1、「キリスト教散歩」とは…

「十戒」の解説を終えた後、さて、次に何を記そうかと考えました。「ニケア・コンスタンティノポリス信条」という古代教会の信条の解説を始めようかとも考えました。しかし、止めました。この「インターネット・オープンチャーチ牧場」を見ていてくださる方々には、あまり関心がないだろうし、わたし自身も準備不足を感じると共に、もう引退した身でそのようなことに取り組むだけの気力を失ってきています。

 牧師を完全に引退してから時間的な余裕ができ、テレビを見る時間が増えました。すると、企画された番組とは違い、俳優やタレントさんが街かどを歩く「散歩」番組に気づきました。俳優さん一人、駅前あたりから、適当にブラブラと好きな方角に歩き出します。なんの計画もアポもなしに、店をひやかしたり、面白い店舗や工場を見つけて入り込んで話を聞きます。お腹が減ったら、適当な店に入り、好きな料理を注文し、いろいろ蘊蓄を傾けます。表通りだけでなく、裏道に入り込んだりして、思いがけない面白い事業所などを紹介してくれ、こんなところに、こんな物づくりがなされていると、興味が湧きます。似たような番組もけっこうあります。見る人がいるのでしょう。しかし、見だしたら、興味が湧いて見てしまいます。なにげない街かどに、時に面白いお店や工場があり、そして歴史があるのです。「そうだ。こういうもののキリスト教版ができないだろうか」。そんな思いが湧いてきました。

 整理された組織的、専門的なキリスト教の道案内ではありません。行き当たりばったり、何にぶつかるか分かりません。表通りにも出ますが、裏道にも橫丁にも入ります。目に留まったこと、見聞したこと、感じたこと、何でも採り上げましょう。上からも、下からも眺めます。決して総合的、専門的には採り上げません。しろうとの目で見て、適当なところで終わります。無責任極まりないと言われるでしょう。そうです。もう、わたしは引退して責任を持たなくていいのです。

 この「インターネット・オープンチャーチ牧場」には、もう1つ「折々のことば」というページがあります。わたしの「時評」です。折々に感じた社会評論と言っていいでしょう。反対の立場に立つ人もいるでしょう。あまり直接的にキリスト教とは関わらせずに書いています。「わたしはこう感じ、こう考えている」というものを、折々に書いています。

 この「キリスト教散歩」のページは、まさにキリスト教に深く関わります。キリスト教の裏表を語ると言ってもいいでしょう。キリスト教に関わりを持って60余年、いろいろなことを見聞きしてきました。その中での率直な見聞記、随想を記させていただこうというものです。「よってらっしゃい。見てらっしゃい」。興味のある方は、どうぞご覧になって、お声をかけてくださいましたらと、願っています。(2020.9.25)

2、今、キリスト教会は……

    「キリスト教散歩」の手はじめに、「今、キリスト教会は……」という主題で、最近、見聞きしている教会の実情からお話ししましょう。わたしの見る限りでのことですが、どの教派、どの教会にもあまり元気がありません。元気に積極的に伝道していた教会もおとなしく、意気消沈しています。数百人の集会をしていた教会も痩せ細っています。理由ははっきりしています。「新型コロナウィルスの感染禍」を恐れるためです。

 キリスト教会の外で起こっているのと同じ現象です。老舗の店舗が次々に廃業しています。ライブハウスが休業しています。デパートや大きな系列の料理店などが整理統合されています。いろいろな業種のお店もあえいでいるようです。似た現象がキリスト教会にもあるということです。

 ソーシャルディスタンスということで、集会に集う人の数を極度に制限しています。礼拝をオンラインでのライブ配信に切り替えた教会も多くあります。集会そのものを取り止めてしまった教会もあるようです。「教会に、来ないでください」というような状況になっているのです。教会の最も大切な「聖餐式」をほとんどの教会で取り止めています。積極的に外に呼びかける「特別集会」などもすべて中止です。おかげで、わたしにも年に数件あった伝道集会の講師依頼はほとんどがキャンセルになっています。

