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第211回 すべての民をわたしの弟子にしなさい

聖書=マタイ福音書28章18ー20節

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

 この個所は、復活のイエスが弟子たちに語られた「宣教命令」と言われています。非常に大切なところです。ゆっくり解説していきます。前回は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」という御言葉を取り扱いました。父なる神から復活のイエスに神の御子としての権能が委ねられたことの宣言です。死人からの復活によって、イエスは天と地の一切の主権を持つお方となられただけでなく、「教会の頭(かしら)」となりました。

 復活のイエスが「教会の頭」となられたことは、イエスの弟子たちにとって最も大切なことです。僕(しもべ)となって罪人に仕えたお方が、その血による償いによって神の民を贖い出して、その民の「主」となってくださったのです。これがキリストの教会です。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒言行録20:28)です。

 教会にはいろいろな役目の人たちがいます。ローマ・カトリック教会では、司祭とか司教とか教皇と呼ばれる人たちがいます。プロテスタント教会でも、牧師とか長老、執事などの役員がいます。これらの役目の人たちは決して教会の「頭」、教会のトップではありません。教会の仕え人、キリストの弟子の一人に過ぎません。教会を統べ治める頭(かしら)は、復活のイエス・キリストだけです。この最も大切なことをしっかり自覚していただきたいと願っています。

 教会の頭であるイエス・キリストが、弟子たち全体に命じた言葉が「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」で、「宣教命令」と言われています。これは12人の使徒だけへの限定的な命令ではなく、復活のイエスにお目にかかったキリストの弟子の群れ全体(教会)に与えられた使命です。キリスト教会全体に対する使命です。

 この命令の基本は、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」です。「あなたがたは行って」と言われます。出かけていくことが命じられました。どこへでしょう。至るところ、世界中です。「すべての民」のところです。キリスト教会は、この時からユダヤ教の持つ民族的な殻が破られて世界的な存在となり、世界の人々を相手にする使命共同体となりました。キリスト教会は普遍的な広がりを持つ1つの教会、1つの群れです。この「すべて」には国籍、人種、民族のような差別・区別がないだけではありません。貧富も、階層も、性別も、障害や病も乗り越えてと言う意味での「すべての民」が福音宣教の対象なのです。

 「わたしの弟子にしなさい」。世界中の人たちにキリストの福音を伝えて、イエスの弟子を造ること、これがキリストの教会の基本的な在り方、使命です。「イエスの弟子」とは、単なる同調者、付和雷同する者たちのことではありません。また、「信者、信徒」と言うだけでもありません。「弟子(マセーテース)」は字義通りには「学ぶ者」ですが、イエスがたいへんよく用いたイエス特有の言葉です。「弟子」の意味をしっかり覚えねばなりません。

 イエスは「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」(マルコ福音書8:34)。これが「イエスの弟子」の在り方なのです。イエスの弟子とは、自分を捨てる・自己否定と自分の十字架を背負う・自己犠牲をもって、イエスの後に従う者ということです。

 この言葉だけを見たら、たいへん厳しく、誰も弟子にはなれないだろうと思うかもしれません。使徒と呼ばれた弟子たちもイエスが逮捕された時、従うことができずに逃げ出して弟子失格になりました。しかし、イエスは復活した後に天に挙げられて約束の聖霊を弟子たちにお与えになりました。聖霊降臨です。この聖霊の力によって、弟子たちは変えられ、イエスの真の弟子とされたのです。

 普通に考えたら、人を「イエスの弟子」にすることは奇跡と言っていいほど困難な課題です。自分の罪を認めて悔い改め、イエスを神の御子キリストと信じて、イエスの後に従って生涯を生きる者となることは、人間業でできることではありません。このような弟子づくりは聖霊の働きです。聖霊が人を用いて行う聖霊のみ業なのです。イエスは弟子たちを世界に派遣し、弟子たちは出て行って福音を宣べ伝えます。聖霊は、弟子たちの語る福音の言葉と共に働いて、この言葉を用いて、罪人の心に働き、心に宿り、内側から人を造り変えて、悔い改めと信仰、新しい服従を産みだしてくだいます。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である』」(ヨハネ福音書8:31)。