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第213回 御言葉を学ぶ共同体

聖書=マタイ福音書28章18ー20節

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

 この個所は、ガリラヤの山で、復活のイエスが弟子たちに語った「宣教命令」と言われているところです。「宣教命令」は単なる「伝道の命令」ではありません。短く凝縮された言葉ですが、キリストの福音を宣べ伝えて、キリストの教会を形成するための基本的な見取り図を伴った極めて長期的、包括的、総合的な命令と言っていいでしょう。「このように、キリストの教会を形づくりなさい」ということです。

 前回は、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(なさい)」という言葉から学びました。ここでは「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という言葉を取り扱います。キリストの教会は基本的に「神の言葉、御言葉を学ぶ共同体」として形成されるのだ、ということです。

 皆さんは、キリスト教の信徒は、日曜日に教会に行き、礼拝を捧げることはご承知のことと思います。キリスト教の信徒、キリストの弟子とされた者たちは「洗礼」を受けたら、それで卒業ではなく、生涯にわたってキリストの弟子として日曜日の礼拝を守り、神の言葉に聴く生活に入るのです。礼拝を守ることが、キリストの弟子とされた者の基本的な在り方です。

 勿論、人によっていろいろな事情があります。病気になること、転居で教会が近くにないこと、日曜日に仕事がある人など、人によって様々な事情が出てきます。人が生きていくためには無視できない生活の事情があります。それらの事情をすべて無視して、何が何でも「礼拝を守れ」などとは、普通、教会は言わないでしょう。しかし、事情を整えて、日曜日の礼拝を守ることが、キリストの弟子の基本的な在り方です。

 その大切な「礼拝」は「神を拝む」ことです。週に一回、キリストを信じる信徒たちが集まって、イエス・キリストにおいて現してくださった神の祝福と恵みを覚え、感謝し、三位一体の神を賛美し、神を崇め、礼拝します。「公同礼拝」と言います。この神礼拝の式の中で、最も大切な礼拝の要素は「聖書の朗読」と、その聖書の解説としての「説教」です。礼拝は基本的に神の言葉の学びの時なのです。これがキリスト教の礼拝の在り方です。

 礼拝の中で「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」というイエスの言葉が実現するのです。「礼拝」は神を拝む時であると共に、神の言葉の学習の時なのです。毎週の礼拝において、神の言葉を繰り返し聞くことによって、信仰的、霊的に成長し、成熟していくのです。「あなたがたに命じておいたことをすべて」とは、狭い意味では「イエスの言葉」となりますが、ここで意味されているのは「旧新約聖書において啓示された神のみ旨の全体」です。「聖書全体のメッセージ」と言っていいでしょう。キリストの弟子となった者は、礼拝において語られる聖書のメッセージに養われて生きるのです。キリスト教会では、礼拝を中心とした信徒の教育を通して聖書的メッセージを伝えているのです。

 古代教会の時代は、人は礼拝の中で朗唱される聖書の言葉を聴いて暗記しました。カトリック教会の時代に入って絵画が伝達手段とされました。礼拝堂の壁一面に、聖書の大切な出来事、イエスのなした多くの働きの場面、さらに終末の事柄などが描かれています。文字を理解できない一般民衆になんとかして聖書的メッセージを分からせようとしての努力です。その頂点がラファエロなどによって描かれたバチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画です。

 プロテスタント宗教改革は、絵画ではなく、文字による伝達を重視しました。宗教改革と時を同じくして、グーテンベルクの活版印刷術が発明され、聖書や宗教改革者たちの著書が出版されました。聖書が各国語・各民族の言葉に翻訳され、大量に出版され、一般民衆も手にすることができるようになり、文字を通して聖書を理解するようになりました。また、プロテスタント教会は教会の活動として多くの人に文字を教え、聖書を読むことができるようにしました。

 今日、キリスト教会では、聖書をそれぞれ自国の言葉に翻訳し、翻訳された聖書を用いて「聖書的メッセージ」を伝達し、信徒をキリストの弟子として教育をし、整えていくのです。一人ひとりが聖書を読み、礼拝で語られる説教を通して、聖書において啓示されている神の言葉の全体を聴くのです。この神の言葉に聴き従って生きること、神と隣人に仕えることが、キリストの弟子としての生き方なのです。教会の礼拝を守り続けてくださるようにお願いします。