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第224回 あるじしてくださる主

聖書=詩編23編1(5)-6節

【賛歌。ダビデの詩。】

(1-4)主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。

(5-6)わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

 

 今回は旧約聖書・詩編23編後半、5-6節から神の言葉に耳を傾けてまいりましょう。詩篇23編は不思議な詩です。1-4節は、羊飼いと羊の親しい関係が描かれます。死の陰を行くような苦難の中にあっても、羊飼いであるキリストはわたしと一緒にいて、生活を支え守り、永遠に活かしてくださるという神の恵みが歌い上げられています。

 5節は一転して客を迎える主人の情景に場面が変わります。短いですから改めて記します。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」。「わたしを苦しめる者」が、敵なのか、迫害者なのか、旅人を襲う強盗なのか、「苦しめる者」の正体は分かりませんが、「わたし」は苦しめられています。この「苦難の中にあること」こそ、前半の「羊」に例えられている「わたし」と共通していることです。

 古代オリエントでは、強盗や敵に追われた旅人が天幕に逃げ込んできたら、その天幕の主人は旅人をかくまい、保護する習慣があったと言われています。この天幕の主人も、「わたしの主となってくださったキリスト」です。この5節の「あなた」は、羊飼いに代わって、苦難の中にある旅人を迎えてもてなす天幕の主人・キリストです。

 わたしたちは人生途上で多くの苦難に遭遇します。わたしは「苦しめる者」に囲まれています。苦しみはわたしを取り囲む周囲の人からのものです。誤解され、憎まれ、非難され、裏切られ、迫害され、わたしの心はズタズタになります。わたしの脳裏には敵の顔が大きくのしかかってきています。切羽詰まっています。

 しかし、「あなたの天幕」に逃げ込むならば、状況は全く変わるのだと、詩人は歌っているのです。敵から守られて、ゆったりとくつろぐことが出来ます。「あなたはわたしに食卓を整えてくださる」のです。今までは食事も喉に通らなかった。ところが、今はゆっくり心安んじて食することが出来る。それだけでなく、「わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」のです。来客の頭に香油(オリーブ油)を注ぐことは、歓迎と交わりの喜びを表す行為です。そして、なみなみと杯にぶどう酒を注いで迎え入れてくださるのです。

 敵に取り巻かれて苦難の中に生きてきた「わたし」は、この天幕でのもてなしによって、ホッと安堵の吐息を漏らして、安らぎを感じ、居場所を得たのです。これが信仰の祝福です。主なるキリストがわたしを迎えて、「あるじしてくださる」(接待してくださる)、これこそ、信仰の祝福、恵みなのではないでしょうか。

 そこで、この詩の作者である「わたし」は決断します。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」と。これが詩篇23編全体の結論です。羊飼いであるキリストの恵み、天幕の主であるキリストの祝福は、「いつもわたしを追う」のです。神の恩寵が、わたしの生涯、この地上の生だけでなく、永遠の生においても、わたしを追いかけ、捕らえて放さないのです。神の恩寵の勝利と言っていい。

 そのゆえに、わたしは「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」と告白します。わたしの住まいは、主の家しかありません。「主の家」とは、旧約時代の神殿のことではありません。神なるキリストのいます天の御国、神の国です。「わたし」の永遠の住まいです。わたしは生涯、御国に移されても、神と共にあり、平安と喜びの中で活き続けていくのです。