は可能ということのようです。

 今、キリスト教会は「集まること」におびえています。近隣の目を恐れたり、クラスターが起こることへの危機感から、多くの教会で、集会を出来るだけ絞る、あるいは中止して、「ウェブ配信」などによるオンライン礼拝が主流になっています。これは「オンライン国会」よりももっと根本的な課題を抱えているのです。キリスト教信仰は、判ればいい、理解できればいい、処理できればいい、という信仰ではありません。「直接性」を持つのです。このことを、多くの教会人は、どのように理解しているでしょうか。信仰の基盤が崩壊しかけているのです。

 イエスは言われました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18:20)。礼拝成立の基礎となる御言葉です。人数にかかわらず、数人でも現実に集まる。キリストの名によって、現実に集まりがなされる。そこにキリストが現臨しておられるという信仰なのです。オンラインでは、この霊的リアリティがなく、映像を見る、放送を聴くに過ぎません。

 オンラインでは「キリスト不在」と言ってもいいでしょう。もちろん、三位一体の神の臨在は「永遠、普遍、無限」であり、いつでも、どこにでも臨在されることは確かです。しかし、オンラインでは「礼拝共同体」の成立とはなりません。礼拝共同体の最も大切な「聖餐」は不可能です。例え行っても「バーチャル」(仮想)に過ぎません。コロナ禍もピークアウトしつつあります。どんなに危険が見込まれても、再び、集会の直接性、共に会い、互いに祈り合う霊的リアリティを早急に回復する時なのではないでしょうか。(2022/3/4)

30、病院とチャプレンについて

 今回は、「チャプレン」について記すこととします。日本の社会では「チャプレン」という職種、働きについて、ほとんど知られていません。欧米では大切な職種となっていますが、日本ではごく一部で存在しているだけです。

 わたしの知る限りのことですが、チャプレンは、軍隊にも置かれています。「従軍牧師」と言われます。基本的には、学校・学園や福祉施設、最も大切にされているのは「病院」です。わたしは従軍牧師についての知識はほとんどありません。日本ではキリスト教系の学校、施設、病院・ホスピスなどに「チャプレン」が置かれています。

 わたしは直接、チャプレンとしての働きには従事しませんでした。しかし、伝道者・牧師としての働きの中で、学校のチャプレン、福祉施設のチャプレンなどのお手伝いをしてきました。現在も、ある病院のホスピス病棟でチャプレンのお手伝いとしてチャペル(礼拝)の奉仕を続けています。その経験からお話しします。

 病院のチャプレンは、医師や看護師ではなく、心理療法士やカウンセラーでもありません。チャプレンは、患者本人だけでなく、患者を囲む家族、病院のスタッフまでをも含む広い範囲での「霊的ケアー」をする働きです。霊肉共に病む人を、身体だけでなく霊的な総体的存在として受け止め、病む人の魂の声を聞き、心に寄り添い、看取りにまで立ち会います。高度な専門的な知識と強靱な精神力が要求される割には、日本では軽視され、無視されています。

 欧米では多くの病院や施設に普通に置かれています。日本では「キリスト教系」を除いて皆無に等しいと言っていいでしょう。病院経営・施設経営の視点から不要視されています。病院の点数制ではカウントされない見えない働きです。病は決して肉体だけのものではありません。体が病むと、心も精神も病み痛むのです。体と心の癒やし、家族への霊的な配慮という総合的な視点が必要な務めと言っていいでしょう。「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」(金子みすゞ)。この見えぬものへの配慮の働きがチャプレンの働きなのです。今回は、節度と慎みを表すツツジとします。(2022/5/6)