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第265回 立ち上がってください、主よ

聖書=詩編10編1-12節

  1  主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。

  2  貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて、その策略に陥ろうとしているのに。

  3  神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。

  4  神に逆らう者は高慢で神を求めず、何事も神を無視してたくらむ。

10  不運な人はその手に陥り、倒れ、うずくまり、

11  心に思う。「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。

12  立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。

 

 今回は旧約聖書・詩編10編1-12節を取り上げます。聖書個所として少し長いため5-9節を省略しました。聖書をお持ちの方は10編全体をお読みください。この詩は「アルファベットによる詩」となっています。各節の文頭がヘブライ語のアルファベットで始まっている技巧的な詩です。作者も作成年代も不明です。わたしは捕囚期前の預言者伝統の中にある人の作品なのではないかと考えています。

 この詩編は「嘆きの詩」に分類されていますが、「神への告発の詩」と言った方がいいでしょう。社会的な不正義と不真実に対して、沈黙しているかのような神を訴えているのです。社会に不正義と不真実、構造的な富の強奪などが横行している今日の日本社会についても神に訴える「社会的な告発の詩」と言えるでしょう。

 詩人の視線は貧しい者に注がれています。「貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて、その策略に陥ろうとしている」事態に目を注いでいるのです。この詩において語られている「貧しい人」とは、経済的な貧しい人だけでなく、権力者たちによって職を奪われ、僅かに持つ財をも奪われ貧困に喘ぐ社会的な弱者が「貧しい人」とされているのです。

 貧しい人との対比で語られているのが「神に逆らう傲慢な者」です。傲慢な人たちは異邦人、異教徒ではありません。同じ神を信じると言われている同胞のイスラエルの民で、上流階級、民の指導層、富裕層に属する人たちです。彼らは「神に逆らい、自分の欲望を誇」り、「貪欲」を隠そうともしません。「主をたたえながら、(主を)侮っている」のです。民の指導者層に属しながら「神を求めず、何ごとも神を無視してたくらむ」のです。貧しい弱者たちに自分の力を誇示し、預言者たちが彼らに神の道を説いても「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで、災いに遭うことはない」と、我が世の春を謳歌しています。神など彼らの眼中にはありません。

 彼らの犯罪は富と権力を持つ人たちによる社会的、構造的な犯罪です。「口に呪い、詐欺、搾取を満たし」、「村はずれの物陰に待ち伏せし、不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す」。計画的で暴力的です。「茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ、貧しい人を捕えようと待ち伏せ、貧しい人を網に捕えて引いて行く」のです。彼らの餌食になった不運な人たちは「倒れ、うずくまり」、「神はわたしをお忘れになった」と嘆く以外ありません。

 この状況は、今日の日本社会とよく似ています。権力者はその権力を誇示し、富む者は益々富み、弱い者の僅かな稼ぎさえも奪い取っていきます。不正義と闇の力が支配し、弱い者たちの命がむしばまれ、社会に絶望が広がっています。

 この詩の作者は、この悲惨な状況を見て神に訴えているのです。「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」と。木の葉が沈み、石が浮くような時代になっている。神に逆らう傲慢な者が繁栄している。おかしいではないか。神の義は一体どうなっているのかと、神を詰問しているのです。

 詩人は訴えます。「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください」と。詩人もまた、無力な民の一員です。神に訴える以外になす術(すべ)はありません。「立ち上がってください、主よ」と。これは今日のわたしたちの祈りです。しかし、この祈りは決して虚しくなりません。この訴え、告発は、やがて聴かれます。バビロン捕囚が示すように、神に逆らう傲慢な者たちは、神の激しい怒りによる審きと滅びを刈り取ることになるのです。