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第174回 神と隣人への愛

聖書=マタイ福音書22章34-40節

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。

 

 信仰生活について最も基本的なことを教えています。ファリサイ派は細かな規則を作るのが好きでした。一つの戒め(律法)に対して、さらにその周囲に細かな細則を作っていきます。信仰の世界も「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」という規則を作っていくと信仰の本質が判らなくなります。ファリサイ派はモーセ律法を細分化し613の戒めに分け、その1つ1つを守ることが律法に忠実であり、信仰生活だと教えていました。

 ファリサイ派の律法の専門家が来てイエスに質問します。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と。613の戒めの中で、どの戒めが重要で、どの戒めが重要ではない、かとの判断を求めたのです。重要か重要でないかは、人によって判断が異なります。イエスを言い負かす絶好の機会となります。

 それに対して、イエスは2つの掟(律法)を示します。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」。1つは神への愛です。2つは隣人への愛です。個別の戒めではなく、律法全体を包括する律法の精神です。律法は信仰生活の規範です。イエスも「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ福音書5:17)と言いました。律法は大切ですが、律法の基本精神によって支えられないと律法主義になります。パウロは「愛は律法を全うする」(ローマ書13:8)と言います。

 「愛する」ことが、なぜ、「掟」と言われるのでしょう。「掟」と訳された言葉は「命令」「指令」とも訳せる言葉です。人に強制するものです。愛は強制されるものではないはずです。愛は心から湧き出てくる最も自由な自発的なものです。誰も、わたしに「この人を愛しなさい」と命令することは出来ません。愛は強制されてはならないし、義務づけられてもならない筈です。

 しかし、イエスは「これが最も重要な第一の掟である」と語り、愛することが掟、命令であると示したのです。実は、イエスの示した掟はユダヤ人であればよく知っている言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4-5)。この文言は「シェマー」と言われ、ユダヤ人は朝夕、信仰告白として唱えていたからです。

 申命記6章20-24節に、神を愛することが、なぜ、命令、掟なのかということが説明されています。神は、弱小の民イスラエルを選び、保護し、導き、助けて、約束の地を与えて下さった。イスラエルの人々の生活すべてが神の恵みによるのです。神の選びと祝福、恵みがなかったら、今のイスラエルはなかったと、モーセは語っているのです。この恵みの事実をしっかり見詰めるならば、神を愛することが当然のこと、当為として出てくると語るのです。神に深い恩義がある。そのゆえに、神を愛することがなにより優先されねばならないということです。

 今日のわたしたちにとっては、キリストの十字架の贖いという新しい出エジプトの恵みです。神の愛に値しない罪人のわたしを愛し、わたしの救いのためにキリストが十字架を担って下さった。わたしが、今あるのは、神の一方的な愛、キリストを十字架に渡された神の愛によるのです。この恵みの事実を深く覚える時、神を愛することがわたしたちにとって、当然のこと、わたしたちの責務であることが分かります。

 さらに、愛は実践するものです。ファリサイ派の学者は、イエスが律法についてどれだけ知識があるかと知識を求めました。しかし、イエスは「愛しなさい」と語ります。神を愛し、隣人を愛することの実践です。神を愛するとは、具体的に神を礼拝することです。神がわたしたちを愛し、わたしたちに仕えて下さった。それに応えて、神を愛するとは神に礼拝を捧げることです。神を礼拝せずに神を愛しているとは言えません。

 第二の掟「隣人を自分のように愛しなさい」は、神への愛に密接しています。「同じように重要である」と言います。「同じように」とは、同一ではない、区別があるのです。神を愛することが第一です。しかし、それだけで良いのではありません。ファリサイ派は神への熱心を主張しましたが、よきサマリヤ人の例話に出てくる傷ついた隣人やサマリヤ人、異邦人などには見向きもしません。イエスは、これが神を愛する者の姿なのかと問うのです。

 わたしたちも、ファリサイ派のようになってしまいかねません。聖書の中心メッセージは、愛することです。神がわたしたちを愛して下さいました。そのゆえに、わたしたちも神を愛し、神に仕えるのです。同じように、隣人を愛し仕えることが求められているのです。パウロは「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(ローマ書14:15)と言います。わたしに注がれている神の愛は、隣人にも同じように注がれていることを覚えてまいりましょう。