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第204回 神の見捨て

聖書=マタイ福音書27章45-46節

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 

 イエスは今、十字架に架けられています。イエスは十字架上で7つの言葉を語ったと言われ、4つの福音書はそれぞれの言葉を残しています。どの言葉も味わい深く、大切なイエスの十字架上の言葉です。その中で、福音書記者マタイは最も重要と言うべき言葉を記しています。

 福音書記者マタイは、十字架の出来事を時間経過の中で記します。イエスは午前九時頃に十字架につけられ、その後「昼の十二時に」なりました。明るい真昼のはずが、「全地は暗くなり」と異常な状況を描きます。この自然界の暗黒は何を意味しているのでしょう。昔、出エジプトの時に「三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ」(出エジプト記10:22)と記されています。この暗黒は、イエスに臨んでいる神の裁きの暗黒を示していると言えます。

 「三時ごろ」になります。「三時」は神殿において「焼き尽くす献げ物」(燔祭)の小羊を捧げる時間と一致しているということです。マタイ福音書は、この時間を明記することによって、イエスは「神の小羊」として屠られ、捧げられたのだ、と示しているのです。

 イエスは十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大きな声で叫んだ、と記されます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の言葉です。イエスの十字架の死の意味を物語るイエス自身が残した言葉です。信仰を持たない人には、この言葉は「なんと惨めな言葉だろう」としか理解できないのではないでしょうか。以前、若い女性から「なぜ、イエス様ともあろう人が、こんな惨めな死に方をしたのですか」と尋ねられました。

 今ここで、イエスはまことに惨めな死に方をしているのです。そのことを何一つ弁護する必要はありません。弁護してはならないのです。イエスを信じて殉教した人たちは神を賛美し、祈りを捧げながら死の床に着きました。しかし、イエスは決して殉教者ではありません。

 わたしたちが目を見開いて見なければならないのは、イエスが「神から見捨てられている」厳粛な事実です。イエスは自分の民であるイスラエルの人々から見捨てられました。弟子たちにも見捨てられました。それだけでなく、イエスのこの言葉は「神が、わたしを見捨てている」という叫びなのです。神の見捨ては神の呪いです。ここでは、イエスは神を「父」とは呼びません。裁かれるべき罪人の側に立って、自分を完全に罪人と一つとし、神の怒りと呪いを受けているのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う叫びは、神の裁きの深淵からの叫びです。ここに、罪に対する神の激しい裁きを見るのです。

 しかし同時に、わたしたちは、イエスの十字架に、神の深い愛とあわれみとを見なければなりません。イエスは罪のないまことの人でした。その罪なきイエスが、なぜ、このように神から見捨てられ、呪われねばならないのか。それは、イエスがわたしたち全人類の罪を担われたからです。コリントの信徒への手紙Ⅱ5章21節に「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」と記しています。イエスは罪人である人間の代表として、わたしたち人間のすべての罪を背負って十字架に架かっているのです。

 「罪となられた」イエスに対して、神は徹底的に罪を罪として怒り、裁き、見捨てているのです。神は、すべての人間のすべての罪、背神と汚濁とを焼き尽くさずにおかない聖なるお方です。真実の救いである神との和解と平安とは、罪を罪として徹底的に裁くことによってなされます。この罪の裁きを、罪人であるわたしたちに対してでなく、罪なき神の御子イエスに対してなしているのです。ここに、神の愛とあわれみとが示されています。

 神の裁きは具体的に「神の見捨て」としてなされました。神の御子であるイエスは、今まで一瞬と言えども父なる神との交わりが断たれたことはありません。しかし今、ここで、父である神との交わりが一切断たれたのです。「滅び」とは神の見捨てです。神から見捨てられることが滅びです。イエスは、古今東西の全ての人の全ての罪を負い、罪そのものとなって十字架で、神に裁かれ、見捨てられ、滅びを体験しているのです。

 イエスの十字架に何を見るのか。イエスが「わたしの身代わり」となって、神の処罰としての見捨てを一身に受ける凄まじさを見るのです。イエスは、このようにして十字架の上で息絶えました。わたしたちは、このイエスの代償的贖罪によって救われているのです。わたしがどんなに罪深くても、イエスが代わって、わたしの罪を担い、わたしの罪を贖い、処置してくださいました。このゆえに、イエスを信じてイエスと結ばれるならば、「あなたの罪は赦されている」と、神ご自身が宣言して下さるのです。