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第251回 生涯、主を呼ぼう

聖書=詩編116編1-11節

わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ、苦しみと嘆きを前にして、主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てたわたしを救ってくださる。わたしの魂よ、再び安らうがよい。主はお前に報いてくださる。あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。命あるものの地にある限り、わたしは主の御前に歩み続けよう。わたしは信じる。「激しい苦しみに襲われている」と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。

 

    今回は旧約聖書・詩編116編1-11節から神の言葉に耳を傾けてまいります。神を愛する者としての信仰告白の歌です。「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう」。

 この詩の作者は無事平穏の中でこの詩を詠んだわけではありません。大きな艱難の中に置かれていました。詩人は今、死の恐怖に捕らえられています。「死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ、苦しみと嘆きを前にして」と語ります。旧約で「陰府」とは死者のいる世界を指します。大きな難病、回復不可能な死の病に取りつかれていたようです。死に至る太い綱が自分の全身にからみつき、死の淵にひきづり込んでいく。抗いようがない死の恐怖に取りつかれていました。

 その中で、詩人は神を呼び、神に叫ぶのです。「主の御名をわたしは呼ぶ。『どうか主よ、わたしの魂をお救いください』」と。新共同訳「わたしの魂」を、新しい共同訳は「わたしの命」と訳します。どちらにも訳せる言葉ですが「主よ、どうかわたしの命をお救い下さい」という、死の淵からの真剣な祈り求めです。

 しかし、続く詩人の言葉を詠むと苦しみは難病だけではないようです。「わたしの足を突き落とそうとする者から」、「人は必ず欺く」という言葉から判断すると、肉体の病だけでなく、この詩人を謀り、苦難に突き落とし、抹殺しようとする周囲の人たちからの社会的苦しみとも理解できます。病と共に、このような社会的な苦難により、霊肉共に死の淵をさすらっていたのです。

 体の苦しみよりも、信頼していた人に裏切られ、欺きと罠に陥るような時に味わう悲哀、悲しみ、痛みが大きいのではないでしょうか。敵対する人たちの悪意に満ちた攻撃に晒される時、絶望に捕らわれます。「死の綱がからみつき」「陰府の脅威にさらされ」ます。病による死の不安と人の欺きによって弱り果て、詩人は絶望の淵にさまよっているのです。

 しかし、「どうか主よ、わたしの魂をお救いください」と叫ぶ詩人の切なる祈りが聞かれました。危機における祈りが聞かれたという体験です。これは人生においてたいへん貴重な力強い体験です。この体験に裏打ちされて「主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださった」ので「生涯、わたしは主を呼ぼう」と決意したのです。「主を呼ぶ」とは、主なる神を愛し、神との交わりに生き、主に仕える決意の言葉です。

 祈ることは簡単なことのようですが、決して簡単なことではありません。祈ることは戦いです。祈ったってどうなるものではない、という諦めと不信仰との戦いです。諦めと不信仰とに抗って祈るのです。この詩の作者は「どうか主よ、お救いください」と祈った。単純な祈りです。神はこの祈りを聴いてくださいます。詩の作者は自分が救い出されたことを実感をもって感謝して歌っているのです。「弱り果てたわたしを救ってくださった」「わたしの目から涙をぬぐってくださった」「わたしの魂を死から助け出してくださった」。神が生きて働いてくださったのです。

 苦しみに遭い絶望的な状況におかれる時、わたしたちはすさんだ気持ちになり、神を恨み、信仰も無意味に感じてしまう。しかし、この詩の作者は絶望的な中からうめきのような祈りを捧げた時に、神が自分の近くにいて救い出してくださるお方であることを実感し、「わたしは主を愛する。生涯、わたしは主を呼ぼう」と、神への感謝と愛の思いを告白しているのです。