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第235回 主は平和を宣言されます

聖書=詩編85編9-14節

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように。主を畏れる人に救いは近く、栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします。正義は御前を行き、主の進まれる道を備えます。

 

 今回は前回に続いて旧約聖書・詩編85編の後半、9-14節から神のみ言葉を学んで参ります。詩編85編は全編にわたって、神によるバビロンからの解放の恵みに対する感謝と喜びが基調になっています。

 詩編85編の作者は、捕囚期前の預言者ハバククのように神の語る言葉に耳を澄まします。「わたしは神が宣言なさるのを聞きます」という新共同訳よりも、最近の共同訳「主なる神が何を語られるかを聞こう」という訳し方が適切です。自分だけが聞くのではない。他の者たちも一緒に「神の言葉を聞こう」と、共に聴くことへと誘っているのです。口語訳では「神の語られることを聞け」と命令形で訳しました。

 大切な神の言葉であるからです。詩人は神の告知を受け止めます。「主は平和を宣言されます」と言う。神がイスラエルの民に「平和」を告知してくださった。この「平和」は、「神との平和(シャローム)」です。捕囚の民が待ち望んでいたものです。神が御自分の民の罪を赦し、咎を覆ってくださり、国家的な罪に対する神の激しい怒りと呪いとを静めてくださったのです。

 時満ちてなされた神の側での一方的な赦しの決断です。この神の赦しの恵み中で、神との和解を得て、故郷の地へ戻ることが出来たのです。これは、新約の元にあるわたしたちキリスト者にとっては、イエス・キリストの十字架による罪の贖い、赦しの恵みと神との和解と言っていいでしょう。神の赦しによって、わたしたちは神との和解、神との親しい交わりを持つのです。恵みの中に生きる者として回復されました。

 そして、詩の作者は預言者のように、「彼ら(イスラエルの民)が愚かなふるまいに戻らないように」と警告します。彼らイスラエルの民は大きな失敗を経験しました。契約の民、十戒の民でありながら、神との契約を忘れ、十戒から離反して、富を追求し、軍備をもって国を建てようと「愚かなふるまい」をしたのです。それに対して、神が激しく怒られたのです。この貴重な歴史的な失敗の経験を忘れてはならないのです。

 「平和」は「救い」と言い換えられ、「主を畏れる人に救いは近く」と語られます。「主を畏れる」とは、神に心を向け、神の言葉に従うこと、十戒に生きることです。そのような者に、神は救いと平和を与えるのです。「近く」とは距離的な近さではなく、神と共にある近さです。「栄光」とは神の臨在を指し、捕囚によって失われた「神の栄光」の回復です。新共同訳は「栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう」と訳しますが、共同訳は「栄光は私たちの地に住む」と訳しました。神は、神の言葉である十戒に従う者と「共に住み続ける」のです。

 詩人は、この恵みの出来事を「慈しみとまこと(真実)は出会い、正義と平和とは口づけし」と歌います。神の義が満たされ、神の内なる全てが調和し、神ご自身が満足していることを物語る言葉です。その結果、神と人との交わりができるのです。この交わりは真実な交わりです。

 「まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」。人の真実は地から湧き上がり、神は天から慈しみの目をもって見てくださいます。人が真実をもって生きるところで「主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたら」すのです。

 この詩編の詩人は、再び預言者のように語ります。「正義は御前を行き、主の進まれる道を備えます」と。この「正義」は、単なる社会的な正義ではなく、信仰者の生きる道です。神との契約である「十戒」に従って生きる道が正義なのです。この道に生きようではないか。これこそ、主が共に歩んでくださる道なのだと歌っているのです。