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第250回 常にみ顔を求めて生きよ

聖書=詩編105編1-6節

主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。主に向かって歌い、ほめ歌をうたい、驚くべき御業をことごとく歌え。聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人よ、心に喜びを抱き、主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ。主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を。主の口から出る裁きを心に留めよ。主の僕アブラハムの子孫よ、ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。

 

 今回は旧約聖書・詩編105編1-6節からお話しします。この詩編は「主に感謝をささげて御名を呼べ」という言葉で始まる感謝の詩編です。多くのキリスト教会の礼拝では「招きの言葉」として用いられています。バビロン捕囚から帰還して神殿を再建しました。その再建された神殿の聖歌隊によって歌われたものです。

 旧約のすべての詩編は実際に神殿のいろいろな集会で歌われました。新約の神の民であるキリスト教会の中でも継承され、詩編のほとんどが礼拝の中で歌われました。その典型が「ジュネーブ詩編歌」となって残っています。詩編を歌う営みの中から、やがてキリスト教会固有な賛美歌が産み出されました。詩編105編には、キリスト教会の賛美歌を構成する要素が存在しています。

 詩編105編は、幾つかの特有な言葉を持っています。1つは、宣教の言葉です。「諸国の民に御業を示せ」という言葉です。賛美の内容も「驚くべき御業をことごとく歌え」となっています。この詩編は感謝の歌であると共に伝道的な使命を想起させるものとなっています。これこそ賛美歌の大切な働きです。賛美歌はただ神賛美に終始するのではなく、実はメッセージソングなのです。

 この詩人は「主の僕アブラハムの子孫よ、ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ」と呼びかけて、主なる神が成し遂げた恵みの御業を諸国の民に語り伝えるようにと語りかけているのです。アブラハム、イサク、ヤコブの族長たちと結ばれた契約に真実な神の恵みによって、イスラエルの民が出エジプトし、カナンの地の取得に至るまでの救済が告白され賛美されます。寄留の小さな民であったイスラエルが流浪の中で守られ、やがて大きな民となり約束の地を受け継ぐこととなったと神の救済史を描く叙事詩です。詩編を歌うことが恵みのみ業の宣教となっているのです。

 これは、この詩編だけでなく、キリスト教会の賛美歌も同じです。賛美歌の中で、キリストにおける壮大な救いの恵みの出来事を物語りながら歌い上げています。賛美歌は、歌われる説教、宣教の言葉なのだと言っていいでしょう。

 この詩編の持つもう1つの言葉は自分の内に「想い」を潜める「瞑想」へと導く言葉です。神の選びと救出の歴史を歌う叙事詩を歌いながら、その恵みの御業を行う神へと心を開き、想い・思念を静かに神に向けていくのです。礼拝への備えです。「主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ」「主の口から出る裁きを心に留めよ」と歌います。

 「心に留めよ」は想いを潜め、集中すること、瞑想への勧めです。賛美歌の大切な働きは、それを歌う者、聞く者の心を整えて、神を待ち、神に心を向けさせ、神の言葉を聞くに相応しく整えることです。礼拝者は、神へと心を向けて、共に集う者たちと共に神の恵みを瞑想し、神を賛美するようにと導かれるのです。

 神を礼拝するに際して大切な言葉が語られます。「常に御顔を求めよ」です。「御顔」とは、神の臨在を表す言葉です。礼拝は、神のみ顔の前に立つ意識です。神のみ顔を仰いで、説教者を通して語られる神の言葉を聴くのです。礼拝は、生ける神の臨在を覚えて、神をあがめ、神と交わりをする時です。

 宗教改革者カルヴァンは「コーラム・デオ」という言葉を語りました。「御顔の前で」という意味の言葉です。「常に御顔を求めよ」とは、礼拝の時だけでなく、日常生活の中でも、ということです。礼拝の時だけ神の臨在を覚えるのではなく、毎日の普段の生活の中でも「御顔の前で」生きるのだということです。礼拝の精神が日常生活を支配する生き方です。この詩編が求めていることは、ここにあります。この年、神のみ顔の前で歩もうではありませんか。