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第242回 喜びの叫びをあげよ

聖書=詩編98編4-8節

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。琴に合わせてほめ歌え。琴に合わせ、楽の音に合わせて。ラッパを吹き、角笛を響かせて、王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。とどろけ、海とそこに満ちるもの。世界とそこに住むものよ。潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え

 

 今回は旧約聖書・詩編98編4-8節を取り上げます。詩編98編は、序に「賛歌」とあるだけで何の注釈もありません。神殿礼拝で用いるために作られた賛歌です。特定の祭儀との結び付きもありません。第二の出エジプトとしてのバビロン捕囚からの帰還と神殿での礼拝の幸いが歌われると共に、終末的な神の来臨の預言がなされています。

 先行する1-3節で、神賛美の根拠としての神の救済の恵みが歌い上げられています。神を賛美する理由は「主は驚くべき御業を成し遂げられた」からです。驚くべき御業とは「バビロン捕囚からの解放」です。主なる神ご自身が直接的、具体的に働かれて、神の力と義とを示されたのです。バビロンからの解放は、主なる神の救いのみ業、恵みのみ業です。この出来事を通して、主なる神がいかに力あるお方であり、義しい神であることが、世界中に、「諸国の民の目の前に」、現されたと歌っているのです。

 それに続いて、この4-6節で「全地よ、主に向かって喜びの叫びを上げよ」と、すべての人を神賛美へと招いているのです。この「神賛美」は、普通の神礼拝、落ち着いた静かな礼拝風景ではありません。礼拝には祝祭の要素があるのです。今日のわたしたちの感覚で言えば、「お祭り」と言っていいでしょう。「全地よ」は、自然界というよりも、イスラエルの人々だけでなく、全地の人たち、近隣の異邦人と言われている人たちにも、この祭りに一緒に加わって喜びを共にしてくれ、という呼びかけです。

 「お祭り」ですから、人間による全てのものが動員されるように求められています。賛美する人の歌声も「喜びの叫びをあげよ」「歓声をあげ」と、喜びの歓声、大きな声が求められています。その大きな賛美を支える楽器は「琴に合わせて」、「ラッパを吹き」、「角笛を響かせ」と、当時の人々が持つあらゆる楽器が動員されていると言っていいでしょう。

 多くの楽器が用いられたオーケストラのような楽団による礼拝・祝祭であったと推測できます。今日のキリスト教会では、礼拝が本来持つ祝祭であることの側面が忘れられています。原理的には全ての楽器が礼拝用に祝祭用に用いられてよいのです。詩編150編では太鼓やシンバルまで用いられています。多くの集会において、適切に用いられるのであれば除外されるべき楽器はありません。

 人の歌声と共に、全ての楽器が用いられて神を賛美するのです。今日、わたしたちは「礼拝」の在り方を極めて狭く理解しすぎているのではないでしょうか。礼拝はオルガンだけを伴奏楽器にし、静かに、信徒だけで密やかにするものでは決してありません。礼拝は本来、もっともっと自由な豊かな喜びの祝祭なのです。

 さらに、7-8節では、自然の世界、特に「海とそこに満ちるもの」、「世界(陸)とそこに住むもの」、「潮(しお)よ」と呼びかけ、「山々よ」と呼びかけ、神のすべての被造物に対しても、神賛美へと招いているのです。「潮」と言うと海を連想させますが、これは「川」なのです。新改訳2017では「もろもろの川よ、手を打ち鳴らせ」と訳します。これらの表現は決して凡神論でもアニミズムでもありません。万物が神の創造と摂理のもとにあって、神によって存在し生かされているという基本的な信仰から出ているのです。

 万物は神賛美に招かれ、神をほめたたえることによって存在の意味を有すると言っていいでしょう。自然界の被造物までが、神賛美に向かうのは終末的な出来事です。神を礼拝し、神を賛美することは、終末的な出来事です。「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」(ローマ書8:21)。人の救済と共に自然界も救済に与かり、全被造物が神を賛美するに至るのです。