 「教会」のことを、ギリシャ語で「エクレシア」と言います。意味は「召し集められた群れ」です。キリストによって、一人ひとり、あなたも来なさい、あなたも来るのですよ、と招かれて集うところが「教会」というところです。集会のことを「礼拝」と言います。プログラムに従って儀式を行うように思いますが、実は全体が祈りなのです。共に集まって、互いのことを覚えて、多くの人たちのために、祈りを捧げるところです。

 今、その集会が細くなり、自由に出来なくなっています。祈りがやせ細ってしまっていると言っていいでしょう。無観客での大相撲や野球、人を入れないでのコンサート、ライブハウスのようなものです。キリスト教会は、今、危機にあります。しかし、希望は地方にあります。都会から離れた地方の教会、田舎の教会が健闘しているのです。十分に注意しながらですが、いつも通りの集会をしっかりと守り続けている教会が多いのです。皮肉なことですが、元々、人数が少なく、コロナ禍の中でも比較的にクラスターからは守られているのです。田舎の教会が、しっかり集会を守り、しっかり祈りを捧げているのです。わたしは、この姿を見て、深い感動に包まれています。失望しないぞ、と。(2020.10.13)

3、今、「宗教改革」の意味は……

 まもなく「宗教改革記念日」が巡ってきます。10月31日です。この記念日を覚えるのは同じキリスト教会でもプロテスタント諸教会だけでしょう。最近では、プロテスタント教会の中でも覚える教会は少なくなっているのではないでしょうか。

 「宗教改革記念日」とは、マルティン・ルターが、1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に「95箇条の論題」を張り出して宗教改革運動が始まった、とされる日です。このルターの宗教改革運動に触発されて、フランス、スイス、オランダ、ベルギー、英国、北欧諸国へ広がり、ヨーロッパ諸国がしだいにローマ・カトリック教会の体制から離れて、プロテスタント諸教会へと変わりました。

 この宗教改革運動は、意外なところで日本にも大きな影響をもたらしているのです。ローマ・カトリック教会一色だったヨーロッパ世界が、プロテスタント諸教会の成立によって大きく様変わりしました。これに対するカトリック教会の失地回復運動と新世界の発見などによる植民地獲得競争が連結しました。カトリック教会の失地回復運動の一環としてイエズス会のフランシスコ・ザビエルによる日本宣教、キリシタンがあるのです。

 宗教改革の成立からしばらくは、カトリック教会とプロテスタント教会とは犬猿の仲と言ってもいいくらいでした。互いに「異端」として破門し合い、罵り合い、時に熱い戦いもしました。しかし、今日は様変わりしています。相互の主張もだいぶ理解し合い、互いが兄弟であることを認め合う時代となりました。1962年から1965年にかけて行われたカトリック教会の「第二バチカン公会議」以降です。

 今日では、なおそれぞれにある違いを認め合いつつ、同じ基本的信仰を共有する存在として、多くの面で共働の働きをしています。その最も大きな働きが聖書翻訳です。キリスト教信仰の土台である聖書を、カトリック・プロテスタントが協力して翻訳している状況です。それが現在、両教会で用いられている「新共同訳」聖書です。

 宗教改革固有の意味と重要性は否定できません。宗教改革の「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」という基本的主張は、今日も色あせてはいません。カトリック教会とプロテスタント教会との間には、なお大きな隔たりがあることを現実に認めざるを得ません。両者の合同は難しいでしょう。しかし、基本的信仰を共有する教会として、これからは互いに尊敬し合い、協力し合っていくことが求められているのです。とりわけ、日本では必要なことではないでしょうか。(2020.10.19)

4、「ハロウィン」の狂騒について

 10月31日は、プロテスタント教会では「宗教改革記念日」として覚えますが、日本の一般社会では「ハロウィン」の日として覚えられているようです。そして、これがキリスト教に関連するものとして多くの人に受け止められているようです。

 毎年、毎年、そしてコロナ禍の今年でも渋谷の大通りに仮装した人たちが集まり、飲酒して暴れ回り、多くの人たちの不快と迷惑となっています。わたしは、この人たちを貶めるつもりはありませんが、キリスト教と幾分かでも関わりのあるものとして理解されているとしたら、その誤解だけは解いておきたいと願っています。

