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第230回 主よ、憐れんでください

聖書=詩編86編1-4節

【祈り。ダビデの詩。】

主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。わたしの魂をお守りください。わたしはあなたの慈しみに生きる者。あなたの僕をお救いください。あなたはわたしの神、わたしはあなたに依り頼む者。主よ、憐れんでください。絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは、主よ、あなたなのです。

 

 今回は、旧約聖書・詩編86編の前半1-4節からお話しさせていただきます。この詩編86編は「ダビデの詩」となっていますが、著作年代は比較的後代のものと思われます。この個所は、「お救いください」、「主よ、憐れんでください」と、真剣な神のあわれみ、神の慈悲を求める祈りの言葉です。

 キリスト教会の礼拝では、礼拝の始めの部分で「キリエ」という賛美が捧げられます。たいへん古くからの礼拝に入るための賛美です。「キリエ・エレイソン、キリエ・エレイソン」と数回繰り返して歌われます。意味は「主よ、憐れみたまえ」という祈りの言葉です。「憐れむ、憐れみ」という日本語の語感はあまり好ましくなく敬遠されがちですが、キリスト教信仰においては大切な言葉なのです。神の憐れみを求める…ここからすべてが始まるのです。

 1週間の間、わたしたちは多くの罪を犯してきました。罪人の自覚が、この祈りの基底にあるのです。思いにおいて、言葉において、行いにおいて、わたしたちは自覚するだけでなく、自覚しないことにおいても多くの罪を犯してきました。この罪人であるわたしを憐れんで、どうぞすべての罪を赦してくださいという祈りの言葉をもって礼拝に入っていくのです。

 この詩の作者は、自らを「わたしは貧しく、身をかがめています」と言います。「貧しく」とは、決して経済的な貧しさと言うだけではありません。神以外に頼るものを持たないという根源的な貧しさです。「わたしはあなたの慈しみに生きる者」ということと同じです。これは神を信じてひれ伏して神を礼拝する者の姿勢と言っていいのです。

 その神礼拝の中で、詩人の求めているのは「わたしの魂」に対する神の配慮です。わたしたちは多くの場合、体や身体、生活の状況を心配します。「何を食べ、何を飲み、何を着ようか」と言って悩み、神に祈り求めます。しかし、この詩の作者は、むしろ自分の魂の在り方に深く思いを致しているのです。わたしの魂を救い、守り、わたしの魂に喜びを与えてください、と祈り求めているのです。旧約の詩人の中でも極めて珍しい「魂に集中している祈り」です。

 その中で、神の民として神の「あわれみ」、神の「いつくしみ」を確信して、我が魂の在り方に神の助けを求めているのです。「わたしはあなたのいつくしみに生きる者」とは、神との契約に生きる者であること、「わたしはあなたに依り頼む者」も同じです。神に忠実に生きる者であることを示しています。この詩の作者は、イスラエルの伝統の中で誠実な歩みをしていることを告白するのです。

 そのゆえに、詩人は自分の魂の在りように深く沈潜するのです。困難に出会うときにも、その魂が罪を犯すことなく、清く守られるように。どのような苦難に出会うときにも、「絶えることなく、あなたを呼ぶわたし」であるように、と。神を喜び、神に在ることを「わたしの楽しみ」となるようにと、祈るのです。

 この詩の作者は、ひれ伏して神を仰ぎ見る礼拝の姿勢の中で生きています。礼拝の姿勢とは、冒頭で語ったように、「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)という祈りの姿勢です。一切の高ぶりの想いを捨てて、神の慈愛と赦しを求めて生きるのです。「わたしに耳を傾け、答えてください」、と祈るのです。「あなたの僕(しもべ)の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは、主よ、あなたなのです」と。この詩は、神を憧れ、神を慕い求める祈りの詩です。わたしたちも、この詩人と共に、ひれ伏して神を求めてまいりましょう。