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第219回 ひとつのことを主に願う

聖書=詩編27編4-6節

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ、幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ、群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ、主に向かって賛美の歌をうたう。

 

 今回は、旧約聖書・詩編27編4-6節から、特に4節に集中して神のみ言葉を聴いてまいります。わたしは長い間、キリスト教の牧師・伝道者として歩んでまいりました。他の人から見たら一筋の道を歩み続けてきたように見えるかもしれません。しかし、わたし自身、自分の歩みを振り返ってみると、決して一筋の真っ直ぐな道を歩み続けてきたわけではありません。いろいろな願望に身を焼かれたこともありました。背伸びをしたり、がむしゃらに頑張ったり、時には落ち込んだりと、右往左往しながらの歩みでした。

 引退をして、すべての働きから身を引きました。神学・聖書学関係の書籍類も断捨離しました。今では、親しくしていた友人や知人も多く天に召されています。自分もまもなく召されるということを実感しています。その中で、わたしのこれからのただ一つの願いとも言えるのが上記の詩編27編4節の言葉に示されている「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えること」であります。

 この27編の詩の序文に1節として「ダビデの詩」と記されています。実際にこの詩がイスラエルの王ダビデのものであるかどうかははなはだ疑問であると言われています。ですが、ダビデの生涯に即して読んでいくと、この詩の意味が印象深く理解されてくるのです。ダビデは少年の頃から勇敢な戦士でありました。また有能な王でもありました。当時、麻のように乱れていたイスラエル12部族をまとめ上げて一つの王国としました。

 ダビデは、イスラエルの理想的な王と言われていますが、実際は決してそうではありません。皆さまもご自身で聖書をよく読んでいただくと分かります。ダビデは人として、実に多くの失敗を重ねました。多くの罪も犯しました。政治的にも倫理的にも失敗を犯し、晩年には息子に背かれ、クーデターを起こされました。信頼していた部下にも裏切られ、四面楚歌というような出来事も経験したのです。

 しかし、そのような無様な惨めな歩みの中で、彼を少年の時代から支えてきたのが、神に対する信仰、神への素朴な信頼でした。周囲の人々の嘲り、罵りの言葉の中で、彼が逃げ込むことの出来るのは神の懐以外ありませんでした。自分のいのちを狙う者たちが迫ってきています。命も危ない状況です。その危機の中で、ダビデの願うことはただ1つ、「神にある平安」でした。神以外に本当に頼るものは他にないと言っていいような状況です。

 「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」。わたしたちは多くの欲望の中で生きています。あれも欲しい、これも欲しい。多くの欲望によって、ダビデも、わたしたちも人生を歩んできました。

 しかし、ダビデもいのちが尽きるような時を迎えています。このようないのちの瀬戸際に立つとき、その人の本当の姿が明らかになります。ダビデにとって、願うことはただひとつ、主なる神の家に宿ること、主なる神と共に時を過ごす、神の恵みの中に目覚めて生きることでした。人生の終わりに臨んで、何を求めるのか。わたしたちも今、それぞれ考えねばならない最も大切な課題なのではないでしょうか。