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第228回 地の果てまで戦いを断ち

聖書=旧約聖書・詩編46編9-12節

主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

 

 今回は旧約聖書・詩編46編の後半から「平和」についてお話しします。この詩の前半は自然がもたらす災害について取り上げた歌です。後半は人間のもたらす災害、戦争についての歌です。8月15日は「敗戦記念日」です。

 この詩編の後半は、前半とは異なる歴史の事実に基づく独立した叙事詩です。この詩には背景があります。紀元前700年頃、南王国ユダの人々は恐怖に包まれ、右往左往していました。ユダ王国の首都エルサレムは、北方にあるアッシリア帝国の軍隊によって取り囲まれていました。アッシリア帝国は残虐なことで有名でした。戦争に勝つと、捕虜は自分たちの国に連行して強制労働に就かせ、女たちは奴隷にしました。そのため、エルサレムの街の人々はアッシリア軍を見て恐怖におののきました。助かる道はないか、と。

 その時、預言者イザヤは混乱する民にこう語ります。イザヤ書30章15節「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と」。神に信頼して静かにしていなさいと語ったのです。

 ところが、エルサレムの人たちは預言者の言葉などに聞きません。ある人々は軍備を増強しようとします。あるいは我先に逃げ出そうとして大騒ぎします。しかし、預言者イザヤは、アッシリアの大軍は必ず故郷に逃げ帰ると語り、落ち着き、静かにしていろ、と語ります。やがて不思議なことが起こりました。アッシリアの大軍が一夜にして撤退したのです。恐らく疫病のためではなかったかと言われています。

 この詩は、この歴史の事実を踏まえての短い叙事詩なのです。詩人は、神のもたらす平和を歌っています。「力を捨てよ」と語ります。平和は軍備を増強することによってもたらされるのではない。人間的な工夫をこらして右往左往することによって救われるのではない。神を信頼して、神の御手に一切を委ね、その導きに従うところに平和があるのです。この詩編の詩人が強調することは、神に信頼するところに平和があるということです。

 主なる神は「地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」お方です。今日、日本でも近隣諸国の脅威が語られ、戦争への備えが強調され、右往左往しています。福祉や教育よりも防衛費に予算が多く取られています。しかし、わたしたちの国は78年前の敗戦という貴重な歴史的経験から軍備によって国を守ることはできないことを学び、軍備に頼らない平和の国としての道を選択してきたのです。

 ところが今、この道が逆回転しています。軍備の増強によって国を守ろうとしています。この時、もう一度、敗戦の事実に立ち戻ることが必要です。軍備に頼るのではなく、神の言葉に信頼して、神に生きる平和の道を歩むことを祈り求めてまいりたいのです。神を知り、神に信頼して生きるのです。わたしたちは、この国で神を信じる者として平和を祈り求めて歩むのです。キリストに贖われ、神との平和の恵みをいただいた者として、神の平和の道具として、この世界に平和の実現を祈り求めることが、わたしたちの召しであり、ミッションです。平和を追い求めて生きることを、わたしたちの使命としてまいりましょう。