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第188回 つまずきと回復

聖書=マタイ福音書26章31-35節

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

 

 「つまずく」という言葉が出てきます。イエスは最後の晩餐を済ませ、詩篇の讃美を歌った後、弟子たちと一緒にオリーブ山のゲッセマネの園に行きます。道を歩きながら、イエスが弟子たちに語った「つまずき」の予告です。「つまずき」と訳された元のギリシャ語は「スカンダロン」です。この語は「スキャンダル」(醜聞)とも訳されます。元は「敵の侵攻を妨げる逆茂木」を意味していました。人が道を進む時、それを妨げるために道に置く木や石、妨害物を「スカンダロン」と呼びました。

 「つまずき」には、人に由来するものが多くあります。「あんたみたいになるんだったら、わたしは教会に行かない」と言われたら、信徒が求道者の前に置かれた妨害物になっているのです。わたしたちの不注意、過失などによって、求道者や初心の方がつまずきを覚えないようにしなければなりません。わたしたち信徒の責任です。

 しかし、ここでイエスが語る「つまずき」は、人間的原因によるつまずきではありません。神ご自身が弟子たちの前に「つまずき」を置くのです。聖書の中の多くの奇跡もつまずきです。イエスの復活も世間一般には大きなつまずきです。イエスも「わたしにつまずかない人は幸いである」(マタイ福音書11:6)と語ります。神の置かれたつまずきは取り除いてはなりません。聖書の中に置かれているつまずきを取り除くと、もうキリスト教とは言えなくなります。

 イエスは弟子たちに言います。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ」と。旧約・ゼカリヤ書13章7節を引用したイエスの予告です。神が牧者を打つ。すると、牧者を失った羊たちは散り散りになる、ということです。ここで語られている牧者とはイエスのことです。神の僕であるイエスが、神によって打たれ、叩かれ、見捨てられます。その結果、イエスに信頼して従って来た弟子たちは、イエスにつまずき、散らされます。

 イエスは、父なる神によって打たれ、捨てられ、死に渡されます。父である神がイエスを見捨てるなどは常識で考えられるでしょうか。これが弟子たちにとってのつまずきでした。神のみ心が分からなくなったでしょう。失望したでしょう。神によって置かれたつまずきです。それを和らげたり、隠してしまう必要はありません。このつまずきにしっかり向き合うことが必要です。弟子たちはつまずきます。つまずいてよいのです。やがて、イエスご自身がつまずきをいやし、つまずきの意味を教えて回復して下さいます。

 その回復の約束が「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」という言葉なのです。イエスは、神によって打たれ、死に渡されますが、復活します。イエスは明らかに復活し、「ガリラヤへ行く」と言います。ガリラヤは最初に弟子たちを集めた場所です。そこで弟子たちは再び結集されるのです。羊の群れが回復されるのです。

 ところが、ペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言います。ここに、ペトロの人間的な気負いが感じられます。しかし、イエスの予告通りにイエスを否認することが起こってしまいます。「今夜、鶏が鳴く前に」という数時間後には現実のこととなってしまった。ペトロの失敗は、どこに原因があるのでしょう。第1は、自分の強さにより頼んだことです。自分は大丈夫だ、自分は確かだという気負い、うぬぼれです。信仰とは関係ありません。本当の信仰とは崩れる弱い自分を率直に認めることです。

 第2は、神の言葉に信頼しなかったことです。旧約・ゼカリヤの預言も、牧者は打たれて、羊は散らされますが、「彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え、『彼こそわたしの民』と言い、彼は、『主こそわたしの神』と答えるであろう」と、回復が明記されています。イエスは「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言いました。弟子たちはイエスの言葉の意味について深く考えませんでした。イエスは、復活とガリラヤでの弟子たちの再結集を約束しているのです。

 信仰は、自分の力に信頼するのでなく、神の約束の言葉に信頼を置くことです。神の約束の言葉に信頼しないところで失敗が起こるのです。これは、ペトロだけの問題ではありません。誰でも同じです。自分の弱さを認めて、神により頼み、み言葉に信頼することが信仰なのです。わたしたちはつまずき倒れます。つまずき倒れることを恐れてはなりません。何度つまずいても、イエスは恵みによって回復してくださいます。イエスは、わたしたちをつまずきから回復し、信仰に生きることが出来るようにと、祈っていてくださいます。