· 

第212回 洗礼を授けなさい

聖書=マタイ福音書28章18ー20節

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

 この個所は、復活のイエスが弟子たちに語った「宣教命令」です。大切なところですのでゆっくり解説していきます。「宣教命令」は単純な「伝道の命令」ではありません。「宣教命令」はキリストの福音を宣べ伝えて、キリストの教会を形成するための基本的な見取り図を伴った総合的な命令と言っていいでしょう。「このように教会を形づくりなさい」ということです。

 前回は宣教命令の基本「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という言葉を取り扱いました。今回は「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(なさい)」という言葉から「洗礼」について記します。キリスト教会では「洗礼」は極めて大切な儀式で礼典と呼ばれています。キリストに結ばれることを意味しますが、キリストに結ばれた霊的な新しい人の誕生を表す礼典です。

 復活のイエスは、「彼らに」と言います。イエスの「弟子となった者たちに」ということです。イエスの言葉を聴き、イエスに従う決意をした「弟子たちに」、「父と子と聖霊の名による洗礼を授けなさい」と命じられたのです。このイエスの言葉では、洗礼が「父と子と聖霊」という三位一体の神の名によって、となっています。しかし、初代教会の初期には、むしろ「イエスの名による洗礼」であったようです。ペトロの説教の中で「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録2:38)とあるように「イエスの名による洗礼」がなされていました。

 キリスト教の洗礼は基本的にイエスに結ばれる「イエスの名による洗礼」です。しかし、キリスト教会は、しだいにユダヤ教との折衝から唯一神信仰から「三位一体」論が形成されてきました。父なる神と子なる神イエスとの関係が問い直されました。その教理形成の中で、お一人の唯一の神の中に、父という人格(位格)があり、独り子という人格(位格)があり、さらに聖霊という人格(位格)があるという神秘が開示されて三位一体の信仰が形成されました。マタイ福音書はこの三位一体の信仰が形成される過程の中で成立した福音書と言っていいでしょう。

 「洗礼」と訳された言葉は、ギリシャ語「バプティゾー」です。この「洗礼」を巡っては大きな論争があります。「バプティゾー」という言葉は、水を注ぐ、洗う、浸す、濡らす、などの多様な意味を持っています。ここから、一部の人たちは洗礼という言葉を用いないで「浸礼」と言い「全身を水に浸す」全浸礼という方式だけが有効な洗礼だと主張しています。これは行き過ぎた理解の仕方です。

 イエスが洗礼者ヨハネから受けたヨルダン川での洗礼は、川の中で頭から水を注ぐ「灌礼」であったようです。今日、カトリック教会も多くのプロテスタント諸教会も頭に数滴の水を注ぐ「滴礼」を実施しています。洗礼は1つの儀式です。正当な司式者によって、三位一体の神の御名によって水が用いられて施されるならば、どのような洗礼の形式であっても有効です。

 大事なことは「洗礼」の意味することです。なぜ、イエスは弟子たちに洗礼を施すことを命じたのでしょう。洗礼を1つの儀式と見て、軽視し「あらずもがな」のものとして無視する人たちもいます。これは大きな誤りです。無教会のように洗礼を無視することは、イエスの弟子造りの基本を無視しているだけでなく、霊的いのちの誕生の意味を見失っているのです。イエスは、この宣教命令においてイエスに従う弟子を産み出し、キリスト教会を形成することを意図しています。洗礼は、キリストの弟子たちの群れである教会形成のための必須な礼典です。

 洗礼を執行するためには、正しく吟味されなければなりません。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに……洗礼を授け」と命じられています。イエスの弟子としての有り様が問われると言っていいでしょう。これは決してキリスト教の知識が問われるのでもありません。人格の高潔さが問われるのでもありません。まして「禁酒禁煙」のようなことが問われるわけではありません。完璧な服従が求められるのでもありません。

 赤子のような素直な信仰、イエスを神の子と信じる信仰が問われるのです。信仰は聖霊の働きです。聖霊の働きがここにある。聖霊がこの人に働いているという恵みの事実が認められることです。素直な素朴なキリストへの信頼が認められればいいのです。

 洗礼は確かに儀式ですが、霊的いのちの誕生を表す大切な礼典です。福音の言葉を聴いて、罪を悔い改め、イエスを「我が主、我が神」と信じ、罪を赦され、神の子とされ、永遠のいのちをいただきます。霊的な新しい人・キリスト者の誕生です。「霊的な新しい人」の誕生を見える形で示すのが「洗礼」です。そのため、洗礼は生涯にただ1回だけ施されます。

 洗礼によって、人はキリスト教会に迎え入れられます。よちよち歩きで結構です。生まれたばかりの霊的な赤子です。これから生涯にわたって神の言葉に養われて成長していくのです。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(Ⅰペトロ2:2)。