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第210回 ガリラヤでの復活の主との再会

聖書=マタイ福音書28章16-18節

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。……」

 

 この個所は、弟子たちと復活のイエスとの劇的な再会の場面です。復活したイエスは婦人たちに会って「行って、兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と命じました。このイエスの言葉を伝え聞いた弟子たちはしだいにガリラヤ湖のほとりに帰ってきました。「イエスが指示しておかれた山」とは、具体的にどの山であるかは明示されていませんが、弟子たちには語らずとも分かる場所でした。山上の説教を語られた山であったでしょうか。そこはかつて弟子たちに栄光の姿を示したところです。復活によって栄光を回復したイエスが新しい山上の説教を語らるのです。

 「十一人の弟子たちは」と記されています。イスカリオテのユダを除いた使徒たちです。しかし、復活のイエスが伝えるように命じた「兄弟たちに」は11人に限定されていません。11人だけがその山にいたのではなく、もっと多くの弟子たちが集まって来ていたのではないでしょうか。かってガリラヤ湖畔の山で、イエスのもとに多くの人たちが集まり、その話に耳を傾け、イエスを信じる弟子たちの群れが形成されました。今再び、その弟子たちが、復活のイエスによって召し集められて集ってきているのです。

 後に、パウロは復活のイエスを見た目撃者を数え上げています。「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」(Ⅰコリント15:5-6)と。この記述は、この時のガリラヤ湖畔の山での出来事の総括なのです。先ず「ケファ(ペトロ)」に現れ、彼の挫折を赦し、「十二人」(正確には十一人、使徒たちという意味で十二人)に現れて、彼らの逃亡の罪を赦し、その後で「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ」、新しい神の国の到来と使命を物語られたのです。弟子団の再結集、キリストの教会の結成です。「十一人」は多くの兄弟たちの代表と言っていいでしょう。

 「そして、イエスに会い、ひれ伏した」。復活のイエスがその姿を現し、弟子たちはその姿を目の当たりにして、復活の主・イエスの前でひれ伏し礼拝したのです。今日の主の日の礼拝の原型です。復活のイエスによって召集された弟子たちは、イエスを生ける神として礼拝し、復活のイエスをキリスト・救い主と信じて礼拝する信徒の群れ、キリストの教会が形成されたのです。

 「しかし、疑う者もいた」と記されています。福音書記者マタイが告げる真実です。復活の出来事は決して作り話でも夢や共同幻想でもありません。冷静な観察の視線があったことを記しています。復活のイエスを見た人の目には、イエスの容姿や顔貌に以前と違ったものがあった。イザヤ書53章が告げる「乾いた地に埋もれた根」「見るべき面影はなく、輝かしい風格もなく、好ましい容姿もない」受難のしもべの姿から、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ福音書17:2)という変貌山で示された栄光の姿へと変わっていたのです。

 復活のイエスは、弟子たちに「近寄って来て」言われます。かつてガリラヤ湖畔の山々で語られたイエスの姿が彷彿として浮かび上がります。山上の説教では、弟子たちの方がイエスの近くに寄ってきました(参照マタイ福音書5:1)。しかし、ここではイエスの方が弟子たちに近寄って弟子たちと距離を置くことなく親しく語りかけます。この後のイエスの言葉は「宣教命令」と言われますが、決して上から目線での軍人の命令のようなものではありません。1つ1つかみ砕くようにして教えた福音のメッセージです。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と語り出します。新しい事態が始まっています。これは福音の宣言です。マタイ福音書は、イエスが「ユダヤ人の王」と記しました。イエスの誕生において、東方の占星術の学者たちが「ユダヤ人の王」を求めてきたことを記します。イエスの十字架の上に掲げられた罪状書きは「ユダヤ人の王イエス」でした。

 しかし今、復活のイエス自身「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と語ります。イエスは、もはやユダヤ人の王ではありません。父なる神から、復活のイエスは、天上の世界も地上の世界も、すべての世界で「一切の権能を授かった」という宣言です。「権能」(エクズーシア)は、権利、権威、権力、力、支配などとも訳される広汎な意味を持つ言葉です。権威と実力を意味する「権能」です。低く僕となられたイエスが、高く引き上げられて神の国の王となられ、わたしたちの「主」となられたのです。「King of kings, Lord of lords」と賛美されるお方です。

 キリストの弟子であるわたしたちは、この神の御子の権威・権能の中に生かされています。わたしたちは、この地上のどのような権威・権力からも自由にされています。右顧左眄(人の思惑などに忖度する)することなく、このお方に結ばれた者として神にだけ従って自由な判断と決断をして生きることができるのです。