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第249回 何ひとつ忘れてはならない

聖書=詩編103編1-5節

【ダビデの詩。】

わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって、聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。

 

 2024年の最初のアップになります。今回は旧約聖書・詩編103編1-5節を取り上げます。特に2節の「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」という言葉を中心に、幾らかのことを思い巡らせてまいりたいと思います。

 わたしたち日本人は「忘れやすい健忘症」の国民ではないかと思っています。アジア・太平洋戦争の悲惨な日々と敗戦の事実とその日々を忘れていませんか。少し前の安倍内閣時代の「モリカケ、桜」と言っても分からない人も多いのではないでしょうか。フクシマの原発事故の危険と故郷喪失で大騒ぎしたことも忘れ去られ、今では何ごともなかったかのようにして平然と原発を再使用しているのです。

 わたしは20年ほど前に旧満州を旅しました。日中戦争のきっかけとなった柳条湖畔にも行きました。柳条湖畔に記念博物館があり、入口に巨大な石碑一面に「勿忘(忘れる勿れ)9・18」と大きな字で刻まれていました。1931年9月18日、日本の関東軍が南満州鉄道を自ら爆破して、それを口実に満州全土を占領し、満州国を建国した発端の事件です。中国では、この出来事を「決して忘れるな」と大きな石地に刻みつけ、民族的な記憶としているのです。

 この詩編の詩人は自らを戒めるように自らに向けて、こう語ります。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」と。他の人への呼びかけでなく、「わたしの魂よ」、「わたしの内にあるもの」への呼びかけです。この詩の作者の内面性を深く印象付けています。この詩は「ダビデの詩」となっていますが、聖書学者たちによるとバビロン捕囚帰還後の作品と言われています。しかし、ダビデの生涯に沿って味わう時、よく理解できるのではないかと考えています。

 自らの魂の内なる碑に「忘れるな、忘れてはならない」と刻みつけるように語るのです。その内容は、神の計らい、自分に対する神の恵み深いお取り扱いです。どのような取り扱いか。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し」と記します。自分の多くの重い罪が赦された。罪ゆえに心が萎え、痛み衰えて病んだ時、根底から癒された。この赦しの恵みを忘れるな。主が病を癒してくださったことを忘れるな、と自らの心の碑に刻みつけているのです。

 詩人は、自分に与えられた主なる神の恵み深い取り扱いを一つひとつ数え上げていくのです。赦し、いやし、死の恐れから解放してくださった神の慈しみ、憐れみを数えていきます。多くの罪を犯してきた罪人の自分の生涯が、今なお守られているのはまったく神の愛と恵みによるのだ、と思い起こしていくのです。

 「聖歌」という賛美歌集があります。その中に「望みも消えゆくまでに」という賛美があります。その繰り返し部分で「かぞえよ、主の恵み。かぞえよ、主の恵み。かぞえよ、ひとつずつ。かぞえてみよ、主の恵み」と、繰り返し歌っています。失望し、落胆するような時、神が与えてくださった恵みの事実を一つひとつ数えて、思い起こしてみなさい、と歌っているのです。

 わたしたち日本人は忘れることが得意な「健忘症の国民」です。何でも水に流して忘れてしまう。どうでもいいことを忘れるのであれば問題ないでしょう。しかし、キリスト者としては、神を信じた時のことを決して忘れてはならないのです。洗礼の日のことを忘れているのではないでしょうか。神に立ち帰った日のことを、わたしたちは決して忘れてはならないのです。我が魂の内なる碑にしっかりと刻印しておくことが求められているのです。