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第262回 偶像の問題

聖書=詩編115編4-8節

4  国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。

5  口があっても話せず、目があっても見えない。

6  耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。

7  手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。

8  偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。

 

 今回は旧約聖書・詩編115編4-8節を取り上げます。この詩編115編はハレルヤ詩編集(111~118)の1つです。詩の初めか終わりに「ハレルヤ」という言葉が記されています。捕囚期後の作品で、神殿での祝祭で歌われたと言われています。この詩編を取り上げた理由は「偶像」についてお話ししておきたいからです。ほぼ同じ文言で詩編135編にも記されています。旧約の神の民、イスラエルの中で偶像についての共通の伝承の言葉があったのではないでしょうか。

 偶像については極端な理解と取扱いがあります。2001年、アフガニスタンでタリバンがバーミヤン渓谷にある石窟の2体の大仏像を爆破し、世界中から顰蹙を買いました。イスラム教の偶像敵視を物語るものです。これに類することは、どの宗教にもあります。「日本ではない」と思い込んでいますが、実は幕末・明治初期に神道による「廃仏毀釈」運動で仏像や仏具などが壊され海外に流出しています。

 わたしはキリスト教会の牧師をしてきましたが、仏像などを見るのが好きです。若い時代に和辻哲郎の「古寺巡礼」などを読んだ結果でしょう。暇があると、博物館などで展示される観音像などを見たり、木喰上人の特徴のある仏像などを見て回ります。わたしにとって仏像は崇拝や礼拝の対象ではありません。造った仏師の思い、仏像などによって示される救済思想などに思いを巡らせています。

 この詩編115編は、詩人のバビロン捕囚の体験に基づいています。まことに惨めな経験でした。「なぜ国々は言うのか」と問います。周囲の諸国民からの嘲りや辱めの声を聞いてきたのです。「彼らの神はどこにいる」とは、イスラエルの神を侮った言葉です。民が戦いに敗れ捕囚となることは、その民が信じる神の敗北であり、神の無力のしるしであると受け止められていたのです。

 これに対して、詩人は「わたしたちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる」と答えます。この詩人は、捕囚の中でも、なお神は神として支配しておられると信じています。「天にいます」とは神の変わらない支配の確信の表明です。

 その中で、異邦人の神々である「偶像」の無力さについて言及するのです。古くからの日本語(古語)には「偶像」という語はなかったのではないでしょうか。岩波の「古語辞典」にはありません。ラテン語、英語の「idola」の翻訳語です。ヘブライ語で「偶像」を表す語は幾つかありますが、基本は人の手が「刻んだもの」という意味の言葉です。

 この詩編の語る「偶像」は、人の手によって造られたものということです。すべての仏像、神像がこれに相当します。金銀によってきれいに仕上げられますが、口、目、耳、鼻、手足などがある像とは、人に象って、人によって描かれ、刻まれ、造形されたものです。どれほど巧みに美しく造形されていても、実際には語れない、見えない、匂いを嗅ぐことも出来ない、歩くことも動くことも出来ません。

 聖書では、自らの力で動くことの出来ないものは「死んだもの」と言われます。聖書に「生ける水」という言葉がありますが流れる川のことです。たまり水は「死せる水」です。人によって担われねば動けない偶像は「死せるもの」です。死せる偶像に「依り頼む者」は「皆、偶像と同じように」死せる者だと語るのです。

 聖書で語る「偶像」理解はここまでです。では、偶像には何の価値もないのでしょうか。崇拝とか礼拝の対象としてはなりませんが、全く価値がないわけではありません。産み出された芸術作品、工芸品、美術品として鑑賞し、評価することが大切です。作家は事物や人の姿を見て、感動し、内なる想いを造形化します。それらを見る鑑賞者も感動を共にします。宗教的な作品には、悲痛なまでの人の悲願や憧憬、深い願望が託されているのです。わたしたちキリスト者は、それらをしっかり読み取って、福音宣教の課題としていかねばならないと思っています。