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第239回 今日における宗教改革

聖書=ガラテヤ書1章6-8節

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。

 

 今回は新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙1章6-8節からお話しします。まもなく宗教改革記念日を迎えます。10月の最後の主日を「宗教改革記念日」としています。プロテスタント教会特有の記念日です。1517年10月31日、マルティン・ルターがヴッテンベルク城教会の門扉に「95箇条のテーマ(論題)」を張り出したところから改革運動が始まりました。ここからローマ・カトリック教会との激しい論争が起こり、後には熱い戦争にもなりました。

 しかし、今日ではローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会の間では戦いなどはありません。両教会で協力して最も大切な聖書翻訳をするようになっています。そのため、宗教改革記念をしなくなった教会もあります。では、宗教改革を記念する必要はなくなったのでしょうか。実は「宗教改革」とは、ルターやカルヴァンの時代の宗教改革運動だけのことではありません。宗教改革は歴史のある時点、1517年の記念だけでなく、いつも自分たちの信仰と生活を問い直し、改革し続けていくことが必要なのです。

 宗教は、どの宗教であっても必ず腐敗します。キリスト教も例外ではありません。世の権威・権力に媚びへつらいます。官僚主義や権威の上にアグラをかきます。特殊な体験を人にも強います。セクハラ・パワハラも横行します。金銭を要求したり、律法主義に陥ったり、おかしな聖書解釈へ嵌まり込むこともあります。それだけでなく、自己の正義を主張して戦争へと人々を狩りだし、さらに国家の戦争を後押しして戦争を正当化し、戦闘行動を祝福したりするのも「宗教」なのです。

 このような宗教に関わる人たちの逸脱行為は、キリスト教の世界でも決して珍しくありません。パウロはこう記しています。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」。ここには、初代教会時代のガラテヤ教会の多くの信徒が、パウロによる伝道開始まもなくの時から「他の福音に乗り換えようとしている」という路線逸脱の事態が明記されているのです。

  ガラテヤ教会は、パウロの第2回伝道旅行の時に、パウロの福音宣教によって始められ建てられた教会です。そして、パウロによってガラテヤ書が記されたのは第3回伝道旅行の途中、エペソで記されたと言われています。この間、数年しか経っていません。たいへん短い間に、ガラテヤ教会ではパウロの伝えた福音の本質から大きく逸脱し、変質してしまっていたのです。キリスト教会は、このような変質、腐敗の危険性を持っているのです。教会は、福音の本質からはずれる危険性を持っていることを自覚し、このような事態になることに備えていなければなりません。その意味で、宗教改革は過去の記念日ではなく、不断の課題なのです。

 キリスト教は聖書の宗教です。いつの時代であっても、わたしたちは「これは、おかしいな」、「何か、変だな」と思った時、聖書に立ち戻って聖書から新しく神の言葉を聞き直していく責任があります。聖書の解釈についても、教理の理解についても、信仰生活の実践においても、教会の活動においても、世と教会の関係においても、「これは、おかしい」と直感した時点で、聖書に立ち戻って検証し、声をあげていかねばならないのです。これが今日の宗教改革です。

 専門の牧師や神学者たちだけの務めではありません。すべての信徒の務めです。いつも聖書に立ち戻って、自分の信仰と信仰生活、教会の歩みを見直していく。自分たちの教会の在り方と信仰とを問い直し、はっきり声をあげて改革していく。それが今日における宗教改革です。その意味で、宗教改革は永遠の課題です。ルターが「絶えざる、不断の悔い改め」を語る理由です。