 キリスト教では、カトリック教会もプロテスタント教会も、これについてほとんど何も語りません。それは全くキリスト教とは関わりのないものだからです。関係のないものですから、どの教会でも公に取り上げてはいません。無責任なこの欄で、「関係ないものだよ」と、きちんとお伝えしておきましょう。

 元々、ハロウィンの習慣はキリスト教以前のものです。イングランド、アイルランドなどに居た原住民ケルト民族のドルイト教の祭で、秋の終わり、冬の始まりに、死者の霊がその家族を訪ねてくると信じられていました。そこから精霊や魔女信仰、さらに死者の霊を迎える焚き火や仮装などがなされていたようです。日本の「盂蘭盆会」に相当するでしょう。キリスト教が英国に伝えられてから、これらは異教のものとして弾圧、禁止されましたが、しぶとく生き残りました。カトリック教会には、11月1日に「諸聖徒祭(万聖節)」というものがあります。これは聖人に列されなかった多くの殉教者を覚える日です。これと関係づけられて、その前夜祭として民衆の慣習の中で隠れて細々と生き残ったのです。

 この人々が、新大陸・アメリカに移住してから、教会的な縛りが緩められて、ハロウィンが生き返ったようです。これがキリスト教的な背景を持たない日本に移入され、教会的な縛りを全く持たない日本では「狂騒」となったのです。ハロウィンを祝うも祝わないも自由ですが、キリスト教と関係づけることだけはおやめください。また、クリスチャンを自認する人は加わらないことを勧めます。オカルト的なものとなります。(2020.11.13)

5、クリスマスを迎える備え

   11月になると、教会は急に華やぎ、忙しくなります。11月の最後の日曜頃から「アドベント」(待降節)が始まるからです。アドベントとは、「待つ」という意味の言葉で、クリスマスの4週間前から、準備し、心備えしてクリスマス(降誕節)を待つ時なのです。

 質素だった礼拝堂にクリスマスツリーが飾られ、いろいろな飾り付けがなされます。礼拝でも「アドベント・クランツ」というロウソクが灯されます。教会に集まる人々も華やいできます。初めて教会に行くのは、このような時期がいいでしょう。

 例年のいつものクリスマスの集会では、広い会堂も集まる人々で狭くなります。「クリスマス・おめでとう」(メリークリスマス)と呼び交わし、握手し、久し振りの人とはハグし合います。大人も子どもも着飾って挨拶し合う「ハレの時」です。遠隔地の人たちとは「クリスマスカード」を送り合います。

 クリスマスの礼拝では、懐かしいクリスマスの讃美歌が数多く大きな声で歌われます。聖餐式が喜びの内に執り行われます。礼拝後には、多くの教会で「愛餐会」と呼ばれる会食が行われ、その中で大人や子どもの楽しい多くのプログラムが行われます。アドベントは、このようなクリスマスの集いのための準備を1ヶ月かけてしていく時です。

  しかし、今年、2020年のクリスマスは、新型コロナウィルスの感染禍で、いつもとは様子がまったく違うのではないかと思っています。「マスクをしろ」、「三密になるな」、「ソーシャルディスタンスをとれ」、「会食をするな」……。これらの言葉は、例年のいつもの教会のクリスマスの喜びを半減させるものです。わたしは、もう牧師を引退していますが、今年の教会のクリスマス諸行事の様子については予測できません。どんなクリスマスになるのでしょう。でも、クリスマスは「喜びの時」です。ソッと静かに参加してみましょう。今回の花は、祝福と幸運を祈るクリスマスのポインセチアとします。(2020.11.30)

6、キリスト教と聖書

 今回は、「聖書」について記すこととしましょう。「聖書」は、この「キリスト教散歩」の一丁目一番地です。これから何度も採り上げることとなるでしょう。ここでは、聖書の重要性、必須性をお話しします。キリスト教の集会では、基本的にどんな集会でも聖書が読まれて、聖書から話がなされます。牧師や信徒たちの信仰の体験談が自由に語られるような時であっても、その基本に聖書のメッセージが語られて、これが基本とされていきます。これが日本の他の宗教、仏教や神道の集会と大きく異なるところです。

