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第248回 見よ、兄弟が共に座っている

聖書=詩編133編1-3節

【都に上る歌。ダビデの詩。】

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された、祝福と、とこしえの命を。

 

 2024年の年頭のメッセージとします。新年、明けましておめでとうございます。詩編133編を取り上げます。この詩を年頭に当たって取り上げた理由は、長い間、新型コロナ禍の中で自由に教会堂の礼拝に集うことが出来ず、親しく挨拶も交わすことが出来なかった時期が過ぎ、ある程度自由になった集いの喜びをもってこの詩を味わいたいからです。

 この詩は「ダビデの詩」となっていますが、実際に作詞されたのはバビロン捕囚から帰還後と言われています。捕囚から解放された民、散らされていた民が再び集められ、神殿を再建し、神殿礼拝が始められました。このイスラエルの民の統合を見ることが出来た喜びを歌った賛歌と考えられています。

 聖書の学者によっては、ここに大家族制を採ったイスラエルの家族、実際の兄弟たちの和合の姿を見る人もいますが、わたしはここに神殿礼拝に集う人々の姿を見ます。「兄弟が共に座す」という光景は、神殿に集うことができた神の家族の祝福、いけにえを捧げて、神の前で喜びをもって共に食す礼拝、そこに注がれる神の祝福を見るのです。

 「見よ、兄弟が共に座っている」。詩人は「見よ」と語ります。普通の光景ではない。目を見開いて見るべき「恵みの出来事」です。この「兄弟」は、肉親の兄弟姉妹と限定する必要はありません。契約の民の結集です。捕囚の地では見ることの出来なかった光景です。神殿が再建され、いけにえが捧げられて、神の家族が席に連なっている親しい交わり、と解することが妥当です。

 「座っている」とは「共に住む」ことも意味しています。この兄弟たちは神の家族としての兄弟です。親疎はありますが老若男女すべてを含む「兄弟姉妹」です。兄弟姉妹が「共に座す」ことは一時的なものではなく、この故郷の地に共に安住することが出来た幸いです。共同訳は「共に住む」と訳し、新改訳2017は「ともに生きる」と訳します。手を取り合い、助け合ってこの地に生きる姿です。詩人は、この恵みの出来事を「なんという恵み、なんという喜び」と歌います。

 「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り」と歌われているのは大祭司の任職の光景です。「かぐわしい油」は大祭司が任職される時に注がれる油です。大量の純粋なオリーブ油が大祭司の頭に注がれ、ひげに流れ滴り、「衣の襟に垂れ」流れます。大祭司の衣の襟にはイスラエル12部族の名前が記され、12部族を象徴する宝石が縫いとられています。12部族の民の隅々まで神の祝福の油がしたたり流れると歌っているのです。神の祝福が全てのイスラエル・神の家族の全体に及ぶことの表現です。

 「かぐわしい油」が「ヘルモンにおく露」のようだと詩人は歌います。「露」は山川草木に生気を与え、植物を育て生きづかせる力です。「ヘルモンの露」は普通の水滴と言うよりもおびただしく降る大雨を指しています。ヘルモン山に降る雨と雪が地下水となり、やがて噴出してヨルダン川となり、ガリラヤ湖となります。そのように神の祝福の油が、イスラエルの生きる地の全体に生かし、生き生きとした生気を与えると、歌っているのです。

 「シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を」。「シオン」は神殿の地です。この地で、神は祝福を宣言されたのです。シオンに注がれる神の祝福の露は「とこしえに及ぶいのち」であると。この詩は神礼拝の祝福の賛歌です。

 今日、キリスト教会で、この詩編を読む時は「キリストに在って」読まねばなりません。大祭司であるキリストに召され、キリストの祝福を求めて集う兄弟姉妹たちの喜びの歌です。コロナ禍が乗り越えられて、キリスト者が一つところに集い、神を礼拝するところに、生けるキリストが臨在し、いのちの水を与え、永遠に生きるいのちを約束してくださいます。この新しい年、キリスト者が共に集い、礼拝の恵みに生きようではありませんか。