 キリスト教の集会では「お参り、参詣」という形を採りません。新年の初詣では、社殿や仏閣の前で、手を打ち、頭を下げ、願いをつぶやき、幾ばくかの賽銭をして終わりになり、すぐに社殿などから離れます。それに対して、キリスト教では「聖書」からの話を聞く一定の時間を取る「集会」をするのです。元旦の集会だけでなく、日曜日の集会も、葬儀式などでもきちんと「集会」をします。ちょっと出かけて、ちょっとお参りして帰る「参詣」型のものはないと言っていいでしょう。

 元旦などの季節の集会も、結婚式や葬儀式などでも、基本的には日曜日の礼拝式とあまり変わらない一定の時間を取った集会を行い、信徒たちはそれに始めから終わりまで出席します。そのすべての集会で、短いか長いかはありますが、聖書が朗読され、聖書からの話がなされます。

 キリスト教の信徒は、ほぼ毎日、聖書を読む生活をしています。時折、忙しい時には省略したり、忘れたりすることもあるでしょう。しかし、基本的には「聖書を読む」生活をしています。これは、日本人のほとんどを占める仏教徒や神道の人たちとまったく違う生活の在り方です。一人ひとり自分で聖書を読み、聖書を人生の基軸として生きる生活をするのです。聖書を基本として生きる。聖書を読み、聖書を語り教える集会を守る。これが、キリスト教の在り方と言っていいでしょう。(2020.12.25)

7、賛美する宗教

    ここでは「賛美歌」ついて記すこととします。キリスト教の最大の特徴は「歌う」ことにあります。日本の仏教にも「声明」と言い、経典に節をつけて歌うのですが、あまり一般的ではありません。また、イスラム教でも、わたしの知る限りですが、歌う習慣は見当たりません。

 それに対して、キリスト教はローマ・カトリック教会でもプロテスタント教会でも、ほとんどの礼拝・集会で、必ず「歌う」部分を持っています。「賛美歌」と記しましたが、ローマ・カトリック教会では「聖歌」と呼んでいるようです。プロテスタント教会の中で、福音派と言われる教会の多くでも「聖歌」という呼び方をしています。多くのプロテスタント教会では「讃美歌」としています。それぞれの主張があり、幾分の違いがありますが、歌われる歌の内容には共通しているのがほとんどです。そのため、ここでは総称的に「賛美歌」としておきましょう。

 歌う宗教としての在り方は、旧約・ユダヤ教からの伝統と言っていいでしょう。旧約聖書の中に「詩編」という部分があります。その詩編の中で「歌え」、「たたえよ」、「賛美せよ」などと言う言葉がたくさん記されています。詩編のほとんどは、神殿や会堂の集会の中で歌われたものです。内容的には、神をたたえる賛美、神の救済を描き歌う叙事詩、神に助けを求める祈り、神への信頼を訴えるメッセージ・教えや教訓などです。さらに恋の歌「雅歌」もあります。歌う伝統を旧約・ユダヤ教から受け継いできたのです。

 教会の礼拝・集会に参加して、実際に賛美歌を歌う体験をしてみてください。初めて「賛美歌」を歌う時には緊張するかもしれません。わたしは音譜も読めない、音痴であるという自覚を持っていましたので、メチャメチャ緊張しました。しかし、平気で平然と歌ってみてください。音符などにあまりこだわらずに歌っていいのです。周囲の人たちの声に合わせて声を出してみてください。しだいに馴れてきます。

 賛美歌は、基本的に「神への祈り」です。賛美歌の歌詞をよく読むと分かっていただけると思います。神への賛美、神への嘆き訴え、願い求めです。賛美歌を歌うことは祈りの世界に入っていくことなのです。旧約の詩編が「歌え」、「たたえよ」、「賛美せよ」と語るのは、神との出会い、神との交わりを体験させるためのものであると言っていいでしょう。賛美歌を実際に声を出して歌うことを通して、しだいに神を信じる信仰へと導かれていくのです。これが、キリスト教の在り方と言っていいでしょう。(2021.1.8)